今夕の読売新聞によれば、本日の判決によらず、小沢一郎議員の責任はなお残るという。
民主党の小沢一郎元代表は26日、陸山会事件の判決で無罪を言い渡されたが、野党は「元代表には政治的・道義的責任がなお残る」(山口公明党代表)などとして国会で説明責任を果たすよう厳しく求める構えだ。(出所:読売新聞2012年4月26日21時56分配信)
政治資金の取り扱いに関して不正な共謀の容疑がかかったが、検察庁は起訴をしなかった。それでも求めに応じて強制起訴となり、裁判を行い、そこで無罪の判決となった。司法府の判決で無罪となった後、それでも残る<責任>とはどのように定義される責任だろう?何に対する責任を指しているのか、小生はその論理と思考回路が再現できない。
国会議員としての<道義的責任>を指して言っているのであれば、そう言って攻撃している与野党の他の国会議員は自分の立場に応じた<道義的責任>を現に果たしているのだろうか?<審議拒否>は、国会対策上の戦術として許されるかもしれないが、有権者に対する道義的責任を果たしていないのではないか?たとえ、世論の風当たりの厳しさに戦術を変更したとしても、一度は審議を拒否しようと決断したこと自体、道義的責任にもとるのではないか?なぜ審議拒否を一度は決意したか、国民に対して<説明責任>があるのではないか?
国会議員は法律(=国会法)によって、「議員は一般職の国家公務員の最高の給与額(地域手当等の手当を除く)より少なくない歳費を受ける」と規定されている。毎月の給与は200万円程度に達し、年間収入は各省庁の事務次官より高額のはずである。道義的責任もまた、給与に比例して、非常に重いはずである。
確かに小沢議員は一連の騒動に対して、不徳のいたす所というか、一連の結果に対して道義的責任はあるのだと思う。「恥とは考えないのか」と、そういうことだよね。それは分かる。しかし、公訴もできず、有罪にもならなかった国会議員になお道義的責任があると指弾して、真っ当な議員活動を許さないのだとすれば、許さない側にこそ、その理由を分かりやすく説明する<道義的責任>があると、小生は思うのだが、どうなのだろう?たとえは悪いが、一度、試験で不正行為の疑いをかけられたら、学生委員会の調べでシロと結論されても、その学生は疑われたという事実に対して<道義的責任>をとり、その授業の履修を辞退するか、その大学を退学して<学生の本分>を全うする、ということになるのだろうか?一体、<△△の本分>とは、日本国の役に立っているのか?こちらが大事だと思うのです、な。極論すれば、国会議員とは日本国の役に立っているのか?いかなる役に立っているのか?いま取り組んでいる事は、もっと低給与で余人をもってかえ難い高度の仕事なのか?そう言いたいところなのであります。
それ故、説明責任は道義的責任ありと主張する側にあると思われるのだ。
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