確かに東日本大震災では30メートルを超える津波が現実に発生した。北海道でも同程度の津波が「襲来する」地域 ― いつか将来、襲来するかもしれない、という意味だ ― が新たに設けられた。
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このような安全管理の基礎になるのは確率分析の中の極値分布についての知見である。読んで字の如し「Extreme Value」をどこまで予測するかがテーマになる。しかし、たとえば20メートルを超える津波がやってくるとして、その場合の津波の高さの条件付き確率分布はどうなっているであろうかと問いかけるとして、その条件付き期待値を計算しても、それほど意味のない回答であろう。その時の目安は、35メートル程度でありますと言ったところで、その35メートルは期待値であり、それを上回る40メートルの津波が発生する確率もゼロではないことを暗に織り込んでいるからだ。世間が知りたいのは、端的にいえば
最も高い津波は何メートルに達しうるのか?
この質問であろう。この問に対する解答も単純にして明快である。<可能性>という側面だけを言えば、ズバリ、無限大。これが正解である。それ故、想定する最大津波をたとえ100メートルに設定しても、完全に安全ではない。
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そもそも巨大津波が発生する原因として、何ゆえに地震のみを話しているのか?小生、さっぱり分からない。巨大津波を語るのであれば、巨大隕石の衝突の可能性も語るべきであろう。たとえば20世紀初めのツングース巨大隕石、中生代にユカタン半島に落下した巨大隕石は有名である。旧約聖書に登場する「ノアの大洪水」も歴史的事実であり、隕石が地中海に落下したのが原因ではないかと憶測されているときく。内容の正確性を本ブログの著者自身が確認したわけではないが、隕石衝突のショックについてこういう紹介もある。この時、メキシコ沿岸を襲った津波の高さは、数千メートル(!)に達したと推量されるという。
<杞憂>という言葉がある。空が落ちてきはしないかと心配する「杞の国」の人たちをみて古代中国人が作った言葉である。その意味であるが、起こりもしないことを心配するのは馬鹿げていますよ、と。国語の授業ではそんな風に習ったはずだ。しかし、この解釈は本筋ではない。空が落ちてくるような事態になれば、それこそ仕方がないし、それを防ぐ手段もないのだから、心配するのは合理的ではない。そう解釈するべきだろう。
実際、1906年にハレー彗星が地球に大接近した時、軌道を計算した天文学者達は地球との衝突を心配したようである。世界各国の大都市では、地球最後の日がやってきたというので、毎晩、どんちゃん騒ぎが繰り広げられたという。このどんちゃん騒ぎこそ、可能な選択肢の中から、最も満足の行く行動を選んでいる点で極めて合理的である。出来もしないことをしようと周章狼狽する方が非合理的である。自分の信仰する神に天国への扉を開かれんことを願うのが人間として出来るギリギリの行動であろうと、小生も同感する。
もちろん20世紀初頭と比べれば人間が手にしている技術ははるかに進歩しているのだが、それでも惑星レベル・宇宙空間レベルの災厄は人智を超えている。さる韓流ドラマでもそんなセリフがあったかと記憶しているが、生きていること自体が危険なのである。どこかで割り切るのも<科学>の内である。
防災対策は、所詮、気休めであるというと言い過ぎになる。しかし、どんな防災対策でも、その何パーセントかは気休めである側面が混じっている。この命題を否定できる人は一人もいないはずである。
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