今年の春に亡くなった統計学者ボックスは、ボックス・ジェンキンズ法で高名であるが、彼の格言"All models are wrong but some are useful"(全てのモデルは誤りだ。ただ一部のものは(何かの)役に立つ)。この思想もまたニヒルだが、自身のブログで回顧しているHyndmanの心情は誠実さにあふれている。
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上とは相当違った話しもしておこう。
官庁で身に付いた一つの習慣は「助け合い」である。いやこれには補足がいるかもしれない。敷衍すれば「もたれあい」ではなく「助け合い」を、ということだ。簡単ではないはずだ。小生の愚息は「もたれあい」が支配している状況と「助け合い」が為されている状況をどこで識別するのか、前に聞いてみた事があるが、どうもうまく説明できなかったのだな。行動パターンではなく、個々人の精神に帰着する事柄なのか、特定の人物のリーダーシップによることなのか、どちらにしても目的合理的な戦略を実行するには、助け合いが必要だ。戦略に適した組織にすれば、「もたれあい」から「助け合い」に直ちに移行できるのか、小生にもよくは分からない。
ただ大学という今の勤務先は、研究者たるもの「真理」を求めることが個々人において最優先される動機であって、大学組織の戦略を実行するための「助け合い」をするかどうかは、実のところ二の次、三の次である。だから大学という組織では、そのマネジメントにおいて、しばしば「押し付け合い」と「もたれ合い」の状態が支配する。小生は、そんな行動パターンもまた、「アカデミック」という用語のうちに含まれるものだと理解している。
むしろ大学という社会では、自分の到達点を先に知って、知的挑戦をやめてしまうのは「堕落した」ダメな学者であり、愚直に答えがないかもしれない難問に挑戦する姿勢が何よりも尊いものである。こんな人物は役所や企業では逆に忌避されるだろう。確かに大学に適した人間とは「変人」であるには違いない。とはいえ、挑戦が失敗する時のほうが実は多いのであって— これもまた役所や企業では困った人間であるに違いない —やはりそこには自分に与えられた力量と、力量に応じた人生に満足を感じる能力がいる。つまり「足るを知る」能力がなければ、失敗が即ち不幸の原因になり、成功だけが幸福をもたらす結末になる。これはなるほど成果主義には違いないが、神様は人間社会をそんな風には造っていないと思う。この世はそんな修羅道ではないはずだ。失敗の味こそ味わい深いものであることによって、案外、大学の人間は 運命の神から公平に処遇されているのかもしれない。
本来、幸福と不幸は成功と失敗には関係しない。貧富とも関係しない。格差拡大と国民の幸不幸は無関係のはずだ。この両者が密接に関係していると考えると、あまりに情けないではないか。「富めるものは災いなり。貧しきものは幸いなり」。有名なこの言葉は、完全に間違いであるわけではない。
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