源氏物語の作者である紫式部は、西暦1000年前後・平安時代中期の作家である点、余りにも有名だ。彼女は、藤原道長が一条天皇の中宮として送り込んだ娘・彰子の女房として仕えた。いまでいえば女性キャリア官僚である。源氏物語の原文は、高校の古文でも登場するはずだ。それにもまして、谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴らによる現代日本語訳の人気も高く、さらにコミック版「マンガ源氏物語」も売れに売れたよし。最近では映画「源氏物語 千年の謎」も公開されるなど、まさに英国人にとってシェークスピアが占める ― というよりそれ以上の ― 役割を果たしているとすら言える。紫の上が好きであったり、正室・葵の上が哀れであると評したり、亡き母の面影を恋人に求める光源氏の何たるマザコンぶりよ等々、ファンはさまざまに批評し合っている。これほどの時間、作品生命を失っていない点で、稀であるというか、珍妙であるというか、類似例は中国になく、ヨーロッパになく、極めて珍しい。唯一、心理劇として対抗できるのは紀元前5世紀のギリシア悲劇だけであろうが、それらは何分短い戯曲であり、ずいぶん趣が違う。ま、当然ながら、源氏はとっくに著作権も消えており、日本人の文化遺産として”One of the Greatests”であること、誰も否定できない。
その源氏物語から絵巻物が誕生し、美術作品としても存在感が際立つ。絵巻物とは、コミック・ジャパニーズ・トラッドとでもいえる存在だ。ただ台詞は書き込まれていない。その代り、詞書(=文章)が絵と交互に編まれている。詞があるとはいえ、おそらく、原作を読了していることが楽しむための前提であったのだろう。絵画作品をみて、詞を読み、原作の該当部分の前後を連想しながら、そこに登場している人物と会話を思い出し、そして和歌と言う詩的音響空間を、頭の中で再構成して総合的イメージ世界を再創造するわけだ。電燈もLED電球もない板敷の日本建築で、源氏物語絵巻を紐解くと、まばゆい色彩と詞が一体となり、過ぎ去りし美の時代をそこはかとなく再体験できたことであろう。小生も是非やってみたいと思うが、何しろ現存している源氏物語絵巻は写本でなくば国宝である。
調べてみると、現存するのは絵巻全体の一部分のみであって、今は尾張徳川美術館、東京の五島美術館、そして東京国立博物館にも一部段簡があるだけという。
橋姫
出所: 尾張徳川美術館より
夕霧
出所:五島美術館
夕霧は正室・葵の上を母とする光源氏の長男である。この巻では、光源氏は既に50の齢を重ねている。ある年の秋から冬にかけて、子息・夕霧が思いを寄せる人と交わした末の思いが主題となっている。
小生の旧友が、大阪・藤田美術館で開催中の春季展「生誕170年、没後100年・藤田傳三郎の軌跡」は絶対に見逃せないと教えてくれた。同館には、(今回展覧会には出展されないようだが)紙本著色紫式部日記絵詞が所蔵されている。いずれ将来、必見の作である。日本で<モノもち>がよいのは、前代を根こそぎ否定するような革命が遂に起こらず、焚書坑儒といった文化破壊活動に見舞われることがなかったためである。太平洋戦争ですら、日本の遺産を破壊し尽くすことはできなかった。奈良、京都だけではなく、鎌倉、金沢、松江などなど、そして全国津々浦々の芸術作品、古文書はそっくり保存された — 芝増上寺と上野寛永寺にあった徳川将軍家霊廟が焼亡したのは誠に残念だが。8世紀「暗黒時代」のビザンティン帝国で進行した偶像破壊運動(イコノクラスム)、近くは中国文化大革命と明治初期の廃仏毀釈を比べると、全く徹底性が違う。だとすれば、全歴史を通じて、日本人にはどこか危機意識が薄く、いわば<平和ボケ>している所があるのは、まあ、自然な結果であるのかもしれない。国民集団的機敏性を欠いているのは、ラッキーな歴史を辿ってこれたことの代償であるのかもしれない。
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