2012年11月11日日曜日

日曜日の話し(11/11)

カミさんはまだ四国の田舎から帰らぬ。愚息は今月末から旭川で修習が始まるというので転居する、ついては賃貸契約の保証人になってくれ、印鑑証明がいると言ってくる。愚妹はずっと昔に亡くなった母が遺した株券が見つかった、どうしようかと言ってくる、等分で分けるから印鑑証明書を用意しておいてくれと言ってくる。なんでまた一度に印鑑証明が次から次にいるのか、その度に市役所にいくと時間もとられる、それなりに疲れる。こういうことは、ちょうど引き潮、満ち潮のように、何かの周期があるようだ。

前の日曜日の話しでは18世紀から19世紀にかけてのドイツの画家コルネリウスをとりあげた。とはいえ、『ゲーテとの対話』で最も頻繁に話題になっている画家なら、ロイスダールとクロード・ロランではないだろうか?ロイスダールは17世紀初め、オランダの黄金時代に活躍した画家であり、クロード・ロランは同じ頃にニコラ・プーサンとともにフランス的絵画を確立した大画家である。

最も有名なロイスダールは、ヤーコブ・ロイスダール(Jacob Izaaksz van Ruisdael)だが、父、叔父、従兄弟もみな同じ仕事をした画家一族だった。ゲーテが鑑賞したのはおそらくヤーコブ・ロイスダールだろうと推測できるが、叔父のサロモン・ロイスダールも中々いい作品を残している。


Salomon van Ruisdael、View of Deventer Seen from the North-West、1657
Source: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Salomon_van_Ruisdael_Deventer.jpg

サロモン・ロイスダールが生きた時代、オランダは世界の海を支配していた。日本にも貿易を求めて盛んに往来したが、先行していたスペイン人、ポルトガル人と区別して、英国人とともに紅毛人と呼ばれた。その一人、ヤン・ヨーステンはリーフデ号に乗船していたところ、1600年頃に日本に漂着した。関ヶ原の戦いがあった年である。ヨーステンは徳川家康の貿易顧問、外交顧問のような役割を果たすようになった。東京駅前の地名・八重洲はここに屋敷をもったヨーステンからとられたものだ。これは高校の日本史でも話題になっていると思う。

家康の朱印船貿易が拡大する中でヨーステンは再び貿易商として活動をはじめ、東洋におけるオランダの貿易拠点であるバタビア(ジャカルタ)との間を往来しながら、オランダへの帰国を求め母国と交渉したようだが − 行方不明になっていた本人の人物確認やその証明など、当時はスペインをはじめ敵対国も多いお国柄だったゆえ面倒であったのだろう − 結局、帰国は認められず、諦めて日本に戻ろうとしたところ船が難破し、遭難したという。1623年、歳は70歳前後になっていたという。

もしもヨーステンがオランダに帰国していれば、幕末に日本を訪れて鳴滝塾を開いたシーボルトとともに、というか20年も日本に滞在し、江戸幕府の始祖・徳川家康とも親密に交流し、日本の歴史にも深くかかわったことから、日蘭、いや日本とヨーロッパを結ぶ第一人者として西洋史にも名が残ったであろうし、ゲーテも日本を語るときにはヨーステンの名を口にしたことだろう。歴史にIFは意味がないのであるが、現実と想像を分けるのは一瞬の偶然であるとも言える。だとすれば、現実の歴史はその何割かは偶然によって決まっていると言ってもいいわけであり、それにもかかわらず歴史の必然を語るには、あとづけの理屈、単なる語り部を超えた理論がいる、その理論は現時点以降の将来を予測するにも役に立つはずであるし、役に立たなければ「理論」とは言えない。そして役に立ってきたかどうかは、経験から判断できるし、判断できるような理論でなければ「理論」とはいえない。そう言ってもいいのじゃあないかと思っている。

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