2013年11月29日金曜日

米株価 – 上昇トレンドに入ったのか

アメリカの株価はダウジョーンズが16000ドル台に乗ってきた。景気の今後の動きを考えると新時代到来に期待が持てそうな気分にもなってくる。

実際DJは、リーマンショックのあと14000ドルの壁を超えるのに相当の時間を必要とした。14000ドルの壁を突破した後は15000ドル、16000ドルは案外早期に到達した印象がある。


一部の銘柄の動きを反映しがちなDJでなくS&Pの方をみても大勢は同じだ。


2001年に「ITバブル」が崩壊して以降、160の壁が中々超えられなかった。それが最近になって181.12(11月27日現在)にまで騰がってきた。好調な経済指標が相次いで公表されたのに加えて、次期FRB議長に内定しているイェレン氏による「最適コントロール」が市場の評価を勝ち得ているからだ。

アメリカ経済の先行きを総括する指標としては幾つかのLeading Indexが公表されているが、中でも比較的良質で長期データが有料ともなっているコンファレンス・ボードの"Leading Economic Index"をみると以下のような図になっている。赤線は一致指数、青線が先行指数である。


指数の数値自体は基準化されているので意味はない。とはいえ、その変動量は景気変化の強弱を表している。だから、一致指数でみると、現在のアメリカ経済の状況はリーマン危機直前のレベルに復帰しつつあるという見方もあながち的外れではなく–実質GDPというもっと適切なデータがあるが–、他方先行指数のほうはリーマンショックの落ち込みの3分の2をリカバーしたという状態だと言えよう。そして、一致指数、先行指数いずれも上昇トレンドにあり、特に先行指数については最近になって上昇が加速している。 これはこの先6ヶ月程度のアメリカ経済の拡大を予見させる有力な材料である。米株価上昇は足元で感じられている明るい見通しを反映しているものだ。

ただ株価については、順調な上昇局面が既に4年続いていて、その間に大きな調整は行われていない。この背景にFRBによる量的金融緩和政策があるのは言うまでもない。米株価は「政策支援バブル」にあると形容してもいい。バブル要素の混入割合までは計算していないが。

経済実態とは別に金融政策の転換から大きめの株価調整が近々訪れるものと予想する。アメリカ株式市場の長期上昇トレンドはその後だろう。

確かにマクロ経済理論の進歩によって資産バブル崩壊の後遺症を防止できるようにはなった。バブル崩壊によって10年、いや20年間も経済停滞に陥るという危険性は予防できるようにはなった。しかし、非正統的手段で「驚き」を伴った量的金融緩和をおしすすめてバブル崩壊に対処する場合、確かに人々の予想に影響を与える事はできるし、バブル崩壊の負の効果を防ぐ事もできることは分かったのだが、これを終わらせる時期の選択、適切な出口戦略の決定がまだなお未解明ではあるまいか。

結局、生命維持装置をいつまでたっても外せない。そんな状態に追い込まれつつあるのではないか。そういう心配がないでもない。しかし、まあ、それでも政策研究の進展があるまでの時間稼ぎ。その位の意味はあるのかもしれない。




2013年11月26日火曜日

「対外危機意識形成」のグローバル化

対外危機意識の高まりがナショナリズムを刺激し、その時の国家指導者の支持率が跳ね上がる現象は歴史上頻繁に観察される事である。

古くはフォークランド紛争で決然として艦隊を派遣した英国のサッチャー首相がそうであったし、近くはアルカイダによる同時多発テロのあとのブッシュ大統領が当てはまる。ブッシュ大統領はテロ直後の高支持率を背景に有志連合を結成して対アフガン戦争を始めた。更に、2003年3月には大量破壊兵器隠匿を大義名分にイラクと戦端を開き、フセイン政権を打倒した。戦争開始には時の政権に対する非常に高い支持率が不可欠なのである。顧みると日本海軍の真珠湾奇襲は、戦術的に成功したとはいえ、アメリカの危機意識をたかめ、怒りを醸成したという点で戦略的にはまずかったわけである。<対外的危機意識>は、たとえその効果は一過的で短期的なものであるにせよ、国家指導者の支持率を高め、指導者がやろうとしていることを実現しやすくするものなのである。

中国が唐突に尖閣諸島を含む東シナ海空域に「防空識別圏」を設けたことから、このところ和解に向かうのではないかと憶測されてきた日中間に再び危機が高まっている。今度は、日本だけではなくアメリカ、台湾、さらにオーストラリアまで中国の強硬なやり方に危機感を刺激されているようである。

中国事情に詳しい日本の専門家の一人は「こうした強硬な対日外交をとることが必要な国内事情に習近平政権が置かれているという事です」という意見を口にしていた。危機の主因は中国にあるというわけだ。同様に、韓国の朴大統領の反日発言も「反日」そのものというより、朴政権が国民の反日姿勢を必要としている。そんな見方が多いようだ。

実は多少古いが韓国側にはこんな風な記事がある。
……日中間の摩擦が安倍首相が推進している防衛力増強に力を与えていると分析している。「安倍首相が中国脅威論を掲げて集団自衛権行使、ミサイル防衛システム拡充など安保問題で政治的立地を強化しており、中国の対日強硬対応がこれをさらにあおっている」というのが専門家らの分析だ。こうした雰囲気の中、安倍首相は先月の米国訪問時に「日本の周辺には軍備支出規模が日本の2倍に達する国がある。私を『右翼の軍国主義者』と呼びたいならそう呼んでもらいたい」と発言したりもした。(出所)中央日報、10月28日配信
 韓国は韓国で、日本の安倍首相が年来の持論を実行するために、それに都合の良い外交事情を自ら造り出そうとしている。そう見ているようなのだ、な。日本人のいう「中国という脅威」、あるいは「許せないほどの韓国の反日」。実はこの二つとも安倍首相の政治的ポジションを強化するのに欠かせない要素になっている。簡単に言えば、日中韓をめぐる対外的危機は安倍総理の側が造り出したものだ。どうやら日本が中国や韓国をみるのと同じ目線で韓国も日本を見ているようなのだ。中国も事情は大体同じではなかろうか。

安倍政権、習政権、朴政権それぞれがみな、自国に対してアグレッシブで好戦的な相手国を必要としている。好戦的言動を繰り広げる安倍首相は、習近平主席にとってウェルカムなのだ。なぜなら対日関係が悪化すればするほど、中国国内で危機意識が高まり、中国国民は統合される名分が立つからである。統合して習主席は実行しようとしている政策課題に取り組めるであろう。

同じ事情は韓国の朴大統領にも安倍総理にも当てはまる。中国海軍が空母を尖閣諸島近海に派遣する行為は、中国による日本に対する威嚇ではあるのだが、そうして威嚇されていること自体が安倍総理がやろうとしている本来の念願にとっては追い風となる。だから、強硬な中国は強硬な姿勢をとることによって安倍総理に味方していることになるわけで、それゆえ安倍総理には必要な中国となっている。

しかし、本来の意図は時間の経過とともに露出するものである。露出してはならないので、対日強硬姿勢が本来の戦略的意図であることを証明するためのコミットメントを中国は実行するだろう。たとえばそれは何発かの砲撃であるかもしれないし、「偶発的事故」の演出かもしれない。そうして事実において対外的危機が「演出」ではなく「現実」のものに転化するかもしれない。とはいえ、そうなることの全体がそもそも日中韓の現政権が訴えていることを事後的に立証することにもなるので、そうなっていってこそ政権の支持率は更に高まるだろう。

もしもいま、日本が対中和解姿勢を示して中国との雪解け外交に努力し、韓国とも慰安婦、強制徴用問題について協議を始めるようであれば、もっとも困惑するのは中国、韓国の現政権ではないかと思われる。対外的危機の消失は、中国と韓国の経済格差問題を露わにし、政府は困難な経済改革に正面から取り組むことを余儀なくされよう。こんな事情は日本も同じである。日本の課題は、年金削減と増税、そしてグローバル化に応じた規制緩和である。TPP参加もこの一環であるが、国内には強い異論がある。中国からの威嚇、韓国の強硬な反日なくしてTPPが検討の俎上に乗ったろうか。そもそも東アジア情勢が平穏だとして、それでも「集団的自衛権」を安倍総理は口に出来ただろうか。真面目に考える国民はいないはずである。平和であれば普天間基地の移設も進まず、辺野古移転もままならず、日米関係の基礎は動揺するに違いない。「アメリカ陣営」という色彩が濃厚なTPPに参加する必要性を国民が理解するとも思えない。そういう状況になっていたのではないか。

対外危機意識形成は、指導者が国内支持率を獲得する特効薬である。強い指導者像を追求したいと念願する動機は、確かにいま日中韓それぞれにある。なぜなら政策課題に取り組むには強い指導者であり支持率も高くなければならないからだ。互いに強硬な姿勢をとりつつ形成されるバランスオブパワーの中で、それぞれの国が抱えている本来反対の多い政策課題に取り組んでいる、それが現在の日中韓三国の右翼政権である。そう見ておいてもいいのではないか。



2013年11月24日日曜日

日曜日の話し-リアリティと夢の違い

NHKで放送中の「日曜美術館」は、小生の趣味と合致しているので、楽しみにしている番組の一つだ。

毎回必ず観ているわけではないが、本日のテーマは英国の画家・ターナーだったので、これは見逃せないというので、休日にもかかわらず(小生にとっては比較的に)早めに起きてみた。録画しておこうと思ったが、レコーダー側のチャンネルを合わせるのを忘れたのでしくじったのが残念だ。



Turner, Rain, Steam and Speed The Great Western Railway, 1844

本日の「日曜美術館」の最後に登場した作品は、上の有名な「雨・蒸気・速度」だった。フランス印象派の興隆は、確かに普仏戦争におけるフランスの敗北後のことだから、ターナーは30年ほどは先行して、風景画の革新をイギリスという世界でやってしまった。そんな風にも感じる絵だ。

もう昔のことになるが、役所の依頼でフランスのINSEE(国立統計経済研究所)とイギリスのCSO(中央統計局)を訪問したことがある。何の調査だったか大分忘れたが、GDP速報推計方式の改善に関連していたような記憶がある。とすれば、2000年前後のことになるだろうか。

行きの飛行機の中で、ところが、猛烈な風邪をひいてしまい、先に入ったロンドンでどんどん悪化してしまった。泊まったFlemingホテルの部屋が寒くて仕方がなかったのも一因かもしれない。仕事が終わった後、小生はTate Galleryには行ったのだが、National Galleryには疲れていけなかったし、Baker St.のSherlock Holmes Museumも行くのを断念したのを、いまだに取り返せずにいるのだな。それでもテート・ギャラリーにターナーのコレクションが展示されていたような記憶がある。とにかく風邪で頭がボオッとしていた。そのあとパリに回ったのだが、ルーブルでは古代ギリシアで観るのを諦めて、外に出て、薬局で薬を買ってホテルに戻って寝ていたことを覚えている。何とモナリザもドラクロワもみてないのだな。

いやあ全く散々な海外出張であったわけである。今日の日曜美術館をみながら、思わず恥ずかしい仕事ぶりを思い出して、今でもなお汗が出てくるような思いがした。

いま思い出しても恥ずかしいが、過去のことは既に過ぎ去ったことであり、いまの現実ではない。リアリティは、現実の中に存在するので、過去の思い出は追憶にすぎず、それは早朝にみる短い夢と本質は同じであろう。今日も夢の中に亡くなった母がいて、「もう一人になったから、何かやるといっても、やろうとは思わないよね・・・」と、父が亡くなった後だろう、小生はそんな風なことを語りかけていた。母はただ小生に微笑むだけであった。実際には、こんな会話を母としたことはなく、単に夢の中で小生の頭がつくり出した映像である。しかし、そんな夢を作り出す小生は確かにいま存在し、生きている。一体、夢の中の映像と過ぎ去った記憶の間に、どんな本質的な違いがあるのだろうか。

自分という人間存在を作っているという点では、過ぎ去った過去の記憶といまみる夢の世界と、いずれも同じ、何の違いもないのである。


2013年11月20日水曜日

戦前期日本の「国のなりたち」はよく見なおした方がいいのではないか

明治時代は45年も続いたが、時代の流れ、国民の意識でいくつもの期間に細分されるという。詳しい事は忘れたが、誰がみても第1期は西南戦争までの10年間(M10)、次は大日本帝国憲法(M22)までの第二期12年、それから日露戦争終了 (M38) までの第三期16年。最後に明治から大正へと移るまでの第4期7年間である。

戦前期日本が、いわゆる「帝国主義的拡大」を国策としはじめたのは、いつ頃からだろうか、と。時々、勉強し直したくなるのだが、確かにこの辺は相当細かく文献や資料を読み込まないと中々答えは出てこないだろうとは思う。たとえば、しかし司馬遼太郎などの歴史小説では、日露戦争ですら、帝国主義的な領土欲には汚されておらず、比較的純朴な動機に基づく自衛のための戦争であったと叙述している。とはいえ、軍部の独走はその前の日清戦争から川上操六など参謀達が立案した戦略の自動実行システムとして既にうかがわれるわけである。また、いかにアメリカなど西洋諸国との了解があったとはいえ大久保利通による台湾出兵(M7)は、「自国民保護」を名目とした一方的な海外派兵であることに違いはなかった。日本国民が自由経済システムの下で貿易を拡大し、自国民の安全が脅かされれば軍隊の派兵が当然許されるのだという基本認識があるわけで、それこそが「帝国主義」なのだと認識するなら、明治維新直後の段階ですでに日本は「帝国主義的」であったと形容されても仕方のない面はある。

ただ父などもそうであったが、昭和前期の平均的な日本人は満州も朝鮮も台湾も南方諸島もすべて日本の「領土」—正確にはおかしいのだが—である事に誇りをもっていたようだし、それでも日本は英米とは違って「持たざる国」であるという貧窮の感覚がひろく共有されていたようなのだ。そんな満たされない物欲というものを明治の日本人がすでに持っていたというのは、ちょっと信じられないのだな。ま、どちらにしても、1945年の敗戦を契機に「領土拡張=善」という意識は、まったく否定されてしまったわけであり、日本がアジアを解放したというより、これはそもそも時代の進歩に沿った動きであり、日本が能動的に動いて歴史の進歩を加速させたのだと小生は思う。動機に「利己的欲望」があったにせよ、もたらした結果はアジアにとって利他的であった。そんなところじゃないだろうか。

同じ結果を求めるなら、もっと賢明な行動戦略があったであろう。そういうことだと思う。

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伊藤博文を暗殺した安重根をめぐって日本と韓国政府が主張と批判のやりとりをしている。韓国の中央日報などでは結構大きな扱いをしている。
朴槿恵(パク・クネ)大統領が、安重根義士の石碑設置について中国側に感謝の気持ちを表わしたことに対して日本政府が19日「安重根は犯罪者」として極度の不快感を表わした。菅義偉官房長官はこの日の定例記者会見で「我が国は安重根については犯罪者であることを韓国政府にこれまで伝えてきた」として「このような動きは両国関係のためにならない」と話した。

彼は記者の関連質問にこのように答えた後「韓国には伝えるべきことについては明確に伝え、私たちの主張をしていく」と明らかにした。朴大統領は6月に北京で行われた韓中首脳会談で安義士が伊藤博文を射殺したハルビン駅に石碑を設置するよう協力を求めた。さらに18日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で楊潔チ国務委員に面会して関連の議論がうまく進んでいることに謝意を表した。これに対し日本が不快感を示したのだ。

日本政府の高位関係者が公開記者会見で「安重根は犯罪者」という表現を使ったのは初めてだ。日本メディアも朴大統領の発言に関心を示した。NHKは「中国との連帯を強化して日本に圧力を加えようとする意図があると見られる」と分析した。一部の右翼メディアは関係者の話を引用して「ハルビンが位置する東北3省地方は少数民族が多くて民族運動をあおる行為は中国が避けたがっているため、韓国を味方にするためのリップサービスに過ぎない」と報道した。

外交部の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は「日本の帝国主義・軍国主義時代に伊藤博文がどんな人物であったか、日本が当時の周辺国にどんな事をしたかを振り返ってみれば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。

一方、中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根義士について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」として韓国を援護した。
(出所)中央日報、11月20日

伊藤博文自身は、韓国を植民地にすることの愚をよく理解していた政治家であったそうだ。 日本では、トップであってすら個人的に考えるように自由に政治を行えるわけではなかった。伊藤も立場を異にする多くの政敵とのバランスの中で政治をしていたに過ぎない。意図と結果が違ってしまった一面もあるだろう。

ただ上の記事を読んで思うのだが、「安重根は犯罪者である」と現代日本の内閣のスポークスマンがあっさりと言い切っていいのだろうか。戦前期日本の法制度の下で「犯罪者」というなら、戦後の政治家・吉田茂も投獄された事がある。それは時代が違うというなら、拷問で殺害された大杉栄も「犯罪者」なのか、小林多喜二は「犯罪者」であるのか、あるいは大逆事件の犠牲となった思想家・幸徳秋水は「犯罪者」であるのか?

『当時の統治国である日本の法制の下では犯罪者として裁かれた人物であります』

言えるのは、高々うえのようなことくらいであろう。まして、戦前期日本のありかたを自省する事から再出発したのが戦後日本である。戦後日本の総決算は進歩であるべきであって、先祖帰りであってはならない。そもそも戦前期日本を構築した明治維新ですら、日本人全体が参加し納得した国造りではなかったのだ。上の言い分は事件発生後100年余の歴史を考慮しない形式論理学ではないかと言われても仕方のないところがあると小生には思われる。

安重根という暗殺者一人の見方にも、深い歴史的洞察とは真逆のとってつけたような形式論理を主張するしか芸がないのは情けない。その背景には、幕末から倒幕・明治、そして敗戦に至るまでの近代日本を、経済発展・領土拡大の成功とは別の視点から—当然だろう、結局は幕末より国土を喪失し、ぬぐえぬ歴史を作ってしまったのだから―見直すことをほとんどしていない。こんな一面的な自己認識もあるのじゃないかと、小生、思っているのだ。

2013年11月18日月曜日

精緻にして複雑だから良いのではない

先日の投稿のあと、大手マスコミもTPP交渉でアメリカが要求している関税全廃について報道するようになった。

この報道と同じタイミングで内閣府の浜田参与がコメの自由化を容認するべきだと講演をしたかと思えば、農林水産省が無関税枠拡大の検討に入ったなど、いろいろな情報が出てきている。

確かに毎日新聞は世論調査の結果として、関税の一部撤廃は理解が得られつつあると報道している。 TPP交渉に参加すること自体に反発する空気が支配的だった数カ月前に比べると何という変化だろうか。

毎日新聞が9、10両日に行った全国世論調査で、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉を巡り、これまで「聖域」としてきた農産物などの分野の関税撤廃について尋ねたところ、「一部でなくすのはやむを得ない」との回答が75%に上った。自民党支持層でも80%が「やむを得ない」としており、関税を一部撤廃することについては理解が広がりつつある。【高山祐】 (注)11月12日

まあ交渉だから、こちらがどこまで譲歩する覚悟があるのか、相手に悟られるのは下の下策である。日本側がどれほど複雑巧緻な作戦を検討しても当方の自由である。とはいえ、複雑巧緻は作戦案は、往々にして「絵にかいた餅」、「机上の空論」であって、要するに関係者の自己満足であるのが常である。論理を戦わせるべき交渉に単なる「いやだ」という感情的反発を持ち込んでは、もはや交渉ではなく、「いまのやり方の主張と防衛」に過ぎない。交渉はそこで実質終わりである。

官僚の自己満足を形成するのが外交交渉ではあるまい。

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そもそも大きな利益が日本全体にあるのかないのか、その説明がしにくいのであれば、それほどの利益はないということなのだ。大きな利益があるのであれば、誰にでもわかる説明の仕方がなければならない。

政府は、TPPを結ぶことが日本にとって大きな利益になると考えているのか、そうでないのか?そろそろ国民多数の利益と一部国民の損失について語り始めるべき時だろう。

日本の家庭のエンゲル係数(=食費の割合)は、一人当たりGDPが日本の半分しかない韓国に比べてもなお高い。それだけ日本人には暮らしのゆとりがないと言える。この事実はそれだけでも日本の政治問題になってしかるべきであるー 不思議にもなったためしがないが。これが小生の立場だ。

2013年11月17日日曜日

日曜日の話し - 専門分野と時間間隔

風邪を引いた場合には二,三日が山で、大体一週間程度で治るものだろう。

経済政策では『一日、四半期』と数えている。景気後退に入ってから大体は1年半で底打ちするのが景気動向指数から窺われるこれまでの平均だ。6四半期、つまり6日で本復という時間間隔がここにはある。

犬の時間は人間の5倍の速さで過ぎていくし、カナリアや文鳥など小鳥の時間となると、犬の時間の更に2倍の速さで過ぎ去っていく。人間が1年を過ごして年末を迎えるとき、昔飼っていた文鳥は10年を過ごしたのと同じ感覚であったに違いない。

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本日、2013年11月17日、札幌の大丸藤井セントラルに赴き、下の息子の任官祝いに贈るため先日、11月4日に注文した印鑑二本をもらい受ける。銀行印は13.5㎜で小生の12㎜印に比べると大きめにしたせいか、印相はともかくも、どことなくボヤッとした感じであるが、実印の方は中々装飾的で美しく文句のない仕上がりとなっている。父親として息子にしてやる予定はこれで完了だ。ただし、夕刻に愚息から電話あり。四国旅行にいくので資金カンパを申し込んでくる。交通費とガソリン代を出してほしいということだ。10万円は多すぎるので8万円をやろうと言う。愚息が自分の息子に就職祝いの印鑑を贈るのは30年後か、40年後か。小生はもういないだろう。帰ってカミさんとそんな話をする。


セザンヌ、Louis Auguste Cezanne (父の肖像)


コーヒーも飲まずにそのまま帰宅したが、宅に帰るとコープさっぽろ人事部の桑野さんから先日の講師料振り込みを知らせてきていた。税込30万円、手取り27万円弱。愚息が修習中で金の出入りが多い時だけに嬉しい臨時収入だ。

セザンヌの父は、画家セザンヌを理解することもなく、評価することもなかったが、銀行経営でなした財産は息子の画業を完成させる基盤となった。評価することはなかったが父は息子を愛していたのか、常に畏怖を感じる父に対して画家セザンヌは愛を感じていたのか。仮にそんな疑問をいまぶつけることができるにしても、「あの人を愛していたのかどうかなんて、自分にもわからないなあ…」と、そんな風に言うのではないかという気がする。愛など、その形は千変万化して、当人にとってすらその変化について行くのが苦痛である。

小生の部屋にある二つの本箱は、一方が昭和23年に祖父が父に贈った就職祝い、他方は父が昭和53年、小生が経済企画庁に入庁する年に東レを病気退職するとき会社から贈られた記念品である。いま自分の書籍のためにそれらを使っているが、時に本箱の前の持ち主を思い出すとき、小生は大変不幸な気持ちになる。これまた数々の親不孝に加えて、また一つの不孝をなしていると言えなくもない。

父が息子にとって愉快な思い出たりうるのは大変難しく稀有のことかもしれない。




2013年11月15日金曜日

TPP − 合意直前の紛糾か、それとも決裂の始まりか

本日の道新1面には(トップではないものの)TPPについて以下の報道がある。

TPP、米が関税全廃要求 日本受け入れ拒否(11/15 07:05)

 環太平洋連携協定(TPP)交渉で、米国が日本に対し、コメなど重要5農産物を含む全品目の関税を撤廃するよう要求していることが14日、明らかになった。日本は拒否し、重要5農産物などの関税維持に理解を求めているが、米側は長期の撤廃猶予期間を設けることを譲歩の限度としているもようで交渉は緊迫度を増している。
 交渉関係者によると、米国からの関税全廃を求める通知は今月上旬にあり、続いて行われたフロマン米通商代表部(USTR)代表と甘利明TPP担当相との電話会談や、来日したルー米財務長官と甘利氏の12日の会談でも強く迫られた。日本側はその都度、受け入れを拒否したという。
 日本のTPP交渉参加に向けた4月の日米事前協議では、米国は重要品目の自動車について輸入自由化を認めたものの、関税の撤廃時期は最大限に先延ばしすることで合意した。米国は日本に対しても、関税全廃を受け入れれば、品目によっては10年を超える撤廃猶予を認める意向を伝えているとみられる。<北海道新聞11月15日朝刊掲載>

ところがこんな情報は、今朝の日経にはなく、読売にもない。Yahoo! Japan ニュースのTPP関連一覧をみてやっと見つけた。TV朝日系(ANN)で本日の朝5時56分に配信している。TV局がニュース源というのは妙だ。ネット上の朝日新聞DIGITALにもそんな情報はない。

どこから流れた情報なんだろうねえ……と。
ただ、内閣参与をしている経済学者・浜田宏一氏が、昨日以下の講演をしている。


TPP、コメ聖域化は駄目=安倍首相の政治力に期待-浜田参与

安倍晋三首相のブレーンである浜田宏一内閣官房参与は14日、秋田市内で講演し、環太平洋連携協定(TPP)交渉に関連して「コメをカロリー確保のために必ず保護しなければならないのかが、今、問われている」と、農林水産省のコメ政策に疑義を呈した。その上で「TPPがうまく働くには、コメを聖域にしては駄目だ」と、交渉進展には日本が関税維持を主張するコメの自由化が不可欠との認識を示した。
 さらに「農協や農水省は抵抗するが、それを取り仕切ることができる政治力が、首相には求められている」と強調。「日銀の抵抗を振り切って、正しい経済政策に変えることができた首相だ」と安倍首相の政治決断に期待を示した。(時事ドットコム、2013/11/14-20:45)
これは時事通信が流しているが、道新の記事は更に具体的である。
どうなっているのでござんしょう?
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出所はよく分からないが、アメリカが自動車関税撤廃を決意し、日本は聖域5品目の関税撤廃を決意して、日米が原則合意するなら、世界の経済学者・エコノミストは拍手喝采するであろう。たとえ完全実施までの猶予期間が30年かかるとしても、関税の全面撤廃合意という結論は、それだけでも十分に日米はじめ太平洋周辺国家群の今後の「象徴」たりうるだろう。

2013年11月12日火曜日

理論は確定的なものと何故思ってしまうのか?

二人で共同担当している授業「ビジネスエコノミクス」は、ちょうど「企業経営のゲーム論」にさしかかっているところだ。ただし、ゲーム論とはいえ3時間1モジュールの授業で2モジュールとりあげるだけだから、本格的にゲーム理論を履修するわけではない。解説するのは、ナッシュ均衡とコミットメント・空の脅し、補完と代替という二つの戦略的関係、競争戦略の分類、それからちチェーンストア・パラドックスと限定合理性。まあ、このくらいを浅くなでる程度である。

明日は、その初回で基本概念を説明する予定だ。もちろん標準型や展開型、ナッシュ均衡とコミットメントの意味も大事だが、「囚人のジレンマ」(→集団合理性と私的合理性)、それから複数均衡の二つの場合、つまり「男女のデートのゲーム」(→戦略的補完性)、「タカハト・ゲーム」(→戦略的代替性)という異なった状況があるということを知っておくことが、メインテーマである。状況には色々あって、落ち着く先も一つじゃないという認識だな。

× × ×

ところで囚人のゲームという非協力ゲームでは、協調によるパレート最適が一時的に達成されることがあっても、私的利益を拡大したいという誘因を双方のプレーヤーが持つために、協調は常に不安定である。こういう結論になる。不安定な協調は持続せず、結局は双方にとって望ましくない状況が現実となるというので「囚人のジレンマ」というわけだが、ブログ「ニュースの社会科学的な裏側」には面白い投稿がある。それは、現実に囚人のジレンマで述べているように人は行動するのだろうかという疑問と検証である。
驚くべきことに同時手番ゲームでは、囚人のジレンマを回避する協力行動を、学生の37%、囚人の56%が行った。逐次ゲームでは、学生の63%が協力行動を行い、囚人はほぼ同様の数字だったという。相手の利得にも配慮する囚人は、同様の学生と比較して、相手のが自分を信じていると思う傾向があるようだ。
実際の刑期をかけたらまた異なる結果が出てくる気もするが、理論上の囚人のジレンマにおける行動と、その実験での行動の乖離は興味深いし、プレイヤーの属性の差が与える影響も興味深い。こういうニュースが広がると、ゲーム理論を元にした経済理論を現実に適応することに、不安を抱く人も出てきそうだが。
オリジナルの研究は、Menusch Khadjavi、Andreas Langeというドイツ・ハンブルグ大学に在籍する二人の研究者がJournal of Economic Behavior & Organizationに発表した論文で知ることができる。これに見るように、実際の囚人(行動実験では女囚を使ったそうだが)や普通の学生は、類似した状況で必ずしも「囚人のジレンマ」で想定するように、明らかに協調を崩壊させるような自己利益の追求に踏み切るとは限らない。そうする割合は、囚人では半分強であり、学生はむしろ相手が自分を裏切るとは思わず、故に自分もまた相手を裏切らない。そう考える傾向があるという結論だ。

× × ×

すべての理論はそうだし、特に人間行動を扱う科学はそう言えると思うのだが、人は様々な動機によって行動するものだし、その場になって意思を変更することもよくあることである。なぜ自分はそんなことをしたのか、後になって考えると後悔ばかりする。それが人間というものだろう。

相手が自分によせる信頼を-相手が自分を信じているかどうかは分からないものなのだが-信じて、自分も相手を信じるかどうかは、その人にとっての利益次第だ。裏切るほうが利益が大きいなら、裏切るのだと理論が結論付けても、100%そのとおりになるのだとゲーム理論は主張しているわけではない。そもそも、ガリレオの落体の法則が主張するように、あらゆる物が等速度で上から下に落下するなど、そうならないほうが地球上では多いのだ。

囚人のジレンマは、何度も意思決定を変更して「裏切りと報復」や「やり直す機会」が与えられれば、繰り返しゲームとなって克服することができる。ゲーム論では、こんな風に議論を拡大していくのだが、そもそも同時手番ゲームという想定の下でも、人は色々な行動をするかもしれない。その程度のロジックである。そう受け取っておくのが適切だろうと思う。実際に理論が予想する通りに人が行動するとは言えない、まして多数の人間集団が影響しあって、どんな状況に落ち着いていくか、複数の可能性が常にあって確定的な予測などは困難である。当たり前すぎて、語る必要もないが、大事な点かもしれない。

2013年11月10日日曜日

日曜日の話しー国と家族、公と私

昭和・戦前期と戦後・高度成長期という時代は、映画・ドラマを制作するとき、いま最も人気のある時代背景になっている。

高度成長は、小生自身、少年ではあったが毎年のように新しい耐久消費財が家の中に入ってきて、みるみる生活水準が上がっていったという体感が残っている。その時代を生きたという実感があるので、その時代が真に豊かであったとも思わないし、弱いものいじめもあったし、喧嘩、暴力もあったことも知っている。その時代を生きた人たちの心理を知っているので、いつタイムスリップをして町の雑談に入ろうと、話しにはついていけると思う。

それに対して、戦前期、それも戦争中となると、その時代を生きた人たちの心理や暮らしの感覚はまったく想像もできないのだ。家族の一人に召集令状がきて、町の人が「万歳」と唱えながら見送る時の思いや、戦死広報を受取り「名誉な事でございます」と口でいい、あとで泣くなどという心理は、とてもじゃないが正しい事ではないと思うのだ。政府による耐乏要求になぜ反発しなかったのか、なぜ暴動が起きなかったのか、それが不思議でならないというのが、理屈じゃないかと思う。

実際、第一次大戦におけるドイツの敗戦のきっかけは、キール軍港の水兵達による反乱であり、その遠因は司令部が自殺的な出撃命令を出したからである。その反乱をきっかけに大衆蜂起が全土に広がり、ついに皇帝カイザー・ヴィルヘルムが亡命し、ドイツ帝国は崩壊に至った。このような顛末は、ドイツだけではなく、海外では普通一般に観察されているパターンである。なのに日本ではなぜ無茶な戦争に国民がずっと従って行ったのか?こういう疑問がある。その当時、生きていた人の心理をリアルタイムで再び回想しようにも、それは難しいのだ。

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息子が二人いるが、下の方はいま東京で司法修習をうけている。間もなく法務省の最終面接をうけて内定が確定するだろう。年明け後の1月4日からは新任研修があり、以後、北海道に帰る事は一年に一度もあればいいほうだろう。「お前はお国の役に立つように、どうか使ってくれと差し出したと思っているから、あまり北海道に帰れないからと言って、おれ達のことを心配するんじゃないぞ」と。まったく、こんな風に話す小生の心理と、「お国のためにご奉公できた倅もさぞや本望でございましょう。どうも有り難うございました」と息子の死亡通知書を受け取る親とどこが違うだろう。

この春、いわきに住んでいる弟を訪れた時にこんな風な話をした。
才ある息子は、国家有為であるが故に、社会にとられて、不孝をなし
才なき息子は、国家無用であるが故に、親元にとどまり、孝をなす
上の息子は、今の時代流行の「非正規雇用」の暮らしを続けている。四年制大学は出ているのだ。それでもアルバイトでもう長い間、単純労働者としての生活を続けている。趣味はプロスポーツ観戦であり、芸能ではAKBが大好きで一人暮らしをしている市内のアパートの自室にはポスターを壁にはって鑑賞している。そんな生活ができれば、一応の欲求は満たされ、満足しているらしいのだから、よくいえば無欲恬淡、悪く言えば向上心のかけらもない。「評価」するとすれば、そんな風な「評価」なのだろう。しかし、上の息子は親の心配はともかく、ずっと近くで暮らし、仕事が休みの日には食事をともにしたり、多忙ではないので家に帰ればカミさんと携帯で話しをする。そんな風にやっていくだろう。結局、才能も意欲も根性もないが、親も子も幸福に生きているということになるのかもしれんのだ、な。

国に貢献することで幸福に至る事はないと小生は思っている。その意味で、幸福は自分自身かごく少数の家族、近親者だけのことをさす。近代社会は「幸福の追求」を全ての人が生まれながらに持っている基本的な権利であると認めるところから出発した。幸福追求の自由は、本来、お国の役に立つ事ができて本望でございましょう、と。こういう価値観とはまったく相容れないものである。こう考えたからといって、小生が無政府主義者であることにはなるまい。


シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg)、貧しい詩人

大事な価値は、一人一人の心の中にあり、自分の周囲の社会という場に自分をこえる規範があるのではない。こういう理念からはじめてイノベーションは起こりうるのであって、はじめて社会的な進歩を実現できるのだと思っている。遠くをみて暮らすのは邪道である。幸福である可能性は、元来、すべての人に平等に与えられているものだと思う。それがプチブルで、小市民的欺瞞だというなら、「言わば言え」なのだな。




2013年11月8日金曜日

「顧客志向」の落とし穴

天気予報では週末にかけて寒気団が入るというので雪になるかもしれないと思っていたが、果たして夜来風雨の声しきりというか、起きてみると霰混じりの強雨で、夕刻になって大学から帰るときには車の上に雪が積もっていた。初雪である。町の背後にある山の峰は白い薄布をかけたようだ。

まだ11月だからクリスマスまでは降ったりとけたりだろうが、来週半ばには冬タイヤに替えることにしている。

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小生の父は「いいものを作れば必ず評価される。いいものは必ず売れる。作る人間は、いいものを作ることを第一に考えるべきなんだ」と、まあそんな風に考えていたようである。人を評するのにも、純粋か、そうでないか。<動機が純粋かどうか>で、父にとっての人の値打ちが決まっていたような気もする。家で夕食などを家族ととりながら、社内の営業サイドへの不満をボヤいたこともあったが、これも一度や二度ではない。まあ、工学部を出たエンジニアは、概ねこんな見方をするのかもしれない。

小生の現在の勤務先では、作る側の論理はあまり重きをおかない。作る側の主張ではなく、顧客がそれをどう評価するかを重要視する。利益を生むのは顧客評価であり、顧客評価が高ければ製品差別化に成功し、販売価格を高めに維持し、高い利益率を守ることができるからだ。いいかどうかは顧客が決めるという論理がそこにはある。

顧客が、本当に良いものを「これはいい」と、いつかは正しく評価する能力を持っているなら、父の言い分とビジネススクール的発想は、何も矛盾しないはずだ。しかし、問題は顧客の能力だけではない。顧客に商品情報が正しく伝わっているかもカギである。そして、情報はしばしば、怠慢により、あるいは意図的に、隠蔽されたり、歪められたり、捏造されたりするものである。そうなると、顧客が選ぶ商品は、良いものどころか、とんでもないクズであったりする。

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暮らしをとりまく業界が揺れている。

たとえば偽装メニュー問題。
森雅子消費者担当相は8日の閣議後記者会見で、ホテルや百貨店などで相次ぎ発覚している食品の虚偽表示に対応するための関係省庁会議が11日に開催されることを明らかにした。消費者庁によると、首相官邸に農林水産省や国土交通省、経済産業省などと同庁の幹部職員が集まり、連携して対策を協議する。(時事ドットコム、2013/11/08-10:14)
食品の「虚偽表示」とはいうが、その本質は先日も投稿したとおり、メニューには○○と書いてそれに応じた価格を設定しながら、実際には▲▲を食材に使って利益を得ているのであるから、この行為は<詐欺>に該当する。これが物事の本質で、「虚偽表示」などと生ぬるい認識ではいけないと思うのだ、な。

むろん法に違反しているからと言って、直ちに警察が逮捕し、送検され、起訴されて刑罰が課されると限ったわけではない。実際、道交法上は速度違反をしていながら、警察は摘発せず、「流れに乗って走っているんです」と、お上のお目こぼしで得をしているケースは多い。まして違法駐車なども含めれば、山のように数限りのない「違法行為」が身の回りで観察されるわけである。そして、無理な駐車、無理な速度で走るのは、多くの場合、客の注文、顧客の要望に沿うためなのである。

そうかと思えば、冷蔵輸送サービスの「ずさんな管理」もやり玉に挙がっている。
日本郵政グループの日本郵便は六日、冷蔵輸送サービス「チルドゆうパック」で荷物の一部が常温のまま配達されていたことが判明したと発表した。九月末までの半年間で二十二件の苦情があったほか、社内調査でも保冷剤の入れ忘れなど不適切な温度管理の事例が見つかったという。

 ヤマト運輸の「クール宅急便」の温度管理問題を受け、先月二十五日に「チルドゆうパック」の集配を担う全国の郵便局に対し、温度管理のマニュアルを順守するよう指示。不適切な事例が確認された場合、速やかに報告することも求めていた。

 その結果、郵便局間の輸送などの際に保冷コンテナの管理が不十分で常温に近い状態になっていた事例や、配達の際に荷物を冷やすための保冷剤を入れ忘れていた事例があったことが発覚したという。これを受け、日本郵便はさらに詳細な実態調査に着手した。

 日本郵便は「大変遺憾であり、誠に申し訳ない。十二月にかけては歳暮の時期でもあるため、詳細な調査を実施し、万全の体制を整えたい」などとコメントした。(東京新聞、2013年11月6日 夕刊)
これは今朝のモーニング・ワイドでも放送していた。本来、冷蔵状態で依頼主から送り先までずっと輸送しなければ、水産物など生鮮品の食味は落ちるわけである。依頼主は、味を守ってくれると信頼して、そのための追加料金も支払っているのだから、その信頼を裏切って安易な管理をしているとすれば、これまた<詐欺行為>に該当する。

しかし、冷蔵状態で、スピーディに輸送して新鮮な味を全国の人に届けましょうというサービスは、そんなサービスを願う顧客のために始まったことだ。「ずっと冷蔵状態で管理するなど、そんなことは無理だ」と言って、誰も<チルドゆうパック>や<クール宅急便>などを頼まなければ、そもそも今回のような不祥事は起こらなかった。

面倒なサービスを願う消費者が悪いのか、顧客にこたえてあげようという企業が悪いのか?難しいものは難しいんです、もっと高い代価をいただきますと言えばいいのに、値段を下げろと願う消費者も悪かろう。ずっと冷蔵状態でいくとは限りません、その際はご容赦をと一言断ればいいのに、あたかもずっと冷蔵でいくという業者が嘘をついているのだと。やはり業者が悪いのか?

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相手の信頼を逆手にとって契約されたとおりの行動をとらずに安易な行動ですませることで不当な利益を得る。これは確かに<詐欺>に該当するのだが、経済学では、この種の問題は<プリンシパル・エージェント問題>として扱っている。

依頼主から見えない所で安直な管理を行う。これは<情報の非対称性>があるから出来る行為だ。つまり、サービスの提供を客がずっとモニターできないために、情報が共有されないのだ ― 美容院や理髪店なら、おかしなことをすれば直ぐに分かる。メニューもそうである。客が厨房に入っていって、確かに北海道産のホタテが使用されているか、確かにクルマエビが使われているか、見て検分するなどしないものだ。また見たとしても普通の人には分からないだろう。ここにも信頼を逆用して得をしたいというモラル・ハザードへの誘因が作り手側にある。

一般に、顧客の信頼を逆用したモラルハザードへの誘因が企業の側にあるときは、いくらマスメディアがその行為の反モラル性をたたいてみても、それほど意味はないのであって、問題の解決にはつながらない。もちろん、会社側が「現場の担当者はさぼるものである」と想定して、一律に管理を厳しくしてもダメである。管理のためのコストを投入すれば、現場のアウトプットが上がるという思考法は、練習を2倍にすれば勝ち星も2倍になるという思考法とあまり違わない。結果はモラルハザードに落ちることなく誠実に働いている現場スタッフの士気がさがるだけであろう。

今朝のモーニングワイドで準レギュラー出演者が話していたが、現場スタッフのオペレーションは、その社の組織から決まるものだ。その組織は、全社的な経営戦略から決まる。そしてその戦略は、暗黙にせよ、示されているにせよ、その社の経営目的から決まっているものだ。不祥事は「現場」で起こったが、その原因は経営側にあると見なければならない。戦場の勝敗は、戦った部隊に責任があるのではなく、作戦を選んだ司令部にある。上層部は、現場を厳しく締める欲求をもつだろうが、現場をたたいても会社は再生しない。





2013年11月5日火曜日

助け合い vs もたれあい; 知足 vs 堕落

役人稼業を37歳になる歳まで続けた。それまでは官庁という世界で仕事をした。だから「国会待機」もあれば、幹部が国会や党を回るときには風呂敷包みを抱えて「随行」などもした。ただ経済分析について色々と教わったのも事実だ。色々なことを覚え知ったのだが、いまでも残像のように残っている感覚は、経済モデルは真理かどうかというより、議論の役に立つ、そして結論をまとめる役に立つツールであると、そんな事柄である。その頃、小生が何かに書いた短文では、もっと極端なことを書いた覚えがあり、ざっといえば「経済理論は、提案したい結論にアカデミックな香りをつける装飾品であり、学問的な化粧である」とか、まあそんなことであった。とにかくニヒルだったのだ。

今年の春に亡くなった統計学者ボックスは、ボックス・ジェンキンズ法で高名であるが、彼の格言"All models are wrong but some are useful"(全てのモデルは誤りだ。ただ一部のものは(何かの)役に立つ)。この思想もまたニヒルだが、自身のブログで回顧しているHyndmanの心情は誠実さにあふれている。

◇ ◇ ◇

上とは相当違った話しもしておこう。

官庁で身に付いた一つの習慣は「助け合い」である。いやこれには補足がいるかもしれない。敷衍すれば「もたれあい」ではなく「助け合い」を、ということだ。簡単ではないはずだ。小生の愚息は「もたれあい」が支配している状況と「助け合い」が為されている状況をどこで識別するのか、前に聞いてみた事があるが、どうもうまく説明できなかったのだな。行動パターンではなく、個々人の精神に帰着する事柄なのか、特定の人物のリーダーシップによることなのか、どちらにしても目的合理的な戦略を実行するには、助け合いが必要だ。戦略に適した組織にすれば、「もたれあい」から「助け合い」に直ちに移行できるのか、小生にもよくは分からない。

ただ大学という今の勤務先は、研究者たるもの「真理」を求めることが個々人において最優先される動機であって、大学組織の戦略を実行するための「助け合い」をするかどうかは、実のところ二の次、三の次である。だから大学という組織では、そのマネジメントにおいて、しばしば「押し付け合い」と「もたれ合い」の状態が支配する。小生は、そんな行動パターンもまた、「アカデミック」という用語のうちに含まれるものだと理解している。

むしろ大学という社会では、自分の到達点を先に知って、知的挑戦をやめてしまうのは「堕落した」ダメな学者であり、愚直に答えがないかもしれない難問に挑戦する姿勢が何よりも尊いものである。こんな人物は役所や企業では逆に忌避されるだろう。確かに大学に適した人間とは「変人」であるには違いない。とはいえ、挑戦が失敗する時のほうが実は多いのであって— これもまた役所や企業では困った人間であるに違いない —やはりそこには自分に与えられた力量と、力量に応じた人生に満足を感じる能力がいる。つまり「足るを知る」能力がなければ、失敗が即ち不幸の原因になり、成功だけが幸福をもたらす結末になる。これはなるほど成果主義には違いないが、神様は人間社会をそんな風には造っていないと思う。この世はそんな修羅道ではないはずだ。失敗の味こそ味わい深いものであることによって、案外、大学の人間は 運命の神から公平に処遇されているのかもしれない。

本来、幸福と不幸は成功と失敗には関係しない。貧富とも関係しない。格差拡大と国民の幸不幸は無関係のはずだ。この両者が密接に関係していると考えると、あまりに情けないではないか。「富めるものは災いなり。貧しきものは幸いなり」。有名なこの言葉は、完全に間違いであるわけではない。




2013年11月3日日曜日

日曜日の話しー 父と印鑑

小生が役人生活を始めたのは26になる歳だった。大学院に進んで修士課程2年次であった時の或る晩秋の日、いまもつきあっている友人達と映画でもみたのか、銀座で飯でも食ったのか定かには覚えていないのだが、夜遅くに下宿に帰ると小生を待っていたように大家の福田夫人から「ご実家から電話がありましたよ」と伝えられた。「お急ぎのようでしたよ」と言うので何だか悪い予感がして電話をかけると母が出た。「すぐに帰ってきて、お父さんが大変なの」と、母の嗄れた小さな声が受話器の向こうから小生の耳に入った。

当時、父と母は名古屋に暮らしていた。父はずっと東レに勤務しており、結構いい具合に仕事をしてきたが、その頃は担当していた合成樹脂関連プロジェクトが失敗して、それもあってか体調も壊し、出世競争から外れた父は名古屋工場で何年も閑職についていたのだ。父の身体の色々な所の調子がおかしくなっていたのだろう。母に電話をした翌日、小生は慌ただしく新幹線で名古屋に帰って行った。

実家について小生は玄関からずっと左の端にある自分の部屋まで母と一緒に入っていったのだと思う。癌なのよ。母から聞いて思ったのはやっぱりそうだったのかという風なものだった。最悪のことというのは突然、何の前触れもなく襲うものでは案外ないのかもしれない。だんだんと不運が重なり、下り坂になって、色々な夢や未来を諦め、その果てに歩いてきた道が行き止まりになる。そんな風に物事が決まって行く方が多いようにも感じる。

修士課程2年次だった小生は、博士課程に進学したいという希望を父に説明して、まあいいだろうという回答をもらっていたのだが、事情が変わった以上、就職しないといけない。そう思って恩師や親戚、知人に相談をして、某放送局、某金融機関などの面接を次々に受けたものだ。今さらながらバタバタとして、父から見ると何を突然心変わりをして就活をしはじめているのかと。本当に見苦しく感じたに違いないのだ。恩師から勧められて「来年公務員試験を受ける」というと、役人になりたいなどと、そんな希望を一度も話した事もなかったので「思いつきで受けても通るはずがないぞ、動機が純粋じゃないな」、父からみた小生の評価は、これ以上にないほど下がっている事がひしひしと伝わってきた— 実際、いまでは役人生活から足を洗ったのだから、自発的な固い動機がなければできる仕事でもなかったのだ。

それでも幸運なことに結構な上位で合格して、現・内閣府に経済職で採用が決まると、父は心から喜んでくれた。その合格祝いに買ってもらったのが15万円程の印鑑セットである。いま使っている実印や銀行印はその時の印鑑である。名古屋では作らず、父からの祝儀を母から預かって、それをもって日本橋のデパートで注文したのだ。この同じ事をこんどは愚息にしてやろうと考えているのだ、な。で、今日の午後、隣のS市にある伊東屋のような大規模文具店に行こうとカミさんと話している所だ。

Portrait of Haydn, Thomas Hardy, 1792
Source: Wikipedia

そんな父だったが、名古屋に帰省中、居間にあったステレオ(旧い呼称だ、いまではオーディオとかコンポと言うはずだ)で、ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」のLPをかけると、何度も仕事で出張した先のドイツの心酔者であった父は大層喜んで「またあれをかけてくれ」と小生に何度も頼んだものだ。「皇帝」の第2楽章の旋律は、現在、ドイツ国歌に使われている。その時は、親父はホントにドイツ贔屓だなと思うのみで、小生も父から頼まれるのが嬉しいものだから言われるたびに居間のステレオでレコードをかけたものだ。いま振り返ると、しかし、父は何度も旅をしたドイツやスイス・アルプスを思い出していたのかもしれない、委任された新プロジェクトを軌道に乗せようと闘志をみなぎらせて訪問した先々のことは、忘れられるはずもないとは容易に推測がつく。出世街道を走っていた頃の思い出話しは決してしない父だったが、息子から昔話しをしてくれと頼まれれば、それもまた面白い、と。この歳になってみると、頼むなら話してやろう、そんな心持ちでいたのであるまいかと。当時の父よりも上の年齢になってみると、そんな風に思うようになってきた。

出世とは無縁になったが、名古屋に暮らしていた頃の実家は父と母に妹、弟をまじえ、冬が来る前の小春日和のような暖かみのある平穏な生活をおくっていた。そんな毎日は唐突に終わってしまうのだが、永い歳月が過ぎ去った今でもその頃の暖かさを懐かしく思うのだ。

× × ×

今日、2013年11月3日、大丸藤井セントラルにて象牙の実印と銀行印をそれぞれ15ミリと13.5ミリのサイズで注文する。支払額10万円。実印を個別にフルネームで彫刻してもらうと9万円の代価である。してみるとプラス1万円で銀行印がついてきたことになる。工芸品の価格はあってないようなものだ。

祖父は早くに父親を亡くし、後妻に入っていた母親ともども本家から出ることになったので、就職を祝ってもらうということはなかったにちがいない。その祖父は、小学校を卒業してすぐに伊予銀行に下働きとして雇われたが、以後努力もあって栄達した。父は祖父から昭和23年に当時としては希少な桜樹でできた本箱を就職祝いに贈られ、その本箱はいま小生の側にある。小生は昭和53年に象牙の実印、銀行印、認印で就職を祝ってもらった。今日、小生が愚息の法務省への任官祝いを注文したのだが、日本の印鑑文化もいつまで続くのか、正直なところ確かではないようにも思う。とはいえ、印鑑登録と署名押印の手続きはそれなりに確実性を持っているので、あと一代は続く慣習ではあるだろう。


2013年11月1日金曜日

メニュー誤表記問題と食品偽装問題

食品偽装問題が世を騒がせてもう何年にもなる。偽装ではないが、牛生レバーのように出してはいけない食品を出して処分される例もある。

こういう報道がある。
経営トップの辞任に発展した阪急阪神ホテルズ(大阪市)でメニュー表記と異なる食材を使っていた問題は、公表の遅れやトップの発言のぶれなど対応のお粗末さが傷口を広げた。専門家からは「問題を軽く見すぎた」「名門ブランドのおごりがあった」との厳しい指摘があがっている。(中略) 
食材偽装は平成18年3月から行われていたが、19年に大阪市の高級料亭「船場吉兆」(廃業)で食材の産地偽装などが発覚。以後、食品表示をめぐる問題で多くの業者が窮地に陥った。(出所)msn産経ニュース、2013年10月30日
確かにトビウオの卵である「トビッコ」をマスの卵である「レッドキャビア」と呼んで客に出せば、食感が違うし、味も値段も違う。「これ違うでしょう」と言えばその通りである。客は、食べたトビッコ相当価格を支払えばいいはずで、にも関わらず「レッドキャビア」であると偽って高額の代金を請求するのは<詐欺罪>に該当する。このようにメニュー誤表記問題の中には、<詐欺行為>がその本質として含まれている。この詐欺がいわゆる<偽装>と呼ばれているのであり、詐欺行為によって不当な利益が得られる以上、詐欺にあった人は損害を被っていて、その損害は賠償されなければならない。なので世間は憤るわけである。

ところが、最近の議論は本質的には詐欺かそうでないかという表示問題を「食品表示法」と関連づけて、その表示は適法かどうかという二つ目の問題に絡めて論じているのでどうも分かりにくいのだな。

そもそも食品表示法上は違法だが、その表示行為は詐欺罪には該当しないというケースはあるのだろうか。まあ、あるのだろうねえ。計画性の有無、悪質性の度合いも関係するだろうし、その誤表記によって利益を得ていたのかどうかも関係しよう。そんなことはないと思うが、たとえば北海道白老牛ステーキと表記しておいて、たまたまその日の食材がないので仕方なく松坂牛を使ってしまう。これも誤表記には違いない。

つまり誤表記という違法性とその表示行為の犯罪性は100%オーバーラップしているわけではない。もしもすべての誤表記が犯罪行為であるのなら、最初から消費者庁ではなく警察が捜査をするべきなのだ。実際はそうではない。消費者庁は、食材の産地、品種等々を正確に表示することを求めている。しかし、食材の生産者と最後の料理人の間には中間に何人もの業者が介在する。一段階経るごとに商品名が変わるかもしれない。そもそも最後の料理人は美味しい料理を食べてもらう事にモチベーションがあるのであって、料理の名前をどうするかには主たる関心を持っていないだろう。「食材名」を正確に表記させ、「料理名」は食材名を正しく反映する物でなければならないのなら、ヨーロッパの付加価値税で不可欠なInvoice(=税額証票)よろしく、各段階の商品名、産地、業者名を順に添付し、最後の料理名には調理法のみを記載し新たな情報を付け加えてはならない、と。まあ、こんな風な一般原則を定めておくしかないだろう。たとえば、単なる小エビを「芝エビ」と誤称したというので、今回の騒動の第二幕が展開されているが、第一段階の水産業者が「芝エビ」だという名称をつけて出荷しているなら、後段階の業者はその通りに表記するべきだ。レストランに誤表記があったというだけでは、レストランが誤表記行為をしたのかどうかが分からない。

今回もまた「食品偽装問題」として騒動が繰り広げられているが、喧しい割には方向性が見えてこないのは、議論にロジックがなく、表面的でなにも深まらないからである。