2012年11月25日日曜日

日曜日の話し(11/25)

昨日義兄の満中陰を済ませ、カミさんは次の日曜日に戻ることになった。にわか一人暮らしはもう限界、というわけではないにしても、一人で暮らすのは本当に効率が悪い、それを実感した。若い頃にシングルで仕事漬けだった頃、突発的に市役所にいって手続きを済ませる必要が出来たとき、突然インフルエンザにかかったとき、自宅の設備に不具合が発生して業者に来てもらう、その業者は平日にしか来てくれない、そんな状態になった時、本当に困ったものだ。一人で暮らしていると、まま動きがとれなくなる。ライフスタイルとして脆弱なのだな。打撃に弱くバルネラブル(vulnerable)だ。両親がいれば臨時に来てもらうのだが、親を呼んで助手に使うなど本来は禁じ手のはずであるし、そもそも父はその頃もう闘病中であった。そして仕事を始めてから数年を経ずして父は亡くなってしまった。残された母に小生の雑用を押し付けるわけにもいかなかった。

そんなわけで待ち遠しいのだな、次の週末が。今日は前祝いをかねて映画でも観に行くか。

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そんなことを考えながら、NHKの日曜討論にチャンネルを合わせてみた。いつもは観ないのだが、今は選挙運動中だ。よく練った構想を各党の出演者が語ってくれるかもしれないではないか。で観たのだが、いやあ下らない、低レベルという表現を超えて、人前に出るのが大好きな人たちが日本国の将来はこうしようと口をパクパクとしながら話しているのをみて<恐怖>を感じました、な。

日本の議院内閣制はつくづくもう限界だと思う。国会議員を選挙で選んで、その国会議員が行政を制御していこうというには、肝心の日本国民の社会構造がすっかり変化してしまった。もう日本を統治できる国会議員など、選挙に立候補してくれないし、政治を志す人材を輩出する社会階層も、パブリックマインドをもった人材を育てる教育システムも、その教育システムを尊重する社会意識も戦後60年の間にすっかり風化してしまった。そんな思いに駆られる。

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おそらくいま30代の人は幕末から明治にかけて<二世を生きた>福沢諭吉と同様、全く違った二つの世の中を生きるしか、生きる道がないのではあるまいか?そういうなら文豪ゲーテも「二世を生きた」人であった。<共産資本主義>が限界を迎えている中国だけではなく、日本も社会変革を行わないまま今世紀の経済発展を目指すのは困難だろう。

東京証券取引所は「日本株キャラバン」と銘打って米英などの投資家を回ってきたという。ところが話しをした投資家達は口を揃えて「日本企業の自己資本利益率(ROE)が低すぎる」と指摘したらしい。それは社内に遊休化した「現ナマ」が多すぎる、死に金を抱えすぎている、だから利益率が低下するというロジックを今朝の日経が紹介していた。

(出所)2012年11月25日付け日本経済新聞3面から引用

それほどカネをもっているなら株主に配当するべきだ。その配当をもらった富裕層は海外に投資するのもいいが、日本国内の芸術・文化のために浪費してはどうか?前の投稿ではそんなことを書いた。芸術の成熟と完成は、ビジネスチャンスに恵まれた勃興期ではなく、カネはあれども衰退への兆しが訪れた時期に達成されるものだ。福祉社会が崩壊して、いよいよ落日を迎えるまでに、今の時期に、芸術的遺産を日本国内に遺しておくことは日本国民の将来世代にとって最も価値のある行動だろうと小生は思っている。

江戸時代・文化文政期の画家である酒井抱一は、譜代の名門である雅楽頭酒井家に生まれながら琳派の美への憧れを断ちがたく美術の世界にのめり込んだ。ま、明治の世に漱石がいった「高等遊民」として生きたわけだが、残した作品をみると正に芸術家の名にふさわしい。


酒井抱一 (1761-1828) 『風雨草花図(ふううそうかず)』、1821年頃
(出所)とおる美術館

酒井抱一は11代将軍・徳川家斉の治下、1821年(文政11年)まで生きて、江戸下谷根岸で死んだ。68歳。浦賀に黒船が来航するのは、彼の死の32年後、幕府が瓦解したのは46年後だった。酒井抱一よりも年上であった司馬江漢は、既にこの時代、洋風画に挑戦していた。


司馬江漢、相州鎌倉七里浜、1796年
(出所)Flickriver

酒井抱一が創造した江戸琳派はそのまま旧幕・日本の芸術的遺産となり、司馬江漢の洋風画のような先見性などはもちろん持っていなかったわけであるが、美の完成においては、過去や未来、先進や後進、これらのことは全く関係がないことだ。ただ完成されているかどうかだけであり、ビジネスの成否を決めるイノベーションとは無縁である。利益を生まないカネを持っているなら、美を創造できる人に、そのカネを使わせることは、小生、大変粋な使い方ではないかと思う。ま、浪費ではあろうが、使いみちに困るなら、浪費すればよろしいではございませぬか、それが最も喜ばれますぞ。そういうことである。





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