2013年11月3日日曜日

日曜日の話しー 父と印鑑

小生が役人生活を始めたのは26になる歳だった。大学院に進んで修士課程2年次であった時の或る晩秋の日、いまもつきあっている友人達と映画でもみたのか、銀座で飯でも食ったのか定かには覚えていないのだが、夜遅くに下宿に帰ると小生を待っていたように大家の福田夫人から「ご実家から電話がありましたよ」と伝えられた。「お急ぎのようでしたよ」と言うので何だか悪い予感がして電話をかけると母が出た。「すぐに帰ってきて、お父さんが大変なの」と、母の嗄れた小さな声が受話器の向こうから小生の耳に入った。

当時、父と母は名古屋に暮らしていた。父はずっと東レに勤務しており、結構いい具合に仕事をしてきたが、その頃は担当していた合成樹脂関連プロジェクトが失敗して、それもあってか体調も壊し、出世競争から外れた父は名古屋工場で何年も閑職についていたのだ。父の身体の色々な所の調子がおかしくなっていたのだろう。母に電話をした翌日、小生は慌ただしく新幹線で名古屋に帰って行った。

実家について小生は玄関からずっと左の端にある自分の部屋まで母と一緒に入っていったのだと思う。癌なのよ。母から聞いて思ったのはやっぱりそうだったのかという風なものだった。最悪のことというのは突然、何の前触れもなく襲うものでは案外ないのかもしれない。だんだんと不運が重なり、下り坂になって、色々な夢や未来を諦め、その果てに歩いてきた道が行き止まりになる。そんな風に物事が決まって行く方が多いようにも感じる。

修士課程2年次だった小生は、博士課程に進学したいという希望を父に説明して、まあいいだろうという回答をもらっていたのだが、事情が変わった以上、就職しないといけない。そう思って恩師や親戚、知人に相談をして、某放送局、某金融機関などの面接を次々に受けたものだ。今さらながらバタバタとして、父から見ると何を突然心変わりをして就活をしはじめているのかと。本当に見苦しく感じたに違いないのだ。恩師から勧められて「来年公務員試験を受ける」というと、役人になりたいなどと、そんな希望を一度も話した事もなかったので「思いつきで受けても通るはずがないぞ、動機が純粋じゃないな」、父からみた小生の評価は、これ以上にないほど下がっている事がひしひしと伝わってきた— 実際、いまでは役人生活から足を洗ったのだから、自発的な固い動機がなければできる仕事でもなかったのだ。

それでも幸運なことに結構な上位で合格して、現・内閣府に経済職で採用が決まると、父は心から喜んでくれた。その合格祝いに買ってもらったのが15万円程の印鑑セットである。いま使っている実印や銀行印はその時の印鑑である。名古屋では作らず、父からの祝儀を母から預かって、それをもって日本橋のデパートで注文したのだ。この同じ事をこんどは愚息にしてやろうと考えているのだ、な。で、今日の午後、隣のS市にある伊東屋のような大規模文具店に行こうとカミさんと話している所だ。

Portrait of Haydn, Thomas Hardy, 1792
Source: Wikipedia

そんな父だったが、名古屋に帰省中、居間にあったステレオ(旧い呼称だ、いまではオーディオとかコンポと言うはずだ)で、ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」のLPをかけると、何度も仕事で出張した先のドイツの心酔者であった父は大層喜んで「またあれをかけてくれ」と小生に何度も頼んだものだ。「皇帝」の第2楽章の旋律は、現在、ドイツ国歌に使われている。その時は、親父はホントにドイツ贔屓だなと思うのみで、小生も父から頼まれるのが嬉しいものだから言われるたびに居間のステレオでレコードをかけたものだ。いま振り返ると、しかし、父は何度も旅をしたドイツやスイス・アルプスを思い出していたのかもしれない、委任された新プロジェクトを軌道に乗せようと闘志をみなぎらせて訪問した先々のことは、忘れられるはずもないとは容易に推測がつく。出世街道を走っていた頃の思い出話しは決してしない父だったが、息子から昔話しをしてくれと頼まれれば、それもまた面白い、と。この歳になってみると、頼むなら話してやろう、そんな心持ちでいたのであるまいかと。当時の父よりも上の年齢になってみると、そんな風に思うようになってきた。

出世とは無縁になったが、名古屋に暮らしていた頃の実家は父と母に妹、弟をまじえ、冬が来る前の小春日和のような暖かみのある平穏な生活をおくっていた。そんな毎日は唐突に終わってしまうのだが、永い歳月が過ぎ去った今でもその頃の暖かさを懐かしく思うのだ。

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今日、2013年11月3日、大丸藤井セントラルにて象牙の実印と銀行印をそれぞれ15ミリと13.5ミリのサイズで注文する。支払額10万円。実印を個別にフルネームで彫刻してもらうと9万円の代価である。してみるとプラス1万円で銀行印がついてきたことになる。工芸品の価格はあってないようなものだ。

祖父は早くに父親を亡くし、後妻に入っていた母親ともども本家から出ることになったので、就職を祝ってもらうということはなかったにちがいない。その祖父は、小学校を卒業してすぐに伊予銀行に下働きとして雇われたが、以後努力もあって栄達した。父は祖父から昭和23年に当時としては希少な桜樹でできた本箱を就職祝いに贈られ、その本箱はいま小生の側にある。小生は昭和53年に象牙の実印、銀行印、認印で就職を祝ってもらった。今日、小生が愚息の法務省への任官祝いを注文したのだが、日本の印鑑文化もいつまで続くのか、正直なところ確かではないようにも思う。とはいえ、印鑑登録と署名押印の手続きはそれなりに確実性を持っているので、あと一代は続く慣習ではあるだろう。


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