2012年11月30日金曜日

今度は「国防軍」論争ですか・・・

現勤務先に転任して今年の4月で20年が過ぎたというので、今日、その表彰状をもらった。その後は市内の結構旨い店から仕出し弁当をとってくれていて中々の満足ではあった ー 世が世なら財政黒字で、もっと一流の店で懇親会をやってくれたかもしれないなあと、そんなことも思いながら、箸を動かしたのではあるが。

10月に義兄の葬儀に着ていった白いワイシャツを着用したことに帰宅してから気がついた。ああ、そうだったのか、気がつかなかったなあ、それにしても葬儀で着た服を慶事で着るなんて、取り合わせが悪かったかなあ、と。しかし、あれだな、濃い紫の悲しみの上に、薄い水色のような喜びを重ね、今度きるときには紅殻色のような仕事をして、それから首都圏に出張したついでに美術館巡りをして心の色はレモンのように染まる。この白ワイシャツを何度か着るうちに、思い出すことも悲喜こもごもで、地層のように重なり、人生は黒に近いグレーであることを知るのだろう。

話しは変わるが、北海道は民主党の王国であると言われてきた。しかし今は完全な逆風で地元幹部は「国防軍批判の一点突破でいくしかない」と。逆に、自民党候補は安倍総裁の国防軍という言葉に<当惑>し、応援演説にきてもその言葉は使わないでくれと頼むよし。

情けないねえ・・・。自衛隊は、実質、国防軍ではござらぬか。とはいえ、「軍」という漢字は日常会話ではまず登場しない文字である。ぎらついている。ザラザラする、そんな感覚は否めない。米陸軍であればU.S. Army、英海軍ならRoyal Navyだ。空軍ならAir Force。軍事力は英語ではForcesであり、この単語は日常でもよく使う。力学で定義する「力」もForceである。地球を太陽に縛り付けているのは万有引力という力である。力=Forceの類義語であるPowerは、電力、政治力など、どちらかといえば高次の力。それに対してForceは素朴な腕力に近い。"He forced in"といえば、乱暴に押し入ってくるというニュアンスだ。自衛隊の役割もForce=軍事力であることを否定してはウソをつくことになるだろう。ドイツ国防軍はWehrmacht. これもWehr(ダム・せき) + Macht(力)の複合語。現・連邦軍はBundeswehr。堤防として使う力、そんなニュアンスだな。

しかし、「力」という漢字は名称には使えまい。当たり前すぎて気が抜ける。そこが日本語なのだな。戦国末期に武田家家臣・高坂弾正が『甲陽軍鑑』を著した。軍学を兵学ともいうが、明治になって国軍を創設するとき、その組織に「軍」という字を充てたのは、あてた人からすると、かなり自信があったのではないかと推察している。中国の史書でも国が統括する武力組織全体を「軍」と表現しているようだ。たとえば元寇で日本に押し寄せたのは「元軍」であると記述されているよし。隊は軍を構成する単位である。それ故、組織全体に自衛隊という具合に「隊」という文字を当てると、組織構成を厳密に表現できないのじゃないかと、素人ながら心配になる。更に、理屈だけから言えば、いま「自衛隊」があるということは、将来いつか「軍」が再建されるとき、別に「遠征隊」が編成されることもありうる、そんな可能性がこめられているのではないかと。小生個人としては、やはり「国防軍」とするほうが、限定的かつ明瞭な命名であると思う。

米軍を統率するのは、Department of Defense、ズバリ、国防省である。しょっちゅう自国の安全保障のために世界中で戦争をしている米軍も建前上は国防省が運用する軍隊、つまり<国防軍>である。日本の防衛省は既に"Ministry of Defense". アメリカと違いはない。英語で同じなら、日本語でも同じにするのが、誠実というものだ。

TPPに入るついでに、日本の防衛省を国防省という呼称に変えて、それと合わせる形で実動部隊も国防軍にしてはどうか。


2012年11月29日木曜日

真の自由貿易を望むなら怖いものはない

小生が大学を卒業する時代は、とにかく「鉄は国家なり」の時代だった。製鉄企業から出向していた人と一緒に働いたこともあるが、ホント、優秀な人でした。それから造船である。IHIは、当時はまだ石川島播磨重工という社名であったが、そこからも非常に優秀な人が来ていて、経営トップはドクター合理化と呼ばれた真藤恒氏であった。中学校に通学していた頃は三菱重工の広大な社宅群を横に見ながら歩いて通ったし、その近くには日本鋼管(現、JFE)の社宅があった。どれも小生にとっては懐かしい社名であり、日本の高度成長時代、黄金の60年代の温もりがまた体感できた時代であった。

その後は自動車と電子産業、そして電機である。このうち、電子産業の最終製品部門(=組み立て段階)はいま日本国内では生き残れなくなり、10年前にはエクセレント・カンパニーと賞賛されたSONYやパナソニックも経営危機と言える状態に陥ってしまった。旧モデルが新モデルに置き換わっていくのは技術進歩の中では当たり前だが、日本が何をつくって生きていくか、産業全体までが時代ごとに置き換わっていくのだろうか?

野田首相が争点にしようと力を入れたTPP。しかし、TPPを正面から論じるのは、各政党も怖くてたまらんと思っているのが、ヒシヒシと伝わってくるのだが、全く「たかがTPP」ではないか。貿易で勝つか、負けるかばかり考えているから、大局が見えなくなるのではないか?先方が自由貿易を求めるなら、日本から参加すればよい。参加して日本の方から<真の自由貿易>を求めればよい。アメリカの自動車産業は日本の自動車産業を怖れ、だから日本のTPP参加には反対している。アメリカだけに得である自由貿易は、ロジックとしては、ない。

× × ×

経済成長論の発展に貢献した第2世代の中心ロバート・ソローの理論は<長期収束仮説>が柱になっている。貯蓄率の高さとは無関係に、技術的知識が浸透していけば、どの国の労働生産性も一定水準に収束し、経済成長率は人口増加率と技術進歩率によって決まる。貯蓄するから速く成長するというわけではない。そんな予測をしているのだが、実際は収束するどころか、世界の国々の労働生産性、つまりは生活水準は格差が拡大してきたというのが現実である。「おかしいではないか」というので規模の経済や、競争の不完全性・独占的支配力などが原因として指摘されている。

少し古くなるがDani Rodrick's Weblogでは、製造業に限定した場合、収束仮説が見事に当てはまるというデータが紹介されている。ロドリック氏が要点を伝えるのに使っている図を下に引用しておこう。


横軸は個別産業の「当初時点における労働生産性」を測っている。縦軸は「平均的な労働生産性成長率」である。全体として、低生産部門である産業ほど、その後はより速い生産性上昇率を達成する傾向があることがわかる。簡単に言えば、生産性が低く、ということは割高に販売される商品部門は、ずっと後には効率化を達成して花形産業になる。そんな傾向が製造業にはある。プロダクト・サイクルといえば、そういうことだが、個別銘柄の商品をこえて、産業まるごとのレベルでそんな栄枯盛衰のパターンがあるということだな。

× × ×

たとえば最終財部門と中間財部門の二つがあって、いまのウォン・円レートで換算すると、最終財、中間財いずれも韓国製のほうが安いとしよう。たとえば、円ベースで評価して最終財価格は日本製が4、韓国製が1。中間財価格は日本製が2、韓国製が1としよう。最終財は特に日本製が高額であるが、中間財ではそれほど韓国製が安いわけではない数字になっている。

この場合、韓国は最終財、中間財とも「国際競争力」があるので、両方とも日本に輸出しようとするだろうか?そんなことはしないのだ、な。韓国は中間財を日本から輸入して、最終財を日本に輸出するはずである。逆に、日本は需要にこたえて中間財を輸出し、最終財を輸入する。日本の製造業が全滅するという理屈にはならない。なぜなら、韓国では最終財1単位と中間財1単位が同額だ。しかし最終財を日本に輸出し価格4で売り、中間財を価格2で買えば、2単位の中間財が調達できる。割安な中間財を日本から買い、それで最終財を作るほうが韓国にとって得である。だから韓国は、名目価格で最終財、中間財双方で国際競争力を持っているのであるが、比較優位性をもっていない中間財は日本には輸出できず、韓国内ではあくまでマージナルな存在にとどまる。最終財部門が韓国の花形となり、最終財部門に資源がシフトし、日本は<得意な>中間財をつくって稼ぐことになる。日本の最終財部門は縮小するので、安い韓国製中間財への需要も縮小する。韓国の中間財部門は、名目的には日本より安く製品を作れるが、韓国内の最終財部門に対し比較優位を持っていないため、拡大できる可能性はない。

日本も韓国も、貿易のあり方は為替レートで決まるのでなく、どの商品の生産に比較優位性があるか、その点で決まる。これが経済学では、歴史上有名な<比較優位理論>である。為替レートは、あくまで紙幣の交換比率に過ぎず、国家の経済の実態まで変える力は持っていない、そう言ってもいいわけだ。日本の暮らしが上向かない主因は、為替レートが円高になって、全ての製造業が「落城」したからではなく − そんなロジックにはなりません − 日本の労働生産性が全体として上がらない点にある、働き方が下手である、そこに原因があるとしかいえない。多分、リスクを怖れ、変化や進歩を追求せず、安定を求めるようになっているのだろう − もちろん上昇志向が強く、日々の改善に努力している例外はある。競争よりも競争しないことが善であるという何がなしの感情が日本人の心に根を下ろしてしまった、そんな点もあるかもしれない。効率よりもきめ細かい営業サービスを欠かせないビジネス習慣にあるのかもしれない。小生の経験から、もひとつ挙げれば「会議」の多いこと。結論の出ない会議などは「さぼり」と同じですからな。ま、これが原因だと挙げられれば、話しは簡単だ。

運動会の徒競走と同じ理屈である。高度成長を支えた造船、製鉄 ー その以前は繊維であったわけだが ー は、スタート直後、2位以下に大差をつけて走っていた。ところが、段々と自動車が合理化されて、最初のモタモタした状態から立ち直り、少し差がつまってきた。もしその時、隣のグラウンドで同じ徒競走が行われていて、そこではまだ自動車がやっぱりモタモタしている。この順序と格差が比較優位を決める。日本の花形産業である造船・製鉄の比較優位性を突き崩す原因になったのは、日本の自動車が(相対的に)頑張ったことである。<真の競争力>はすべて相対的なものだ。ということは、隣のグラウンドで、にわかに電子産業が頑張って順位をあげるだけで、(絶対的には日本の電子産業が勝てるはずであるにもかかわらず)日本の電子産業は比較優位を失う。これもまた貿易のロジックである。

いま最終段階の加工組立部門で輸出できなくなったのは、外国がまず最初に加工組立産業を合理化したからだ。何もないところに製造業を移植するだけで、日本の製造業は比較優位を失う。ということは、外国の農業部門の生産性が今後上昇すれば、外国の製造業の比較優位が失われることになる。これまた貿易のロジックだ。

こんなメカニズムを、少数の政策専門家がプランニングをして、最も望ましい日本の成長経路を指し示すなど、いつまで待ってもラチがあくはずはなく、時間の無駄である。「市場メカニズム」という言葉に日本人はもはやアレルギーは持っていないだろうが、人知を越えた資源配分は自然のプロセスに任せるのが最良である。あまった時間とエネルギーは、美や科学的真理の探求に投入するのが人間的知恵というものだ。ケインズは最も有名な経済学者の一人だが、ケインズにとって「経済問題」は人間が解くべき問題の中では、実に下らない、些末な問題として認識されていた。だってそうでしょう、大体、どうやって食っていくか、カネが足りるか足りないか、そんなことばかり考えながら、一度の人生をおくるなど、そんな風に暮らしのことばかりを考えて死んでいくなど、最も哀れではないか。生活水準が現在より遥かに低かった日本人の先祖達は、そんな中で偉大な芸術作品を遺し、いま生きている日本人達に喜びを与えてくれている。それを手本とするべきではないだろうか。

× × ×

TPPは、規制の在り方、制度の在り方もまた議題に含められる方向であって、これを日本は非常に恐れているようだ。医療、保険では特にそうであるようだ。

上に引用したロドリック氏も、製造業の成長は各国で収束しているのに、なぜ経済全体では収束しないのか?その疑問に短くコメントしている。
All this begs the question why economies as a whole do not convergence, if manufacturing experiences strong convergence. The answer turns out to have three components.
First, non-manufacturing does not exhibit convergence. Second, manufacturing’s impact on aggregate convergence is curtailed by its very small share of employment, especially in the poorer countries. Third, the growth boost from reallocation – the shift of labor from non-manufacturing to more productive manufacturing – is not sufficiently and systematically greater in poorer economies. Taken together, these three facts account for the absence of aggregate convergence.
非製造業には収束仮説が当てはまらない。これが主因だ。サイズとしてはサービス業である。低生産性サービスは、いつまでたっても低生産的であり、高生産性サービス、つまり報酬の高い部門は、いつまでたってもそうである。そこが製造業とは違う。

サービス部門のこの格差は、各サービスに従事するための人的投資、専門的知識などの違いを反映したフェアな格差なのか、それとも何かの職業規制、開業規制に守られているが故の、模倣や競争から隔離されているが故の、不公正が隠れているからなのか。既得権益なのか。難しい問題だ。確かに難しいが、これらは<日本という国の根幹をなす>という理屈で、外国との協議を一切はねつけるという言い分は、外国には通らないかもしれないし、制度や規制の在り方を外国と協議すること自体、日本にとって損になる。そんなロジックが最初からあるとは言えない気がする。

ま、やりなはれ、このテーマでも、小生はやっぱり「やりなはれ」だな。




2012年11月26日月曜日

多党化は民・自協調の誘因を形成するか?

二大政党が並立する状況では、どう考えても選挙はゼロサムゲームであり、自党が政策論争で譲歩すれば、譲歩した分、他党の言い分が通ることになる。国益のために自党が譲歩すれば、そのために他党の言い分が通るわけだが、それは当面の党利ではなく国益を優先するという自党の判断があったが故である、そして有権者もそこをみる。<議席の数>という目に見える利得ではなく、<国益>もはかりながら政党が行動する、それだけ政党の行動が複雑になる。それを国民もみて、政党の行動や動機、目的を洞察する、政談が好きでたまらない、そんな成熟した社会状況があれば極めてハイレベルの選挙戦が展開できるだろう。議席をめぐるゼロサムゲームが、国益をめぐる非ゼロ和・非協調ゲームとなるのだ、な。そこには協調もあれば、コミットメントもあり、また裏切りもある。ダイナミックな政治ドラマが極めてハイレベルに展開される素地が形成される。

小生、民主主義社会が理想的に運営されるには、理想的な仮定が満たされる必要があると考えている。しかし、こんな社会は近似的に考えても英国くらいのものだろう、と。まして日本では、自然発生的に上のような民主主義政治を運営したことはない。すべて<輸入文化>である。経済学も政治学も経営学も、日本国では輸入学問だが、世界における日本の経済学のレベル、日本の政治学のレベル、日本の経営学のレベルは、そのまま日本の民主政治の水準に対応していると言っても、決してこの思考法は間違いではないと自信をもっているのだ。

別に日本の恥ではない。むしろ英国のような二大政党・議院内閣制は ー 小生の専門分野でないが ー 稀なケースじゃないかと思うし、今は英国も連立政権である。ドイツはいつも連立政権である。フランスは与党と野党の二大グループに政治家がしょっちゅう再結集・再編成されている。韓国もそうであるな。政党の名称もしょっちゅう変わっている。

多党化すれば議席を利得と考えても、政党どうしの結託の利益が生じる。というか、結託して共同利益を求める方が利得の期待値が高いので、必然的に結託する。

政治家は引退すると政治評論家になるしかないのだろうか?森元首相がこんなことを語っている由。
政権与党の民主党は候補者の絶対数が足りないし、厳しい選挙になるのは間違いない。だけど、社会保障・税一体改革のときにできた民自公の枠組みは一応成功したんだし、僕は選挙後の課題についても3党でやっていくことが一番理想的だと思っているんだ。民主党の中堅にはいい人材がたくさんいますよ。そのためには民主党がどういう「純化路線」をとれるかだ。野田さんの立場からいうと、小さくても仕事ができる良質な民主党をつくって自民党なり維新と組んでいくということだろうね。
 民主党の中には日教組や自治労というかつての左翼の人たちもいる。その人たちだけは認めないというのが安倍さんの考え。そういう人たちも切って純化できるのか。僕はその方がいいと思うんだけどね。(MSN産経ニュース、2012年11月26日配信)
民・自・公三党提携の見通し、というより協調へと誘導するフォーカル・ポイントの意図かもしれない。確かに多党化したいま、自民党は民主党との結託の誘因がある。民主党にもある。しかし、自民党は維新とも結託できるし、生活第一ともできる。自民党は、自民党の党利を最大にしようと結託の相手を選ぶだろう。その相手は労働組合を含んだ民主党ではないだろう、元首相はそう読んでいるわけだし、だとすればこの発言は<民主党内離間の策>で、協調に誘うソフト・コミットメントどころか、略奪をねらうタフ・コミットメントである。この種の攻撃に対して、民主党は二大政党下であれば猛然と反撃するのがロジックだが、多党化している今はその必然性はない。民主党はすでに実質的に多プレーヤー化しており、党内グループが互いに裏切ることなく、共同利益を追求し続けられるのかどうかにかかっているし、さらにまた党内が協調したからと言って、民主党全体の共同利益が最大化される論理的根拠はなくなりつつある。共同の利益の意識が党内で共有されなくなれば、意外に早く民主党は解体への道をたどるだろう。いまの国内政治状況はこんな風に言えるのではないか?

いずれにせよ、自民党は結託相手として小党が望ましい。その小党は公明党の発言力を低下させるだろう。だから民主党が左翼をきって、中規模の小党となって自民党と協調する状況が(もし実現するなら)安倍政権にとっては最良であろう。このとき、反自民勢力は小異を捨てて野党勢力として結集できるか?自民党が民主党保守勢力をつまみ食いするなら、袖にされた維新と民主党左翼が結集するのは不可能だ。日本国は自民党政治に戻り、基本的枠組みとなり、10年程度が経過する可能性がある。そうなれば「常在戦場」ならぬ「常時政局」からは日本は脱することが出来ようが、まだつぼみの霞ヶ関・改革派官僚の志向は世に出ることはなく、政治家が求める地元利益のバランス・システムへと復帰することは間違いない。

では維新を協調相手に選ぶかだが、維新はサイズが大きくなると予想されているし、ひょっとするとそうなるだろう。その場合は、維新の側にタカとハトのハトに甘んじる意志はない。協調を目指しても内紛が生じること必至である。維新と協調すればじきに政権は行き詰まるだろう。小生はこう観ているところだ。ただコアとなる政策思想としては、親和性が高いので、党内を純化して、乗り越えるかもしれない。これも、こうなるとして二、三年の時間で見ないといけないだろう。

まだまだ遠く遥けく道行く必要がありそうだ。10年先の日本の姿など神様にも、お釈迦様にも分かるめえ、とはこのことだ。

いずれにしても来月の選挙によるが、選挙は偶然的要素に結果が左右される。ま、一言でいえば、日本国の将来をクジや抽選で決めるようなものだ。小生はそう思う。実に情けないのが偽らざる気持ちだ。問題は経済政策の行方だが、これはまた別の機会に。

2012年11月25日日曜日

日曜日の話し(11/25)

昨日義兄の満中陰を済ませ、カミさんは次の日曜日に戻ることになった。にわか一人暮らしはもう限界、というわけではないにしても、一人で暮らすのは本当に効率が悪い、それを実感した。若い頃にシングルで仕事漬けだった頃、突発的に市役所にいって手続きを済ませる必要が出来たとき、突然インフルエンザにかかったとき、自宅の設備に不具合が発生して業者に来てもらう、その業者は平日にしか来てくれない、そんな状態になった時、本当に困ったものだ。一人で暮らしていると、まま動きがとれなくなる。ライフスタイルとして脆弱なのだな。打撃に弱くバルネラブル(vulnerable)だ。両親がいれば臨時に来てもらうのだが、親を呼んで助手に使うなど本来は禁じ手のはずであるし、そもそも父はその頃もう闘病中であった。そして仕事を始めてから数年を経ずして父は亡くなってしまった。残された母に小生の雑用を押し付けるわけにもいかなかった。

そんなわけで待ち遠しいのだな、次の週末が。今日は前祝いをかねて映画でも観に行くか。

× × ×

そんなことを考えながら、NHKの日曜討論にチャンネルを合わせてみた。いつもは観ないのだが、今は選挙運動中だ。よく練った構想を各党の出演者が語ってくれるかもしれないではないか。で観たのだが、いやあ下らない、低レベルという表現を超えて、人前に出るのが大好きな人たちが日本国の将来はこうしようと口をパクパクとしながら話しているのをみて<恐怖>を感じました、な。

日本の議院内閣制はつくづくもう限界だと思う。国会議員を選挙で選んで、その国会議員が行政を制御していこうというには、肝心の日本国民の社会構造がすっかり変化してしまった。もう日本を統治できる国会議員など、選挙に立候補してくれないし、政治を志す人材を輩出する社会階層も、パブリックマインドをもった人材を育てる教育システムも、その教育システムを尊重する社会意識も戦後60年の間にすっかり風化してしまった。そんな思いに駆られる。

× × ×

おそらくいま30代の人は幕末から明治にかけて<二世を生きた>福沢諭吉と同様、全く違った二つの世の中を生きるしか、生きる道がないのではあるまいか?そういうなら文豪ゲーテも「二世を生きた」人であった。<共産資本主義>が限界を迎えている中国だけではなく、日本も社会変革を行わないまま今世紀の経済発展を目指すのは困難だろう。

東京証券取引所は「日本株キャラバン」と銘打って米英などの投資家を回ってきたという。ところが話しをした投資家達は口を揃えて「日本企業の自己資本利益率(ROE)が低すぎる」と指摘したらしい。それは社内に遊休化した「現ナマ」が多すぎる、死に金を抱えすぎている、だから利益率が低下するというロジックを今朝の日経が紹介していた。

(出所)2012年11月25日付け日本経済新聞3面から引用

それほどカネをもっているなら株主に配当するべきだ。その配当をもらった富裕層は海外に投資するのもいいが、日本国内の芸術・文化のために浪費してはどうか?前の投稿ではそんなことを書いた。芸術の成熟と完成は、ビジネスチャンスに恵まれた勃興期ではなく、カネはあれども衰退への兆しが訪れた時期に達成されるものだ。福祉社会が崩壊して、いよいよ落日を迎えるまでに、今の時期に、芸術的遺産を日本国内に遺しておくことは日本国民の将来世代にとって最も価値のある行動だろうと小生は思っている。

江戸時代・文化文政期の画家である酒井抱一は、譜代の名門である雅楽頭酒井家に生まれながら琳派の美への憧れを断ちがたく美術の世界にのめり込んだ。ま、明治の世に漱石がいった「高等遊民」として生きたわけだが、残した作品をみると正に芸術家の名にふさわしい。


酒井抱一 (1761-1828) 『風雨草花図(ふううそうかず)』、1821年頃
(出所)とおる美術館

酒井抱一は11代将軍・徳川家斉の治下、1821年(文政11年)まで生きて、江戸下谷根岸で死んだ。68歳。浦賀に黒船が来航するのは、彼の死の32年後、幕府が瓦解したのは46年後だった。酒井抱一よりも年上であった司馬江漢は、既にこの時代、洋風画に挑戦していた。


司馬江漢、相州鎌倉七里浜、1796年
(出所)Flickriver

酒井抱一が創造した江戸琳派はそのまま旧幕・日本の芸術的遺産となり、司馬江漢の洋風画のような先見性などはもちろん持っていなかったわけであるが、美の完成においては、過去や未来、先進や後進、これらのことは全く関係がないことだ。ただ完成されているかどうかだけであり、ビジネスの成否を決めるイノベーションとは無縁である。利益を生まないカネを持っているなら、美を創造できる人に、そのカネを使わせることは、小生、大変粋な使い方ではないかと思う。ま、浪費ではあろうが、使いみちに困るなら、浪費すればよろしいではございませぬか、それが最も喜ばれますぞ。そういうことである。





2012年11月24日土曜日

自民優勢だけで株価が上がるとは・・・

日経平均株価が突然狂ったかのように反転上昇している。アメリカの「財政の崖」解決の見通しは、二、三、楽観的な声が上がっているようだが、具体的には実は何も定まってはおらず、何事もこれから。それで海外の株価はこのところずっと下げてきたにも関わらずだ。実際、世界経済の実態は決していいものではない。OECDの景気先行指標(Composite Leading Indicator)は下図のようだ。



アメリカは確かに住宅価格が底打ち気味で回復しつつあるようでもある。えび茶色の英国、藤色のブラジルも上向きだ。しかし欧州大陸諸国、韓国、日本は下がっている。日本の株価が上がるのはおかしいのだな。それにグラフにはなぜか直近の動きが示されないが、中国の数字も上がってはおらず、この4月から9月までずっと鍋底をはっている状況である。これらを合計して、世界経済の大勢は総じて景気後退入りとみていいのではないか。



確かに米国のダウ平均は直近で回復しているが、これまでの下げ過ぎを修正しただけかもしれない。

要するに、いまの株価上昇はアメリカ、中国の次期政権が決まり、日本もどうやら首相が変わりそうである、韓国の大統領も近く変わる。どの人も何やら威勢のいいことを言っている。何が始まるかわからないが、現状を変えようと言う姿勢は共通している、株も上がりそうだから買ってみるかと。金融緩和のうえに心理的な変化待望感が作用したバブルならぬ<シャボン玉相場>だと思うのだな。小生、買い持ちはすべて解消した。いずれ近く下がるのを待とう。12月第1週辺りには<米国・政治主導型波乱>があるかもと思うが、なにせ投資下手の小生、見通しが当たるかどうかは全くわからぬ。わからぬがこうやってメモをしておけば、後で読んで面白いし、勉強になるだろう。


2012年11月22日木曜日

起こりうる大地震と起こりうる天災の違い

表題の意味は明らかだろう。天災は地震に限ったことではない。

NHKから以下のような報道があった。
世界で起こりうる最大級の地震について、地球の大きさや地形から、最大でマグニチュード10前後の規模が考えられるという分析結果を東北大学の専門家がまとめました。
この分析結果は、21日に都内で開かれた地震の専門家の会合で、東北大学大学院の松澤暢教授が報告しました。
それによりますと、地球の大きさや巨大地震を起こす可能性のあるプレート境界の断層の長さなどから、考えられる地震の規模は最大でマグニチュード10前後だとしています。
マグニチュード10は去年3月の巨大地震の32倍の規模で、これまで知られているなかで世界最大の1960年に南米チリ沖で起きたマグニチュード9.5の地震を上回ります。
例えば、北アメリカからカムチャツカ半島、そして、日本の南にかけての海溝沿い8800キロの断層が20メートルずれ動くとマグニチュード10になるとしています。
松澤教授は、こうした地震が起こると、揺れの長さは20分から1時間ほど続き、揺れが収まる前に津波が来て何日も続くことが考えられると指摘しました。
そのうえで「マグニチュード10が絶対、起こると考えている訳ではない。東日本大震災でマグニチュード8クラスまでしか起こらないと思っていたらマグニチュード9が起きたので、僅かでも可能性があるならば、どういうことが起こるか事前に理解しておくことは必要だ」と話しています。(11月22日 5時18分配信)
起きるとは考えていないとのことだが、もし起きればどんなことが起きるかを理解しておく必要があるということだ。

具体的なイメージがないので、東日本大震災の32倍と言われてもピンとこない面があるが、そんな大地震が発生する確率をゼロではないと考えるならば、大隕石が地球に衝突する確率も当然ゼロではない理屈になる ― こちらは歴史的に「頻繁に」とは言えないまでも、現に目撃されている例もあるのだから。実はこの話題、以前に投稿したことがある。

高さ数千メートルの巨大津波は、いかに大地震といっても想像しにくいが、大隕石の衝突であれば「これはありうる」、そう思ったりするし、それほど昔ではない時期に現に起こっている巨大隕石の落下は、決して確率ゼロではない、やはりそう考えるべきなのだろう。だから何が出来るか、そんな問題もあるわけであるし、もしいま類似の天災が起こったら、世界の文明はどんな打撃を被るか、そんな検討課題もあることはあるのだな。

「事前に理解しておくことは必要だ」。そう言えることは確かだと思うし、そういう議論をするとしても、それは終末史観にはあたらないだろう。

2012年11月20日火曜日

選挙の争点は定まったのか?

野田首相がTPP参加の是非を争点にしようと解散を決意して既に幾日かがたった。

今朝の朝刊のヘッドラインは、日経が『リクルートがネット通販 ― 仮想商店街、楽天など追撃』。う~ん、楽天株を買って大丈夫か??リクルートは傘下のサイトを利用する人が年間延べ1憶人以上。楽天はというと、2憶人。ま、小売の経験などを考えると、2~3年程度は楽天の競争優位が見込めそうだ。まずはリクルートさん、日本国内2位のアマゾンを抜かないとね。

読売は『民主党の離党者』、ハハア、「コレハエエワ」という感じですな。

北海道新聞は『ロシア、対日送電構想 ― サハリン・北海道結ぶ、政府に打診』と。なになに・・・シュワロフ第一副首相が来日、20日(=今日)に開催される日ロ政府間委員会で議論される可能性があるということか。そもそも東日本大震災・福島第一原発事故の直後からプーチンは日本とのエネルギー協力を外交戦略に据えようとしていた。まずは天然ガス・パイプラインをサハリン・北海道間に敷設する事業が浮上したが、エネルギーの元栓をロシアに預けることへの警戒心が日本側で高まり、あえなく頓挫、ロシアのガスプロム社は本年6月に断念を表明した。今度はサハリン・イリインスキーに石炭火力発電施設を新設し、原発2基分の電力を送電しようというものだ。北海道が余剰電力をもてば、北本連繋線経由で内地にも送電できる。おそらくロシア産の電力単価は安く、北電が買電・売電するのであれば、北電の利益は巨額になろう ― そううまくいくはずはないが。

中国は尖閣をめぐって韓国、ロシアを自陣営に誘っている。ロシアは当面は様子見姿勢で、日本に対する今回の提案は<ソフトコミットメント>、あくまでもロシアの国益を追求するための戦略的行動である。ま、即座に蹴っ飛ばすなどという対応は、日本にとっての最適反応戦略でないことは確実だ。電力の対ロシア依存性を高めると北方領土問題での交渉力が低下するわけだが、どちらのプラス、どちらのマイナスを日本は重視するかだねえ。それにしても、全国紙はなぜこの話題をとりあげない。信頼できないアドバルーンと判断したか、道新が頑張って取材したのか、ちょっと現時点では分からない。

× × ×

日経の2面。『金融政策、異例の争点』。安倍自民党総裁による<建設国債日銀引き受け論>である。野田首相は財政規律が損なわれると猛烈に批判している。多分、日銀は当然として、国債を引き受けてもらう財務省も反対であることは確実だ。

政府の財源調達が金利の上昇圧力を生み、民間の資金需要を圧迫したり、円高を誘発したりしないように、国債を市中で消化させずに、日銀に直接引き受けさせるという狙いは、それ自体、間違っているとはいえない。しかし、よく考えると、何も新しいことを提案しているわけではない。

まず日銀の資産側に国債がたち、負債側に政府当座預金が同額だけたつ。その政府預金は事業の進捗に応じて払いだされ、日銀の負債側では政府当座預金が日銀券もしくは民間銀行の日銀当座預金に振り替わる。この面をみれば確かに金融緩和だが、ロジックとしては日銀による量的緩和政策と同じである。違うのは、実体面において工事が進行し、人が雇用されていることであり、それ故に安倍総裁の提案は金融政策ではなく、財政政策である。ま、いずれにせよ、日銀に直接引き受けさせる以上は、財政法や日銀法の改正が必要になろう。

そもそも日銀は、たとえ政府の建設国債を引き受けたとしても、自行の判断によって<適切な売りオペ>を実施し、政府が散布するマネーを市中から吸収するだろう。結局、市場が建設国債を買ったことになる。だから心配されているような<ハイパーインフレ>は起こりえない。起こり得るとすれば、政府が日銀の金融調節を全面的に束縛して、「いまは売りオペをやるな、金融市場は政府が管理する」というところまで踏み込むかだが、それをするなら日銀法の中の
第二条  日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする。
この第2条に明記している日銀の目的<物価の安定>を削除するか、複数の目的を挙げておくべきだろう。複数の目的を挙げるとウェイト付で複雑になるし、削除しなければ、必ず日銀は金融市場を調節するであろう。どちらにしても、量的緩和がインフレ要因にはならなかったのは事実だ。本質的には同じ政策である「国債の日銀引き受け」がデフレ解決の特効薬になるとは予想できないのだ、な ― 単なる量的緩和政策と違って、生産要素が稼働しているので、無際限に実行可能というわけにはいかないが、日銀の調節でインフレの前に金利が急騰して、民間が悲鳴をあげるであろう。ハイパーインフレが起こりうるのは、政府が日銀法も財政法も改正し、日銀が政府のコントロール下に置かれるようになる時だけである。しかし、そんな極端な行動をとれば日本は<G20>にはいられなくなるのじゃあないか?ま、非現実的であり、安倍総裁は空言をもてあそんでいると批判されても仕方がないところがある。

政策技術的なことは官僚・日銀マンに任せ、安倍総裁は野田首相の仕掛けに敢えて乗って、TPP参加に賛同するのか、反対するのか、はっきりした姿勢を堂々と示すべきだろう。TPP参加の可否のほうが、はるかに日本の将来を本質的に決定する事柄である。TPPを争点にされると自民党は座り心地が悪かろうが、民主党は賛成を公認の条件にするとまで言っている。自民党も態度表明から逃げるべきではない。

2012年11月18日日曜日

日曜日の話し(11/18)

カミさんはその後ずっと松山の実家の近くに部屋を手当てして、義姉(といってもカミさんのほうが年長であるが)を支えてきたが、この週末三泊四日で拙宅に戻り、骨休みをして、今日は霙混じりの強風が吹く中、再び四国に戻っていった。あと一週間で満中陰、納骨の儀と相成るので、そのあと一週間程滞在してから、当地に戻ってくることにしている。小生の逆単身赴任生活もあと僅かになった。

× × ×

前の日曜日の話しで話題にしたヤーコブ・ロイスダールはオランダが黄金時代にあった17世紀前半に生きた人だ。ロイスダールをはさんで、同じ時代にオランダと今のベルギーに含まれるフランドル地方から煌めく星座のように多数の大芸術家が育ったことは、驚嘆に値する。

ルーベンス1577〜1640
レンブラント1606〜1669
ロイスダール1628〜1682
フェルメール1632〜1675

ちょっと数えるだけでも出てくる。もちろん生前は互いに意識しながら仕事をしたことだろう。この時代、オランダは国際貿易で巨万の富が蓄積され、当時の芸術家にとっては宝石のように高価であった顔料 − ウロトラマリン・ブルーの原料になるラピスラズリは典型である − を入手しやすかったという地の縁・金の縁を無視することはできない。


Johannes Vermeer、牛乳を注ぐ女、1660年

上の作品でも使われているブルーは<フェルメール・ブルー>と称される。画家フェルメールを支えたパトロンは、領地と城を保有する貴族ではなく、オランダ経済を支える大商人達であって、簡単にいえば不動産でなく、カネを持っていた。彼らはそれほど大きな屋敷に住んでいたわけではなく、会社経営の実務に携わる多忙な人間達だった。そんな人間達が愛好する絵画作品は、したがって、それほど巨大な大作ではありえず、部屋の壁にかけておいて仕事の合間に鑑賞するという流儀である。上の作品も、調べてみると、46センチ×41センチの小品である。

とはいえ、大作ではないものの、役にも立たぬ芸術に宝石と同じ価値の顔料を使わせるなど、粋な生活ではあるまいか。オランダという国家からはとっくに黄金時代の輝きは失われ、世界を左右する力などはもはやない。それでもオランダという国の魅力を形成し、オランダ人が周辺国から、世界から侮られず、存在感を発揮できる理由の一つとして、偉大な文化遺産の少なからぬ部分をオランダ人が創造してきたという歴史がある。こう言ってもいいような気がするのだな。100年後に生まれたドイツの大文化人ゲーテも、身近にオランダ人画家の画集をおいて、自らの芸術を創造する刺激にしていたのだ。国の力は、最初は軍事力であり、次は経済力であるかもしれないが、究極的には文化・文明であり、特に芸術的な美の遺産はその後ずっと世界の人間を魅了するものだ。それがその国の子孫を助けるというべきだろう。

× × ×

経済的には浪費であり、無駄な出費に見えるとしても、100年後、200年後の子孫が感謝するのは、リアルタイムで役立つように見えた資産ではなく、実は浪費と思えた末の成果であることが多いものだ。ピラミッド、パルテノン神殿。ローマの建築物の大半は贅沢な浪費であったろう。中国の万里の長城が<長城>として、どのくらい有用であったろう。

役に立つかどうかは、その時に生きている人間が100パーセント判断できるものであると考えれば、それは傲慢にすぎる。人間なんてそんなに物事は分かっちゃあいない。間違いだらけである。単に、色々なことが分かっているかのように話したり、しゃべったりしているだけであり、専門家とても、こと人間社会に関する限り、素人と大差はないものだ。「これって役に立つんですか?」、これが本質的に愚問であるとは気づかず、鋭い指摘だと信じきっている<自称・賢人>をみると、小生、その愚かさに耐えられない気持ちになるのだな。

ゲーテも「対話」の中で語っているが、時間が全てを生み出し、何事も時間が解決するものだ。真の完成、真の成熟は時間なくしてはもたらされない。時間を惜しんだ仕事は、日本の作家・池波正太郎がいうところの<急ぎばたらき>であり、手抜きは破綻の一里塚となる。市場が強要する効率化は、有り体にいえば<理にかなった手抜き>であり、だからコスト節減ができる。それ故に、真の成熟と真の完成という理想は、ビジネス原理とは中々両立しないのだと思う。むしろ事業の拡大が頭打ちになり、堕落した経営者が蓄積されたカネを事業に投資するよりも、私的な趣味にカネを転用するとき、その浪費の泥水の中で生きた天才が、真の芸術をなす。ここに<歴史の逆説>があると思っているのだ。

今の日本は、政府は貧乏だが、国全体はカネが余っている − 経常収支の黒字がずっと続いているというのはそういうことだ。余っているカネを海外投資するのもいいが、投資して得たものは、本当に日本の富になるのだろうか?結局、雲散霧消するのではないか?よい使い道が日本国内にないのであれば、大株主に配当して、オーナーは自分の感性に沿う芸術家のパトロンになって、思う存分に創造活動をさせるのも一法であろう。100年後、200年後、300年後の日本人に感謝され、日本人が尊敬されるよすがになるのは、真によいもの、真に偉大な芸術だけではないだろうか。その<偉大さ>は、<浪費>から生まれるものであり、<市場の選択>からは生まれないように思うのだ、な。投票で選ばれる民主的な政府からも生まれ得ないような気もするが、この話題はまた別の機会に。



2012年11月15日木曜日

政治劇の序破急、野田首相の演出も上出来だ

昨日の投稿で、民主党内の「任期満了居座り論」に勢いがつき、確かに民主党の立場から言えば、それも理屈だと考える議論を展開したのだが、その直後に野田首相が16日解散を安倍自民党総裁との党首討論で明言して、事態は急展開、首相が国会で明言したことを事後的に打ち消す権能は政党にはないので、これで決まりだ。先日の投稿で、小生、年内解散に1万円を賭けた。その賭けには勝ったが、解散を言う場の選び方としてはいい感覚をしていると。その点は吃驚している。

鳩山・菅のダラダラ政治から野田内閣になってから速度があがった。運転は乱暴になった。そして解散。序のあとの破、次は急である。政治の再活性化とダイナミズミの復活。期待していていいのだろうか。実は、今回の解散決定は序破急の急であり最終幕なのかもしれない。とすれば、自民党・公明党が勝利して、首相官邸に戻った安倍新総理は『帰り来たれば、官邸の品々、皆旧に依る、如何ぞ涙垂れざらん』と述懐をかたり、そして国土の均衡ある発展を求め、古き良き政治に戻し、美しい日本をつくる、近いうちにそんな日が来る・・・これでは道は開けないだろうと思っている。。

2012年11月14日水曜日

民主党・年内解散のゲーム論?

野田首相はTPP参加を争点にして、TPP参加に慎重な安倍自民党と選挙で決着をつける方向に舵を切ろうとしている。このように報道されているが、肝心の民主党内部では常任幹事会で年内解散反対が相次ぎ、さらに支持基盤の一つである前原グループ幹部からも反対が表明されるなど、野田首相は孤立の色を深めているようだ。とはいえ、もうここまで来れば、引けないだろう。「やけっぱち解散」か「雪隠詰め総辞職」のいずれかしか、首相のとりうる道はない。

菅直人元首相は、政権交代が支持されて民主党が与党となった。内閣不信任案が可決されること以外の理由で解散をするべきではなく、不信任されないならば任期満了まで続けるべきである。こんな旨を発言したという。

どうも奇妙な論理だ。不信任が可決されないことが世の趨勢と一致しているならば、直ちに解散をしても民主党は勝てるはずである。菅元首相の発言の背後には、選挙をすれば民主党が負ける、しかし2009年に支持されて政権についたことは事実であるので、任期が満了するまでは政権を担当する権利がある、そう主張していることと同じである。

選挙をすれば民主党が負けると確信をしているなら、それ即ち<信任>されていないことを認めているのではないか。

大体、野田首相が辞職するとして、また代表選挙をやるのか?したとしても、菅→野田→別の人物と、このように選挙を経ずして、ただ党内事情から三人の首相をタライ回しするとなると、さすがに国民の許容する所ではあるまい。小泉首相以後の首相も安倍→福田→麻生ときて、三人目に政権を失った。まあ、タライ回しも三人目が限度であるのが経験則ではないか。とすれば、野田首相による「やけっぱち解散」で敗北するも、「タライ回し首相」の追い込まれ解散で敗北するも同じことではないか。そんな見方もありうるわけだ、な。

そもそも2009年・大勝利の時の公約(=マニフェスト)はほぼ全てが破たんし、時の代表であった鳩山元首相は自分たちの未熟を自己批判しているくらいである。任期と言ってももう残すところ1年程度である。「近いうち」解散の約束を反故にすれば、参議院は動かないから、もうこの先は何もできないに違いない。将棋であれば敗北必至、負けの局面である。王が詰むより前に<投了>したっておかしくはない。

一見すると、野田首相の早期解散戦術が理には適っているように思われる。

× × ×

しかし、暴論と思われる思考こそが、真にロジカルであることもある。民主党幹部が主張するように、あくまで野田首相の約束は反故にして、任期満了まで強気に押していこうというのも一つの戦略には違いない。「押さば引け、引かば押せ」が該当する状況を<戦略的代替関係>があるというが、いま民主党が強気に出るなら、野党はどこまで強気に対抗できるだろうか?兵糧、というよりも重要法案を人質にとる野党という言い方がなされるが、与党のほうだって「野党が協力してくれないので法案が通りません、どうしようもありません」と匙をなげる戦術がある。ゲーム論でいう<ホールドアップ>である。民主党にこれ以上失うものはない。この点が重要だ。であれば、重要法案を人質にとったつもりの自民党は、ちょっと甘いというべきかもしれない。攻勢に出られるはずの自民党こそが自滅のリスクをもつ。自民党が次の政権を担当する可能性が高まれば高まるほど、民主党は逆に開き直り、強気に出る誘因をもつと言える。まああれだな。不良債権で倒産必至になった銀行の経営者が、自暴自棄のギャンブラー(=追貸し)戦術を選んだことと似ているようでもある。

ところが野田首相は敢えて自民党が歓迎する融和路線(=ソフト・コミットメント)である年内解散路線を打ち出してきた。事実認識が党幹部と少々異なっているようだ。首相は、ソフトに出ればソフトに出る、タフに攻撃してくればこちらも反撃するという<戦略的補完関係>を想定しているようだ。次の衆議院選挙で負けるにしても、参議院では第一党であり、自民党との良好な関係を築いておけば、協調体制の下で一定の発言力を保持できる。そう判断したのでもあろう。しかし、これらの思考はすべて自民党が民主党と協調する動機がある場合に限る。所詮、政党の国会席取りゲームはゼロサムゲームであり、協調することに自己利益はない。次の衆議院選で民主党が敗北すれば、自民党は参議院・民主党に揺さぶりをかけて、離党者を増やす作戦に打って出るのが理屈である。だからこそ、どうせ裏切られるなら、今から自民党は信頼せず、任期満了まで ― たとえ政策は何も進展がないとしても、それは自民党の非協力を訴えればいいのだから ―  議員の椅子に座り続ける。この戦略がロジックにはかなっている。こうも言えるだろう。

昼食を同僚とともにしたが、彼は「維新の会が怖いので、相手の組織が固まるまでに解散しちゃえってことだと思いますよ」と、自民党ではなく維新の会を仮想敵国とした戦術である、そんな見方だった。維新の会は民主党と支持者を食い合う関係じゃあないと思うのだが、しかし浮動層はどこに投票するか予想もつかないから、上の見方もあるかも。そんな話をした。

2012年11月12日月曜日

ストーカー、痴漢、etc. ― 国家権力が監視するべきなのか

ストーカー、痴漢、ハラスメントなど現代的性犯罪が横行しているが、逗子ストーカー殺人事件でまたまた一騒動が起きている。この種の事件が発生すると概ね「守れぬ命―規制法の不備を露呈」等々という報道が洪水のように新聞のヘッドラインを飾る。今回は最初の逮捕状に記載されている被疑事実を読み上げるときに、被害者の現姓と現住所も含めて相手に伝えた点がまず今回の事件につながる原因になったと批判されている。更に、嫌がらせメールに書かれている文面だけでは犯罪を構成できないという点が、今回の殺人事件を予防できなかった原因になったと、そう批判する論調が報道の大半を占めている。

『警察は起こってしまった事件を捜査して犯人を逮捕するという面では得意なのでしょうが、犯罪を未然に防止するという点では不十分なんですよね』、今朝の某TV局のワイドショーでは誰であったか、こんな意見を表明していた。

個人的疑問がいくつかある。


  1. 逮捕とは国家権力が個人の行動の自由を奪う行為である。逮捕されるには十分な理由を知る権利がある。もし十分な理由を当人に知らせなくとも、警察は必要だと判断した段階でその人を逮捕可能であるとするならば、本当に日本国民はそんな国にしたいと望んでいるのですか?私はそう質問したい。だから、どこの誰に対する犯罪行為で自分は逮捕されるのか、その点を知らせずに逮捕するという行為を警察はするべきではない、小生はそう思う。「なぜ逮捕されるのか、本人は分かるはずだ」などと誤魔化してはいけない。
  2. 警察は犯罪の予防をするべきなのか?そもそも捜査・逮捕をする警察組織と、起訴をして刑罰を求める検察組織は分離されている。そうしないと国民にとって危険だからだ。犯罪を予防する組織と、起こった犯罪を捜査し犯人を逮捕する組織も、やはり分離するべきだろうと小生は思う。とすれば、そもそも犯罪を予防する行動は国家権力が直接担当するべきなのか?小生、この点についても甚だ疑問に感じる。<予防>のためには、あらゆる行為が正当化されるであろう。狼を恐れて、虎を家の中に入れるのですか、ということだ。
  3. メールに書かれている文面は、脅迫には当たらず、ストーカー規制法では対応できなかった。その点も法の不備として非難されている。幸いにして小生はこれまで経験した事がないが、親族の一人がもう昨年になったか、嫌がらせメールの被害を受けたことがある。その嫌がらせメールは、発信者が匿名であったが、ごく近くの知人・親戚でなければ知りえない事柄が書かれていた。警察に相談したところ、「文面だけを見ると犯罪であるとは言えないのですね、ただプロバイダーの協力を得て、誰が、というかどのアドレスから送信されたかは調べることができる。そうすると相手がわかっちゃいますが、本当に調べますか?」と、そんなことを聞かれた由。その親族は、自分のメールアドレスを変更して、調査はしなかったそうだ。今回の被害者は、2か月で千通を超える嫌がらせメールを受け取ったということだ。スパムメールとして処理するとか、受け取りを拒否するとか、アドレスを変えるという方法もとれたように思う。


結局残る論点は、嫌がらせメールでは飽き足らぬ犯人が当人の暮らしている場所に出向いて犯行に及ぶ、そんな事態をどう防ぐか。ここである。小生、その予防を警察がやり始めちゃあ、最後に泣きを見るのは国民だよ。この点だけは断言できると思うのだな。自分が嫌なことはされたくない、されればハラスメントだ。どんなハラスメントも受けたくない、それを国が全ての人の権利であると認めますか?認めたうえで、国は防止にも力を入れますか?個人情報の保護どころではなくなりますよ、と。そういうことだ。

そもそも、犯罪防止は、権力ではなく、社会の機能だと思う。やれば、やりかえされる。まあ一言でいえば、ペナルティというか制裁機能がお互いに予想できる、そんなメカニズムが社会に備わっているのなら、警察が関与しなくとも紛争当事者の最終的犯罪行為を抑止できるはずだ。具体的には、相手がどんな武器をもっているか分からない。そういう状態は有効なはずである。また、狙う相手をとりまく親族・知人など周囲の人間たちが、自分に報復をするはずだという予想も ― 今回の逗子ストーカー事件では犯人が逮捕前に自殺しているので有効ではないが、それでも一般的には ― 犯罪を抑止できるであろう。

司法当局は、武器の携帯、私的な報復をどこまで容認するか、私人の正当防衛をどこまで広汎に弾力的に認めるのか。これらの日本の制度的背景が全て、日本人が自己責任において講ずることのできる自己防衛行動を決定しているのである。残念ながら、日本国内では自分の身を自分で(というか、自分たちで)守るという点について、日本国家は極めて強く国民の自由を制約しているように(小生は)思っている。だとすれば、「国民が生きる上でのリスクは全て国の責任でございます」くらいの気概をもって、適切な犯罪防止制度を工夫するべきだろう。しかし、そんな監視国家を日本人は望まないはずだ。とすれば、自己防衛のあり方という面にも、<自由化>と<規制緩和>が望まれるのである。小生は、そんな風に思うのだ、な。

2012年11月11日日曜日

日曜日の話し(11/11)

カミさんはまだ四国の田舎から帰らぬ。愚息は今月末から旭川で修習が始まるというので転居する、ついては賃貸契約の保証人になってくれ、印鑑証明がいると言ってくる。愚妹はずっと昔に亡くなった母が遺した株券が見つかった、どうしようかと言ってくる、等分で分けるから印鑑証明書を用意しておいてくれと言ってくる。なんでまた一度に印鑑証明が次から次にいるのか、その度に市役所にいくと時間もとられる、それなりに疲れる。こういうことは、ちょうど引き潮、満ち潮のように、何かの周期があるようだ。

前の日曜日の話しでは18世紀から19世紀にかけてのドイツの画家コルネリウスをとりあげた。とはいえ、『ゲーテとの対話』で最も頻繁に話題になっている画家なら、ロイスダールとクロード・ロランではないだろうか?ロイスダールは17世紀初め、オランダの黄金時代に活躍した画家であり、クロード・ロランは同じ頃にニコラ・プーサンとともにフランス的絵画を確立した大画家である。

最も有名なロイスダールは、ヤーコブ・ロイスダール(Jacob Izaaksz van Ruisdael)だが、父、叔父、従兄弟もみな同じ仕事をした画家一族だった。ゲーテが鑑賞したのはおそらくヤーコブ・ロイスダールだろうと推測できるが、叔父のサロモン・ロイスダールも中々いい作品を残している。


Salomon van Ruisdael、View of Deventer Seen from the North-West、1657
Source: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Salomon_van_Ruisdael_Deventer.jpg

サロモン・ロイスダールが生きた時代、オランダは世界の海を支配していた。日本にも貿易を求めて盛んに往来したが、先行していたスペイン人、ポルトガル人と区別して、英国人とともに紅毛人と呼ばれた。その一人、ヤン・ヨーステンはリーフデ号に乗船していたところ、1600年頃に日本に漂着した。関ヶ原の戦いがあった年である。ヨーステンは徳川家康の貿易顧問、外交顧問のような役割を果たすようになった。東京駅前の地名・八重洲はここに屋敷をもったヨーステンからとられたものだ。これは高校の日本史でも話題になっていると思う。

家康の朱印船貿易が拡大する中でヨーステンは再び貿易商として活動をはじめ、東洋におけるオランダの貿易拠点であるバタビア(ジャカルタ)との間を往来しながら、オランダへの帰国を求め母国と交渉したようだが − 行方不明になっていた本人の人物確認やその証明など、当時はスペインをはじめ敵対国も多いお国柄だったゆえ面倒であったのだろう − 結局、帰国は認められず、諦めて日本に戻ろうとしたところ船が難破し、遭難したという。1623年、歳は70歳前後になっていたという。

もしもヨーステンがオランダに帰国していれば、幕末に日本を訪れて鳴滝塾を開いたシーボルトとともに、というか20年も日本に滞在し、江戸幕府の始祖・徳川家康とも親密に交流し、日本の歴史にも深くかかわったことから、日蘭、いや日本とヨーロッパを結ぶ第一人者として西洋史にも名が残ったであろうし、ゲーテも日本を語るときにはヨーステンの名を口にしたことだろう。歴史にIFは意味がないのであるが、現実と想像を分けるのは一瞬の偶然であるとも言える。だとすれば、現実の歴史はその何割かは偶然によって決まっていると言ってもいいわけであり、それにもかかわらず歴史の必然を語るには、あとづけの理屈、単なる語り部を超えた理論がいる、その理論は現時点以降の将来を予測するにも役に立つはずであるし、役に立たなければ「理論」とは言えない。そして役に立ってきたかどうかは、経験から判断できるし、判断できるような理論でなければ「理論」とはいえない。そう言ってもいいのじゃあないかと思っている。

2012年11月9日金曜日

野田首相は戦う純化主義者か、それとも<直官>総理なのか?

前の前の投稿では「野田首相は年内解散をして約束を厳守するほうに1万円を賭けてもいい」と見栄を切ったものの、年内のロシア訪問を断念、年明けまで延期する方向で再調整などという報道が流れたりして、ああこれはあかんわと投げていた。ところが今日になって次の報道が流れてきた。
政局の焦点である衆院解散・総選挙の時期を巡り、野田首相が環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加を表明し、その直後に衆院解散に踏み切ることを検討していることが8日、わかった。
 複数の首相周辺や民主党幹部が明らかにした。11月下旬から12月中旬に解散し、投開票日は12月中か年明けの1月が有力だ。首相は、TPP参加に慎重な自民党との違いを際立たせ、衆院選の対立軸にできると判断しており、早ければ月内の参加表明を探っている。TPP参加に反対する民主党議員の集団離党につながる可能性があり、政局は一気に緊迫の度合いを増しそうだ。
 首相が、解散を判断する環境整備に挙げる赤字国債発行を可能とする特例公債法案は、21日にも参院で可決、成立する見通しとなった。首相は同法案の成立後、TPP交渉参加表明と解散の時期について最終判断するとみられる。(出所)読売新聞、11月9日(金)3時6分配信 
こういう手で来ましたか・・・。やるねえ、そう思った次第。首相在職中に反小泉改革勢力との妥協を選んだ安倍晋三・現総裁のウィークポイントをつく作戦であるな。いまなお懐かしみをもって想起されることの多い小泉内閣時代のアグレッシブな − 実は橋本龍太郎内閣にその源をもつ改革路線であると言えるのだが − 自由化政策の旗を今度は野田・民主党代表が振って、小泉のあとを継ごうと思えば継げた自民党総裁を守旧派に仕立てるつもりか。もしそうなら上手な喧嘩である。見事の一語につきる。

しかし、消費税率引き上げの道筋をつけたかと思うと、今度はTPP参加表明。これは正に霞ヶ関の官僚主流派の政策思想に合致している。以前に現内閣は<直官内閣>と書いたことがある。上の報道に裏付けがあるとすれば、野田首相はいよいよ党内純化闘争を仕掛け、自民党内の路線対立にも導火線を仕掛ける腹のようにも見えるし、そうでないとすれば文字通りの官僚シナリオ、官僚がプロデュースした<ピノキオ宰相>の面目が躍如している報道である。こんな風にも見られるのだな。

やりなはれ、やってくれなはれ。勝てばええんどす。戦いなき政治ほど国家を停滞させるものはない。次は、安倍総裁がどんな手で応じるかだ、な。

2012年11月7日水曜日

覚え書き − 国会の在り方は分岐点にあるのではないか

国会議員という人間集団は概ね<素人>である、というか素人でも偶々投票日当日に多くの有権者から票を集めれば、さしたる資格審査や業績審査を経ることなく、自動的に国会議員になるのが現行の制度だ。こんな風であるにもかかわらず、戦後日本においては国会は国権の最高機関であり、立法府としての役割だけではなく、専門知識を必要とする行政府にも議院内閣制や政務三役という名目で人を送り込み、行政の細部にまで彼らの裁量が働く形になっている。特に経済政策は、とるべき方向がロジックとして決まることが多いのだが、審議する議員がその議論を理解できない、用語を理解できないという状態が仮にあるとすれば、運転を知らない人が助手席に座って運転を指示するようなものであろう。ズバリ、危ないのだな。

これは放置してもいいのか?小生、昔からずっと疑問というか、不信というか、どういえばいいのだろう「ちょっとおかしいのではないか」という気持ちを持ってきた。だってそうでしょう。どんな職業に就くのも − 議員という職業があるというのもおかしいが − 必要とされる教育、実績、更に担当する職務によっては資格が求められる。その職務を担うに十分な能力があるという証拠が明示されなければならないというわけだな。しかし、議員という人間集団は<当選>したというだけであって、力量や実績についての十分性を有権者に示しているとは言いがたい。ありていにいえば、国会に最高の国権を与えるのは、猫に小判、豚に真珠、気違いに刃物、まあそんな格言も当てはまるのではないか?要するにそういうことである。本来なら<政党>が、こうした人物評価機能を果たすべきなのであるが、現時点の日本を観察する限り、政党といえる政党なぞ、一つもないし、将来も出てはこないだろうと思われる。

覚え書きまでに書き留めておきたいのは、国権の最高機関で職務を担う国会議員の選出の在り方の可能性は、二つしかないのではないかということだ。

(1)被選挙者になるための費用を高額にする。と同時に、議員歳費は低額にする。

日本の選挙費用は極めて高額である(参考ブログ)。誰でも立候補できるわけではない。しかしこのこと自体が、スクリーニング機能を果たしていると言えないこともない。現に高額の選挙費用を負担できるということは、それまでの職業生活で成功し、それ故に有能な人物であることを憶測させるからだ。だからといって魅力のある名誉職であってはならない。議員歳費を低額にすることによって、真にパブリック・マインドを備えた人物だけが議員を志す、そのための誘因を形成できるはずだ。高額の選挙費用と、高額の議員歳費の両方を実施する今の方式はモラルハザードを招き、不効率である。いわば<特権階級>を形成してしまう要因ともなる。この(1)の方向で選挙制度を運用すると、日本の政治は成功者による寡頭政治というか、エリート政治、貴族政治に近いものになろう。議員の職務専念義務のレベルをどう定めるかなどは技術的問題に過ぎないだろう。

(2)選挙費用を低額にし、議員歳費を高額にする。と同時に、資格審査・実績審査を導入する。

選挙費用を低額にすれば、誰でも立候補して議員を目指すことができる。社会意識が高く、行動力のある人材が議会に参加する道が開けるだろう。議員歳費を高額にすれば、そうした人材への報酬も正義に適ったものになろう。有用な人材を議会に集めるためには、こうしたインセンティブが必要だと思われる。しかし、この方式で議会を形成するなら、被選挙者になるまでの審査を厳格化するべきだ。具体的には、自治体に審査委員会を設置して、あらかじめ定められた評価基準に沿って提出された履歴、職歴、資格を審査し、その人物の能力が十分であるかどうかを判断する、そして審査委員会は審査議事録を選挙に先立って有権者に公開するべきだろう。これが政治に参加する国民の平等な権利を侵害するというのであれば資格と能力の十分性を確認するための予備選挙を選挙区ごとに行い過半数の容認を求めるべきだ。被選挙者が提供するべき情報についてあらかじめ項目を定めておくのは言うまでもない。この(2)は(1)とは違って、より左派的な路線に近いだろう。

学校の生徒会長選挙では誰が立候補しようと、彼がどんな人物であるか、普段の行動を観察しているので分かっているわけだ。それでも不適当な人物が偶々当選してしまうことはままあることである。民間企業では、当然のことながら、勤務評定や昇格・昇任は多数の投票にはゆだねず、専門部署が評価し、判断して、人事を差配している。そのほうが低コストかつ高信頼性のある人事政策を展開できるからだ。国家全体の人事局などありえようはずもなく、だからこそ選挙という制度をとっているわけだが、現行の選挙制度そのものに価値があるわけではなく、目的は高いパブリックマインドをもった有能な人物に議員になってほしい、この目的が大事なのであって、いまの有り様そのものが大事であるわけではない。誰にでも国民を代表する同等な機会を与えるという空洞化した理念が大事なのではなく、機能する国会が最も大事である。国会は目的ではなく、統治するためのツールにすぎない。

国会の在り方については、一度、基本から考え直すべきだと思う。

2012年11月5日月曜日

いまの政局 ― つまりは犬か猿かという選択である

特例国債法案がまだ宙に浮いている。

今年度予算の執行を人質にする行為は、いかに政局とは言え、ルール違反である。野田首相はそう主張したい腹のようであり、安倍自民党総裁もあまりに下劣な手練手管を弄したくはない様子なのであるが、「政党」というのは玉石混交の人間集団だ。結局は欲望丸出しのバトルロイヤルになるのではないか。なるしかない。小生は、政局なんてそんなものと、ずっと昔から思っている。
 自民党の安倍総裁は5日午前のTBSの番組で、民主党の輿石幹事長が年内の衆院解散に否定的な見解を示していることについて、「来年、解散・総選挙になり、自民党が与党になったら、予算を組み直さないといけなくなる」と述べ、解散先送りは国政に混乱をもたらすと批判した。
 さらに、安倍氏は「首相がウソつきか、真っ当な人間かを決めるのは、首相しかいない」と強調し、「近いうち」に国民に信を問うとした約束を守り、年内解散を実施するよう求めた。
 民主、自民、公明3党の合意に基づく「社会保障制度改革国民会議」の設置に関しては、人選に協力する姿勢を改めて示す一方、「議論は信頼関係があって成り立つ」と語り、同会議での議論は衆院選後に始めるべきだとした。
(出所)読売新聞、2012年11月5日11時05分配信
2009年の政権交代は、官僚主導から政治(家)主導への転換がスローガンだった。まあ、あれだな。国家運営の番を役人というイヌに任せるか、それとも民主党のサルを有権者が投票で国会議事堂に送りこみ、最近のぼせあがっているイヌをおさえにかかるか。その選択であったわけだ。サルの方が人間の形をした有権者の姿には近いので、国民は民主党議員には親近感をもったが、サルは所詮はサルである。まだイヌの方がましか・・・しかし、イヌにまた戻すと、またイヌが威張って、誰が飼い主か分からなくなる、それもケタクソ悪い ― この「けたくそ悪い」という形容詞は小生が育った田舎の方言かもしれない、標準語では「かたはら痛い」という語感に相通じる。

自民党は、霞が関のイヌたちと長年つきあってきたサルの一党だ。こちらのサルが覇権を握ると、旧体制に戻って国家は安定するだろうが、そこで暮らしている国民の将来は明るくなるか、お先真っ暗か、何ともいえない。ギャンブルだな。まあ、政治は当てにせず、我々が自分のことをしっかりやれば、それが一番っしょ。税金は高いより安い方が一番っしょ。東京のお上なぞ、できれば無いほうがいいに決まってるっしょ。

あとは賭けて今の政局を楽しむがよかろう。政局の存在価値などはその程度である。小生は年内解散・首相が約束を厳守するの方に1万円をイーブンで賭けてもよい。

2012年11月4日日曜日

日曜日の話し(11/4)

ゲーテが晩年を迎えた1830年前後、彼は同時代の画家の作品を散々にくさしているのだが、幾人かの例外としてコルネリウス(Peter von Cornelius)を誉めている。
ゲーテはそれから私に(=エッカーマンに)、コルネリウスの新作の絵について、その構想といい、その展開といい、実に力にみちているとほめる。そして絵がすばらしい色彩を見せてくれるきっかけは、構想にあるという話しになる。(岩波文庫版「ゲーテとの対話(中)」、171頁から引用)
その後の叙述が思いがけない。
生物はあらん限りその生存を続けていくが、しかも、それから自分と同じものを再び生み出す工夫をこらすものだ、ということに思い至る。この自然の法則は、私に、世界の太初においては神はたった一人でおられたが、それから神の似姿をした息子を創られたのだというあの伝説を思い出させる。
そのようにして、すぐれた師にとっても、自分の根本原理と活動をうけついでくれるすぐれた弟子を育てあげること以上に切実な仕事はないのである。・・・作品がすぐれていれば、それと同じだけ当の画家あるいは詩人がすぐれていることになるであろう。だから他の誰かのすぐれた作品を見ても、私は決して嫉妬心を燃やしたりしてはいけないのだ。というのも、結局それは、それをつくるだけの価値のあったすぐれた人間に帰するからである。
忠実な弟子エッカーマンが心に抱いている複雑な陰影が思わず表出されている下りではあるまいかと読んだ次第。


Peter von Cornelius, Tavern, 1820

1820年に制作した作品をゲーテが1830年に新作とは言うまい。おそらく、1830年2月21日にゲーテが自宅の小室でエッカーマンと昼食をとりながら語ったというコルネリウスの新作は、上の作品ではないのであろう。真相は、小生の調査不足にもよると思うが、分からない。ナザレ派の画家であるコルネリウスの代表作は、主として歴史や神話に画題を求めており、上のような当時の居酒屋を描くことはそう多くはなかったのではないか。

この後、エッカーマンはゲーテからコルネリウスの銅版画を見せてもらうのだが、彼の目にはそれほど優れた作品にはうつらなかったようで、そのことも記されている。ここも霧がかかったような文章である。

文豪の晩年に年齢を超えた友情を育んだもののエッカーマンは、結果として独自の作品を遺すには至らず、その代わりに師ゲーテの人となりを伝える語り部となり、それによって歴史に残る作家となった。自分の役回りに徹することが大事であることは分かるが、生前のエッカーマンその人の心の中は永遠の謎である。

この同じ2月の初めには<報酬>の話しをしている。英国の聖職者の余りの高給ぶりがヨーロッパで評判になっていたというか、他国の同業者と余りに違うので顰蹙をかっていたというのだな。『世界は報酬を支払うことによって支配される、という意見がある。だが世界がよく支配されているか、悪く支配されているかを教えてくれるのは報酬であることを私は知っているよ』(同上、163頁)。報酬は「労働の価格」ではあるが、と同時に「正義の表現」にもなっている。人間の価値はそうそう変わるわけではあるまいに、需給関係や既得権益から不合理な報酬が支払われているとすれば、「社会正義が損なわれている」という心情が広がるものである。ゲーテは市民階級出身であり、ワイマール大公国の官僚として立身出世したが、先祖代々の遺産はなく、彼一代の才覚で稼いだ人物である。著作物の出版、販売動向にも関心が強い。優雅ではあるが、整理整頓が行き届いていて、財産管理もしっかりしている。こんな人物はあまり好かれる者ではないと思うのだが、多くの人から愛されたというのは、明るく快活だったというその性格にあったのだろう。こんなことも言っている。
正義は広い領域を占めるが、心の善良さはより広い空間を占有する。
彼が生きた時代は、神よりは理性と啓蒙の時代であり、フランス革命にも見るように<正義>が主張された時代だった。そして正義が次々に主張される世はその後ずっと現在まで続いている。「わたしは、ある機会に、現代文明の特徴をあらわすために、それを倫理時代と呼んだことがある。そこでは多くの人が、正義を行わなければならないと考え、また自分は正義を行いうると信じている・・・」(手塚富雄「生き生きと生きよ、ゲーテに学ぶ」(講談社電子文庫)から引用)。ゲーテは、正義の不毛と、自分自身の心の姿がより大事であること、善良な心に沿わない正義はこの世から消えていくことを示唆している。正義とはいえ、どんな正義でも世を変えるとは言えないことくらい、あまりにも明瞭ではあるが。


2012年11月2日金曜日

ヨーロッパ統合への道はあまりにも遠い

カミさんはいま四国・松山にいる。義兄の葬儀が終わって既に2週間になる。奥方はまだ40代である。どこでもそうだが、現役の世帯主が亡くなると、預金は自動的に凍結されるので、当座の資金に困る。カネに関連する名義の書き換えをしないといけないが、相続手続きとも関連するので面倒であるようだ ― 遺言書が公正証書として存在していればまた事情がずいぶん変わるようだが。確かに、いかに妻とはいえ、勝手に名義を書き換えて預金を引き出すことが可能であるなら、もし万が一、隠し子がいて財産相続権を主張してきた場合には、他界後に預金引き出しを許した銀行の責任が問われるであろう。まったく面倒である。そんなこんなで、うちのカミさんは今月中は松山にいて話し相手にならないといけないようだ。自炊も楽な時代になったが、昨日の昼に近くのレストランで食べたときの油が悪かったか、すぐにムカムカして、完全に腹をこわした。こんな時は一人暮らしは本当にさびしいものである。

とはいえ、電話で愚痴も言えるわけである。困ったときは<相身互い>である。

× × ×

ロイターで報道しているのだが、
 [ブリュッセル/ロンドン 1日 ロイター] 英議会は31日、欧州連合(EU)に予算の削減を求める動議を可決し、キャメロン英首相にとっては、1兆ユーロ(1兆3000億ドル)規模のEUの長期支出計画に対して強硬な姿勢で臨むことを求める圧力が高まった。
 一方、フランスは農業補助金の削減提案に反対し、拒否権発動も辞さない姿勢を示しており、EU予算をめぐる対立が強まっている。
 
 英議会の議決に強制力はないものの、与党保守党の反対派グループが野党労働党の一部と組み、動議を可決した。
 キャメロン首相に反対する保守党議員は、キャメロン首相に対してEU予算の凍結を支持する姿勢を取り下げ、予算削減を求めるよう促している。
 
 一方、最も多額の農業補助金を受け取っているフランスは、2014─2020年のEU予算を500億ユーロ以上削減するため、議長国のキプロスが妥協案として提示した農業補助金の削減に反発している。
 
 EU議長国であるキプロスは29日、予算の規模を縮小するため、農業分野への助成の削減幅を比較的小さく抑えながら、経済的に豊かでない国へのインフラ投資に充てる予算を最も減らすことを盛り込んだ妥協案を提示した。
 
 農業予算は提案通り削減されたとしても依然として最大の支出項目だが、フランスのルナール・カズヌーブ欧州問題担当相は「われわれは削減提案に反対する。フランスは共通農業政策に関する予算を維持しない長期予算を支持できない」と述べた。
また以下のような続報もある。
 [ロンドン 1日 ロイター] オズボーン英財務相は1日、英国は欧州連合(EU)予算の削減を望んでいるとし、予算が英国の納税者にとって望ましいものでなければ、キャメロン首相が拒否権を発動すると述べた。
 同相は、BBCラジオ4に対し「われわれはEUの予算の削減を望んでいる。協議は初期段階にあり、どう展開していくか見守る」と語った。
 さらに「英国の納税者にとって望ましいものでない限り、受け入れない。納税者にとって良くなければ、拒否権を発動する」と強調した。
 英議会は前日、EUに予算の削減を求める動議を可決し、キャメロン首相にとっては、1兆ユーロ規模のEUの長期支出計画に対して強硬な姿勢で臨むことを求める圧力が高まった。

 いまの欧州の混乱は、多国間の財政移転制度が完備していない点にあること、既に明瞭ではないだろうか。それと正反対の主張なり、行動がいま繰り広げられている。

英国・連立政権のパートナーであるクレッグ自由民主党党首は次のように述べている。
Nick Clegg said the Government's defeat in the House of Commonson its proposal for a freeze in the EU budget showed that Europe was once more "a party political football".
Responding to calls that the UK should renegotiate the terms of its membership in the EU, the  Liberal Democrat leader said the idea that the UK could "opt-out of the bad bits but stay opted-in to the good bits, and that the way to do that is a repatriation of British powers" was a "false promise wrapped in a Union Jack"
Mr Clegg claimed that other members of the EU would not tolerate the UK trying to extract itself "from the bulk of EU obligations".
Source: The Telegraph, Friday 02 November 2012 
 クレッグ党首の意見が妥当だ。


EU議長国は輪番制によりキプロス大統領がつとめている。その大統領がEU予算減額案を提案して、フランスがそれに反発し、英国と同様に拒否権をちらつかせている。


イギリスが得をするためにEUを利用し、フランスが得をするためにEUを利用する、ドイツはドイツでドイツの利益を大事にする・・・という風に自国利益を求める戦略を各国が採るのであれば、欧州全体が囚人のジレンマに陥る。これは、ゲーム論の初歩的なエクササイズだ。

既に通貨は統合されている。だとすれば検討課題は、モラルハザードをおかした国家なり個人に、どの程度のペナルティをどのように課すかであって、<ヨーロッパ>という国家連合の全体利益を現実に実現できるメカニズムを設計しておくことだ。その次に、全体利益の再配分システムをどう設計するかである。富裕国から貧困国への財政移転を多数国が容認できる形で行うことができるか、できないか。求められていることは極めて単純だと小生は思う。カネを出すからクチも出せるのだ。

既にファン・ロンパイ理事会議長はロンドンを訪れ、メルケル独首相も来週にはキャメロン英首相と会談予定ということだ。まあ<EU域内は相身互い>というわけにはいかないようだ。ヨーロッパ統合への道は余りにも遠い。