2012年11月18日日曜日

日曜日の話し(11/18)

カミさんはその後ずっと松山の実家の近くに部屋を手当てして、義姉(といってもカミさんのほうが年長であるが)を支えてきたが、この週末三泊四日で拙宅に戻り、骨休みをして、今日は霙混じりの強風が吹く中、再び四国に戻っていった。あと一週間で満中陰、納骨の儀と相成るので、そのあと一週間程滞在してから、当地に戻ってくることにしている。小生の逆単身赴任生活もあと僅かになった。

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前の日曜日の話しで話題にしたヤーコブ・ロイスダールはオランダが黄金時代にあった17世紀前半に生きた人だ。ロイスダールをはさんで、同じ時代にオランダと今のベルギーに含まれるフランドル地方から煌めく星座のように多数の大芸術家が育ったことは、驚嘆に値する。

ルーベンス1577〜1640
レンブラント1606〜1669
ロイスダール1628〜1682
フェルメール1632〜1675

ちょっと数えるだけでも出てくる。もちろん生前は互いに意識しながら仕事をしたことだろう。この時代、オランダは国際貿易で巨万の富が蓄積され、当時の芸術家にとっては宝石のように高価であった顔料 − ウロトラマリン・ブルーの原料になるラピスラズリは典型である − を入手しやすかったという地の縁・金の縁を無視することはできない。


Johannes Vermeer、牛乳を注ぐ女、1660年

上の作品でも使われているブルーは<フェルメール・ブルー>と称される。画家フェルメールを支えたパトロンは、領地と城を保有する貴族ではなく、オランダ経済を支える大商人達であって、簡単にいえば不動産でなく、カネを持っていた。彼らはそれほど大きな屋敷に住んでいたわけではなく、会社経営の実務に携わる多忙な人間達だった。そんな人間達が愛好する絵画作品は、したがって、それほど巨大な大作ではありえず、部屋の壁にかけておいて仕事の合間に鑑賞するという流儀である。上の作品も、調べてみると、46センチ×41センチの小品である。

とはいえ、大作ではないものの、役にも立たぬ芸術に宝石と同じ価値の顔料を使わせるなど、粋な生活ではあるまいか。オランダという国家からはとっくに黄金時代の輝きは失われ、世界を左右する力などはもはやない。それでもオランダという国の魅力を形成し、オランダ人が周辺国から、世界から侮られず、存在感を発揮できる理由の一つとして、偉大な文化遺産の少なからぬ部分をオランダ人が創造してきたという歴史がある。こう言ってもいいような気がするのだな。100年後に生まれたドイツの大文化人ゲーテも、身近にオランダ人画家の画集をおいて、自らの芸術を創造する刺激にしていたのだ。国の力は、最初は軍事力であり、次は経済力であるかもしれないが、究極的には文化・文明であり、特に芸術的な美の遺産はその後ずっと世界の人間を魅了するものだ。それがその国の子孫を助けるというべきだろう。

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経済的には浪費であり、無駄な出費に見えるとしても、100年後、200年後の子孫が感謝するのは、リアルタイムで役立つように見えた資産ではなく、実は浪費と思えた末の成果であることが多いものだ。ピラミッド、パルテノン神殿。ローマの建築物の大半は贅沢な浪費であったろう。中国の万里の長城が<長城>として、どのくらい有用であったろう。

役に立つかどうかは、その時に生きている人間が100パーセント判断できるものであると考えれば、それは傲慢にすぎる。人間なんてそんなに物事は分かっちゃあいない。間違いだらけである。単に、色々なことが分かっているかのように話したり、しゃべったりしているだけであり、専門家とても、こと人間社会に関する限り、素人と大差はないものだ。「これって役に立つんですか?」、これが本質的に愚問であるとは気づかず、鋭い指摘だと信じきっている<自称・賢人>をみると、小生、その愚かさに耐えられない気持ちになるのだな。

ゲーテも「対話」の中で語っているが、時間が全てを生み出し、何事も時間が解決するものだ。真の完成、真の成熟は時間なくしてはもたらされない。時間を惜しんだ仕事は、日本の作家・池波正太郎がいうところの<急ぎばたらき>であり、手抜きは破綻の一里塚となる。市場が強要する効率化は、有り体にいえば<理にかなった手抜き>であり、だからコスト節減ができる。それ故に、真の成熟と真の完成という理想は、ビジネス原理とは中々両立しないのだと思う。むしろ事業の拡大が頭打ちになり、堕落した経営者が蓄積されたカネを事業に投資するよりも、私的な趣味にカネを転用するとき、その浪費の泥水の中で生きた天才が、真の芸術をなす。ここに<歴史の逆説>があると思っているのだ。

今の日本は、政府は貧乏だが、国全体はカネが余っている − 経常収支の黒字がずっと続いているというのはそういうことだ。余っているカネを海外投資するのもいいが、投資して得たものは、本当に日本の富になるのだろうか?結局、雲散霧消するのではないか?よい使い道が日本国内にないのであれば、大株主に配当して、オーナーは自分の感性に沿う芸術家のパトロンになって、思う存分に創造活動をさせるのも一法であろう。100年後、200年後、300年後の日本人に感謝され、日本人が尊敬されるよすがになるのは、真によいもの、真に偉大な芸術だけではないだろうか。その<偉大さ>は、<浪費>から生まれるものであり、<市場の選択>からは生まれないように思うのだ、な。投票で選ばれる民主的な政府からも生まれ得ないような気もするが、この話題はまた別の機会に。



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