2012年4月8日日曜日

日曜日の話し(4/8)

ずっと昔、岡山市で暮らしていた。旧制六高の跡地にたつ岡山朝日高校横の公舎である。独身時代から新婚早々時代にかけてのことだ ― あまり関係のないことではあるが。

その頃、無味乾燥な役人生活の合間、日曜日になると倉敷美観地区を散策するのが息抜きだった。大原美術館の横に、今でもあるのだろうか「エル・グレコ」というカフェがあった。その店の名は同美術館に所蔵されているエル・グレコの名作「受胎告知」によることは当然ながら小生にも察しがついた。下の画像がその作品である。


エル・グレコ、受胎告知、1595‐1600

但し、上の画像はWeb Gallery Of Artで提供されているもので、大原美術館ではなく、ハンガリー・ブダペスト市の美術館で所蔵されている方である。

エル・グレコは彼のニックネームであり「ギリシア人」という意味の普通名詞である。ま、秀吉の渾名が「さる」という普通名詞であったのに似ている。本名はドメニコスでありクレタ島出身のビザンティン風イコン画家として出発した。その後、イタリアに赴き、隆盛を極めていたイタリア・ルネサンスの画芸を習得しようとしたが、それまでに身につけた技が邪魔をしたのか、むしろ凡庸で目立たない弟子であったそうな。その後、ドメニコスは新興スペインにわたり、そこで後半生をおくるが、芸術家として大成したのはスペインの地である。人々が「よお、ギリシア人!」と呼んでいたのでしょう。新興の地が、第二の人生を送りつつあるドメニコスには、イタリアよりも適していたのであろう。それがエル・グレコである。

上の画像は、小生がみた「受胎告知」とは微妙に色調が違うが、大変懐かしい。

「よお、ギリシア人!」と呼ばれたビザンティン画家は、少なくとももう一人いる。「ギリシア人テオファーネス」(Theophanes the Greek)だ。


Theophanes the Greek, Madonna of Don Icon, 1380

テオファーネスは、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルで生まれた。後に帝国を蹂躙したトルコ人が街の名を質問したとき、「おれたちゃ、街にいるに決まってるだろ!」と、そう答えたそうだ。英語にすれば"in the town!"、ギリシア語では”イスティンボリ”。国民にとって「街」といえば都を指す。その発音がイスタンブールという現在の呼称の始まりであるそうな。ギリシア人は、今でもイスタンブールとは呼ばず、コンスタンティノポリスと旧名で呼ぶそうだが、小生は確かめていない(注: 益田朋幸「ビザンティン」山川出版社による)。

ビザンティン帝国は、1453年の滅亡まで国としては存続するが、テオファーネスの頃は政情、経済力ともに振るわず、国力は衰え、国の未来はないことが誰の目にも明らかであったのだろう。ひとつの国が滅ぶ前には、例外なく、エリート層の流出、国軍弱体化、国防費膨張、財政破綻、増税、そして現役世代の流出と流民化。そんなパターンをたどるものだ。ビザンティンもそうであったと思われる。テオファーネスも、当時モンゴルの軛から脱しつつあったノブゴロド公国、更にモスクワ大公国に移住して、そこで創作活動を展開したようだ。<ロシアのエル・グレコ>であったことは間違いない。

14世紀から15世紀は「ビザンティンから来た移民」、「ビザンティンの遺民」が、ヨーロッパ世界の周辺部まで含め、広く拡散した時代である。そんな移民なり遺民は、現代ではそれほど目立つ存在ではない。というか、ほどんどいない。しかし、永遠の寿命をもちえた国は、歴史を通して、一つもない ― 日本は皇室と日本列島の領土が概ね変更なく継承されてきた、その点に着目する限り、稀な例外的国家である。百年後の世界において、<世界連邦>が結成され、元アメリカ人、元ドイツ人、元日本人という風なニックネームが流通しているようであれば、それはそれで人類の進化のありうる可能性だ、な。

だとすれば<エル・グレコ>は大変サバけた、嬉しくなるような呼び名ではないか。元・日本人ならエル・ハポネとでも呼ばれるのだろうか。

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