2012年4月21日土曜日

規律ある行動の明と暗

このブログを再開して1年経ったので、今月から月、水、金、あるいは火、木、土にして、プラス日曜日。このくらいのペースでいいよなあ、と思っていた。で、そんなペースで5年続ければ、投稿千本になるだろう。自分が生きて来た道の文字通りのWebLog、航海日誌になる、と。そう思っている。

× × ×

それでも、「これはちょっと書いておくか」、と。今日はそんな報道がある。朝日新聞デジタルの一般公開部分だ。
食品の放射性物質検査をめぐって、農林水産省は20日、スーパーや食品メーカー、外食産業などの業界団体(270団体)に対し、国が設けた放射性物質の基準を守るよう求める通知を出した。国よりも厳しい独自基準を設けて自主検査を実施し、「『放射性物質不検出』の食品しか売りません」などとする動きに歯止めをかけるのが狙いという。 
国は4月から、それまでの暫定基準を改め、新基準(一般食品の放射性セシウムは1キロあたり100ベクレル、牛乳と乳児用食品は50ベクレル、飲料水10ベクレル)を施行した。 
通知は同省食料産業局長名で出され、民間に広がる自主検査に対する注意喚起の形をとっている。通知は、この新基準が国際的な指標と比べても、さらに厳しい設定であることを強調。「過剰な規制と消費段階での混乱を避けるため、自主検査においても食品衛生法の基準値に基づいて判断するよう周知をお願いします」と記している。(出所:朝日新聞デジタル、2012年4月21日8時53分)
過剰な規制が民間で蔓延するのは、過剰な意識のなせることだ。過剰な安全意識という点に着目すると、たとえば関東大震災後、朝鮮出身の居住者に対して自警団が暴力をはたらいた事実とも共通する。安全を過剰に意識すると、<少し違うもの>、<異分子>と感じられるものは<排除>する行動につながる。ヨーロッパやアメリカ社会は、こうした兆候が社会を壊してしまうことを、経験上、熟知しているのであろう。過剰な自主規制を厳しく<規制>するようだ。しかし、日本の政府がそれをやろうとすると、「なんでそんなことをいう!命がかかっているんだ!」と逆に火に油を注ぐ結果になることもある。

ただ、小生、思うのです。 これもまた、規律ある行動を善しとする日本人の長所が欠点として現れる瞬間であろう、と。規律を守るためには、集団志向でなければならない。そのために統一行動に美を感じる感性がなければならない。自然状態なら、放射能数値に鈍感な人もいるし、過敏な人もいる — 実際、小生は年齢も年齢だし、現在の放射能数値など全くNo Problemである。鳥取・三朝のラジウム温泉にいったと思ったらよい。放射線治療をしていると思ったらいいですよ、くらいの気持ちで開き直っている。しかし、人はまた小生とは違う。気になる人もいるはずだ。若い人は特にそうだろう。色々な人が混ざっている。社会が一方的にならないのは、色々な人がいるからだ。<違い>が<安定性>をもたらしている。しかし規律を善しとする日本的感性は、違いを長所とは見ずに、勝手気ままと見てしまう傾向があるのではないかな。で、結果として社会は激しく極端に振れることになり不安定になる。

× × ×

民間の過剰な自主規制は、<学習指導要領>を廃止して、個性を重んじる自由な教育を始めれば再発の危険性はなくなっていくだろう。塾の教師が自分でカリキュラムを作り、生徒は先生を選んで、学びたいときに学ぶ。そうすれば、日本人の一人一人の個性はつぶされることなく、育つだろう。<軍隊>を編制するには困るだろうが、平和な時代には多様な人材がそろうだろう。幕末の時期、日本人の教育水準は非常に高かったことが確認されている。国が統一的に教育を行わなければ、日本人はバカになるというのは、ウソである、というより有害な思想である。吉田松陰の松下村塾も福沢諭吉の慶応義塾も、全国津々浦々の寺子屋も、藩校ではなく、単なる私塾であって、自発的なものである。

みんなを揃えようとする国の教育は、それでなくとも規律を重んじる日本人を、一斉に同じ方向に走らせるように機能しているのではないかと感じる。これは問題だという印象を持っている。

まあ、会社に入ったら、三日、三週間、三ヶ月を乗り越えろと言われる。何か大事件があったら、三ヶ月、三年、三十年が三つの区切りだと言われる。3ヶ月つまり75日前後だから、人の噂は75日という言い方にも通じるものがある。この伝でいえば、3年くらいは現在の過剰な安全意識はおさまらないのだろう。しかし、一番大事なことは、30年という期間で我々の安全を考えていく姿勢である。そうではないだろうか?

0 件のコメント: