2012年4月16日月曜日

民主主義とは政治の理想なのか、単なるツールなのか?

戦前期日本で<天皇>といえば、窮極的な国家価値であり批判を許されぬものであった。そもそも憲法の中で、天皇がこの国を統治すると規定していたし、その存在は神聖であると規定していたからだ。戦後日本においては、<民主主義>という言葉と概念が、戦前期の天皇に入れ替わったように小生には感じられる。文字通り、180度、君民逆転となったわけだ。しかし、上から下を見ていたのが、下から上を見るように倒立をしただけであり、思考回路は昔のままではないのだろうか。

民主主義の意義と価値に正面から疑問を呈する文化人は、それほどいるわけではない。わずかに保守的知識人が、民主主義の堕落の可能性を指摘することがあるが、それはかなりピカレスク的な役割をマスメディアから与えられた人たちに限定されており、いわば論壇が展開する一つのビジネスモデルの一要素であると言えなくもない。かつての三島由紀夫や今の石原慎太郎などはそのサンプルであろう。最近の橋下徹もそれに通じるところがある。

しかし、民主主義であるかどうかをつきつめて考えると、それは誠に虚無にして、エンプティな問いかけになるように思うのだ、な。たとえば1900年時点のドイツ帝国は民主主義であったのか?1810年第一帝政下のフランスは民主主義であったのか?革命政府下にあった1792年のフランスは民主主義であったのか?1800年時点のイギリスは?清朝崩壊後の1914年時点の中国は?もっと遡って、紀元前5世紀の古代ギリシャのアテネは民主主義であったのか?帝政ローマは民主主義であったのか?いや全くきりがない・・・・その時代のその国が民主主義をとっているのか、民主的であるのかどうか、小生、そもそもこれは実に空虚な、考える意義のない問いかけであると感じられるのだ。たとえは悪いが、青い空が一番きれいですね、今日の空は青いですか、昨日の空は青かったですか、その前は?空が青かったのはいつでしたか?空虚という点では、こんな問いかけに似てなくもないのだな。

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何が価値であるのか?何が理想とされるのか?何をもって最も大切であると考えているのか?この問いかけがはるかに重要ではないのか。現に生きている人間の幸福が最も大事な目的である、と。そう考えるなら18世紀イギリスの功利主義哲学に行きつく。いやいや、18世紀に限ったことではない。古代ギリシアのソクラテスは人間の<幸福>とは何かを本質的に議論することで倫理学を創始した。ギリシア人は<幸福>という窮極的価値を定めることによって、世の様々な物事の正邪善悪を学問的テーマとした。ギリシアだけではない。たとえば紀元前4世紀の儒学者である孟子はこんな風に述べている。
孟子が梁の恵王に拝謁した。恵王が言われた。『老先生、あなたは千里の道を遠いとも思わずに私のもとへやってきてくださった。きっと今にも私の国に利益をもたらしてくれるのでしょうな。』孟子はそれに答えて言われた。『王よ、どうして利益のことなどお話になるのですか?王はただ仁義の実践のみに努めるべきです。もし、王がどうすれば我が国の利益になるかと言われ、大夫(家老=上級貴族)がどうすれば我が家の利益になるかといい、士(官吏=下級貴族)や庶民がどうすれば我が身の利益になるかといったとします。すると、上も下も入り乱れて利益を争い合うことになり、国家が危うくなってしまいます。 
(中略) 
豊作の年には、犬や豚が人間の食糧を食い漁っているのを防止することができず、凶作の年には、路上に餓死した死体が転がっていますが、国家の食糧庫を開いて人民を救済することを怠っています。更には、人民が死んでも自分のせいではない、その年の気候の責任だと開き直っています。これは他人を刺し殺したのに、自分の責任ではない、刃物のせいだというのと全く同じです。王が餓死者の多さを気候のせいにしないで、人民を救済する政治に責任を持たれたならば、天下の人民はこぞってあなたの国にやってくるでしょう。
(出所:http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/moushi001.html 

 民主主義が大事であるとは述べていない。しかし、素直に読んでみれば、何が最も大事であるか、その論点は現代に生きる我々も同意するはずである。ここに語られているのは、最大多数の人民の幸福が最も大事であるという当たり前のことだ。この基本は、少なくとも建前としては封建的王朝政治でも教育の柱をなしていた。物価の安定もわかるし、経済成長もわかるが、それよりはよほど本質的な事だと小生は思うのだな。実に単純にして明快ではないか。

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民主主義は、多数の人間を幸福にするための道筋、そのためのツールであると考えるべきだ。ツール、即ち技術の裏付けが必要だ。技術であるから水準があるし、技術進歩があろう。エネルギー革命があるように、社会をどう運営するのが最適であるか、それはその時点に生きる人たちが主体的に選び取って行けばよいことである。社会の運営技術は、価値を生み出す際のコスト・ベネフィットに基づいて考えるべきだ。それゆえ、民主主義の選択が理にかなったものであるかどうかは、経験から立証される実証的な論点であるはずだ。データが変われば結論も変わる性質のものであるはずだ。

このような民主主義の定量的業績評価を<自称専門家>たちがやっている例を小生は寡聞にして耳にすることはほとんどない。ということは、民主主義そのものが窮極的価値になっており、それが何のための選択であるのかを考えない。民主主義批判がしばしば想定外とされる所以であろう。もしそうだとすれば、生きている人間の幸福よりも、政治の在り方、社会の在り方、集団的システムの在り方が最も大事であるという哲学に他ならず、それよりはまだ古代中国の孟子、アングロサクソン流の功利主義哲学の方が小生にとってはずっと自然であって、ピンとくる。これが小生が社会を眺めている基本的立場である。

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