2014年1月31日金曜日

覚え書―コンドラチェフ超長期循環はなぜ生まれる

数日前になるがウォール・ストリート・ジャーナル紙に以下の記事が掲載された。Apple ComputerのPC”マッキントッシュ”が発売されて、ちょうど30年がたったという記事である。

出だしだけ引用しておきたい。
米アップルの初代パーソナル・コンピューター「マッキントッシュ(マック)」が24日、発売から30周年を迎えた。アップルはこれを記念して1984年から現在までのマックの進化の過程をたどる特設ページを開設した。 
マックがこの30年間に音楽、設計、コンピューティングなどに及ぼした影響を疑う人はいないだろう。アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏は1985年当時、「ほとんどの人々にとって、電話と同じくらい素晴らしい発明のまさに始まりの段階だ」と誇らしげに語っていた。
(出所)WSJ, 2014-1-25

小生は初代Macintoshこそ使わなかったものの、Macintosh Plus、SE/30、そしてQuadraといわゆる”マック”の技術進歩にはずっと付き合ってきた。大阪から親元の組織に戻らず現在の勤務先に転じるときに書いた履歴書や業績一覧表などもSE/30のSweet JamとMicrosoft Wordの組み合わせで編集し、今は懐かしいHPのDesk Writerでプリントしたものである。

そうか…「あれから40年、いや30年か」。そろそろ結婚30年を迎えるから、同じ年にMacは世に出たことにもなるか。という風に今更ながら感慨無量な気持ちになっている。


30年で思い出したことがある。それは小生のいまの同僚の持論なのだが、起業してから最初の壁が30年後にやってくる。というより、一つのテクノロジーとそれを実現する企業の生命はひとまず30年で終わる、30年を超えて企業を維持発展させたいなら、新たなニュービジネス、社内イノベーションに取り組むことが不可欠である。

戦後の復興を支えた造船日本は1950年から1980年まででまずは栄枯盛衰の1サイクルを終え、1960年から進んだモータリーゼーションもバブルが崩壊した1990年には一つの時代が終わった、その後はハイブリッド技術の開発、電気自動車の研究へと方向が変わり、またライバルもアメリカから次第にドイツ、韓国、インド、中国という面々に変わってきた。

同僚は<仮説>と言っているのだが、『企業30年節目説』は小生にとっても説得的なのだ、な。

★ ★

30年節目説はいわばテクノロジーの交替サイクルである。それに対して、先日の投稿で話した『近現代日本の20年周期説』は日本人の世代交替と裏腹だと思っている。世代交替でなくとも建設循環(=クズネッツ・サイクル)がやはり20年程度の周期をもつので、「住み替えサイクル」と呼んでもいいのかもしれない。いずれにしても20年程度の長期循環が国を問わず広く観察されるのはマクロ経済の面白いテーマである。

もし同僚のいう『テクノロジー30年交替説』と『住み替えサイクル20年周期説』の双方が現実に当てはまっているのだとすると、最小公倍数である60年ごとに大きな山と谷がやってくる理屈だ。コンドラチェフの超長期循環は、複数の基本波が複合されて形成される景気循環だと考える方が自然かもしれない。

実は、20年周期説だが、先日の授業で「3年程度の短期循環」と「7年程度の中期循環」は、それぞれ在庫調整と設備投資循環からもたらされるが、もしそうだとすると最小公倍数である21年周期の長期循環が自然に形成されることになる。長期循環の形成が、結果として建設投資に波及しているという見方がより正しいのかもしれない。そんな話もしたのだな。

統計専門家は、建設循環を「見出した」クズネッツがその時に行った移動平均計算の反復の仕方が、20年程度の循環成分を生み出してしまうような方法だった、つまりクズネッツは自分が計算して作ってしまった結果を見ていたに過ぎない。そんな批判をするのだが、それもまた一つの説明方法でしかない。どちらにしても元データに20年周期の波動が含まれているかどうかを統計的に検証するには、目安としてその5倍にあたる100年分のデータがなければ十分とはいえない。

予測でフォローするべき基本的な循環成分は短波と中波、この二つの基本成分だけかもしれず、あとはその組み合わせで説明できるのかもしれない。

いやいや、「テクノロジー30年交替節」がある。この説明がいりそうだ。

★ ★ ★

今年の北海道は昨冬よりはまだマシであろうと思っていたが、どうしてどうして、雪の量は今冬のほうが多いというのが大方の声である。

昨年はラニーニャ現象で酷暑になるだろうとは早い時期から予測されていた。そして酷暑のあとの冬は荒れるものである。2013年の前は2007年にもラニーニャ現象があったという。逆の現象であるエルニーニョ現象と同じく、もっと短い間隔で発生することもあるそうだが、発生メカニズムはよく分からないそうだ。それと、太陽黒点数は9年から12年程度の間隔をおいて増減しているそうで、平均的には10年サイクルだと記憶してきた。もちろん何故そうなるのかは分からない。もし周期6年の波動と、10年の波動が無視できないパワーをもっていれば、30年周期の波動が形成されるロジックになる。

だからテクノロジーの周期的交替は、太陽黒点とラニーニャ・エルニーニョ現象からもたらされるのだと言えば、これは余りにも荒唐無稽だろう。とはいえ、経済の季節変動が春夏秋冬という四季の変化からもたらされているのは明らかだ。人間社会の超長期的循環が何かの自然現象からもたらされているのだとしても、小生はなにも吃驚はしない。






2014年1月28日火曜日

ビッグデータ時代に乗る国、乗らない国

小生が仕事をしている分野では<ビッグデータ>という言葉が時代を解くキーワードになりつつあって、それが果たして統計学にあたるのかどうか意見が分かれている ―というか、統計専門家は「それくらいのことは従来の統計学で出来る」と思っている人が多くて、冷淡な態度をとる人が多い。ベストセラー『統計学が最強の学問である』(西内啓)もそうだ。

ビッグデータという言葉が使われ始めたきっかけは、案外、明らかではない。昨年の応用統計学会(福島市)で講演した植原啓介さん(慶大)は、最初のきっかけは2008年6月27日のWired Magazine"The End of Theory: The Data Deluge Makes the Scientific Method Obsolete"だと推測している。その後、英誌The Economistが2010年2月25日号に特集記事"Data Deluge"を掲載してビッグデータなるものが巨大なビジネスチャンスであるという認識が世界に広まった。アメリカのオバマ政権が「ビッグデータ研究開発戦略(Big Data Research and Development Initiative)」に巨額の予算をつけたのは、その後の2012年3月のことだ。

最初のきっかけだったWired Magazineはこんな風に書き出している。
"All models are wrong, but some are useful."
So proclaimed statistician George Box 30 years ago, and he was right. But what choice did we have? Only models, from cosmological equations to theories of human behavior, seemed to be able to consistently, if imperfectly, explain the world around us. Until now. Today companies like Google, which have grown up in an era of massively abundant data, don't have to settle for wrong models. Indeed, they don't have to settle for models at all.
Source: Wired Magazine, 27,June,2008

☓ ☓ ☓

Google Trendで"Big Data"をキーワードにした検索ボリュームを調べてみたところ、以下の結果が得られた。


2011年がビッグデータ元年で、ビジネスとしてのビッグデータがテイクオフしたことが見てとれる。では、どの国で最も関心が持たれているか。それが次の結果。2004年以降、現在までの動きを図にしている。

韓国とインドがトップを形成し、シンガポール、中国、日本、台湾、香港は横一線である。ビッグデータ時代の元締めであるはずのアメリカが高い順位に入っていないのは不思議だが、それでもドイツは(2014年1月28日時点で)10を少し下回る高さにとどまっており、イギリスも同様だ。

このように韓国、そしてインドのビッグデータに対する関心の高さは突出している。それだけ国民全体の意識は時代の流れに沿っているということだろう。

関連キーワードの使用状況をみると以下のようである。

やはり英単語"Big Data"が突出している。
☓ ☓ ☓

The Economist掲載記事の主旨は「ビッグデータ時代がもたらす様々な可能性とビジネスチャンス」である。
A few industries have led the way in their ability to gather and exploit data. Credit-card companies monitor every purchase and can identify fraudulent ones with a high degree of accuracy, using rules derived by crunching through billions of transactions. Stolen credit cards are more likely to be used to buy hard liquor than wine, for example, because it is easier to fence. Insurance firms are also good at combining clues to spot suspicious claims: fraudulent claims are more likely to be made on a Monday than a Tuesday, since policyholders who stage accidents tend to assemble friends as false witnesses over the weekend. By combining many such rules, it is possible to work out which cards are likeliest to have been stolen, and which claims are dodgy.
Source: Tne Economist, 2010-02-25

確かに、新しい技術的可能性はそれまでは不可能だったサービスを可能にするし、そのサービスを求める業界や政府機関があれば企業にとっては新たな需要となる。その意味でビッグデータはイノベーションの結果でもあるし、イノベーションを生み出す力にもなっている。

そのイノベーションに対して韓国やインドで高い関心が集まっている。それは、新しい可能性、新しい需要、つまりニュービジネスへの関心が高いからである。つまり、それだけ成長志向であり、拡大志向であるわけだ。拡大を志向すれば、能力拡大投資に前向きとなり、企業は資金不足となるので金融機関への資金需要は旺盛になる。その分、リスク負担は高くなる。だから金利は上がり、物価も上昇基調になる。戦略的状況が代替的であれば、自らの成長志向は競合するライバルに慎重な行動をとることを強制する理屈になる。

しかし、アベノミクスが目指すマクロ経済は成長志向の経済強国である。それにはライバルが攻撃的な姿勢をとるときに協調的な譲歩を選ぶべきではない。後退しない(一見、非合理に見える)決意を明らかにすることによって、ライバルが日本経済をみる見方を変えることが日本にとっては利益となる。

このように、確かにライバルに対して強硬な姿勢をとることが正しいというロジックはある。観衆、つまり局外者がいる場合には、一般的な印象が自らの戦略的なリソースにもなるので、強硬な姿勢をとることの期待値が一層高まることにもなる。英紙Financial Timesに対して第一次大戦直前の英独関係を現在の日中関係にたとえたのは、一理ある言動なのだ。それがひいては、韓国が日本を見る視線にも影響し、将来の投資プロジェクトに変更を迫るかもしれないからだ。それは日本の利益となる。

とはいえ、アベノミクスが目指す経済強国への道を実際に歩めるためには、威勢のいい言葉だけではなく、実際に日本企業が攻撃的な市場奪取をしかけなければならないし、そのための拡大投資に打って出ることが不可欠だ。賃金引き上げの旗をふりながら、同時に法人税引き下げを渋る財務省を説得できないようでは、支離滅裂であるといわれても仕方がないところだ。

2014年1月26日日曜日

日曜日の話し―乏しきを憂えず、等しからざるを憂うのか

本人はまだ否認しているようだが、世を騒がせたアクリフーズ群馬工場で起きた農薬混入事件の容疑者が逮捕されたとの報道だ。

朝日新聞にはこんなコメントが寄せられていた。
一般論だが、格差社会の中で豊かな生活に入っていけない人には、不満がうっ積し、不特定多数を狙ったこうした一種の『テロ』が起こりやすい。今回の事件では企業の対応が遅れ、被害が拡大した。企業は、原因がわかってからではなく、異変に気づたら、速やかに対応するマニュアルを作ってほしい。消費者は食品の安全に大きな不安を感じている。(出所)朝日新聞、2014年1月26日
確かにジニ係数で代表される所得不平等指数は1980年代後半から上昇してきているし、特に新自由主義的理念が支持された90年代後半から2000年代前半にかけては「格差拡大は結果であって、それ自体を問題視するべきではない」という見方が世に広まることにもなった。これらの議論の半分程度は、今なお正当であると小生も同感である、というのが私の基本的立場だ。

ただ上の報道記事には考えさせられる。というのは、「格差社会の中で豊かな生活に入っていけない」というが、暮らしの環境として日本社会を公平に国際比較してみると、日本は安全で清潔、かつ豊かな暮らしをおくれる国であるのは間違いないことである。そして「失われた20年」とはいうが、実質GDPはまだ成長を続けていて、2013年は1990年より20%高い。一人当たりである。バブルの峠を越えた直後の90年の生活が豊かであったとすれば、2013年の生活は更に豊かである。これは平均値だが、所得が一定水準未満の家庭は生活保護の対象になる。この政策を誠実に実行すれば、そもそも日本で「豊かな暮らし」をおくることは不可能ではないはずなのだ。

だから現在の世間に蔓延している暮らしの不満があるとすれば、それは自分と他人を比較することによる不満であって、その背景に格差拡大がある。そう見るのが客観的ではないのだろうか。とすれば、なぜ自分と他人を比較するのか、という問題になる。

☆ ☆ ☆

確かに豊かな暮らしをしていると言っても、自分より豊かな人がたくさんいて、中国や韓国の富裕層など夢のような生活を送っている。いくら働いてもこれ以上の暮らしは無理なのだ。そう思うと<閉塞感>にとらわれるというのは分かる気がする。

とはいえ、収入が増えれば責任もまた重くなる。仕事も複雑で面倒になる。無際限に働かされることになる。大英帝国の昔、国王が路傍で昼寝をしている浮浪者をみて「余は王であるが、その幸福において彼らに及ぶ所ではない」、そんなエピソードを紹介したのは英国の経済学者・ミルであったかと思う。そのミルの思想を伝えるもっとも有名な言葉はいま改めて確かめると放送倫理・番組向上機構による審議事項になりそうである。
満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者…その者が自分の主張しか出来ないからである。 (出所)Wikipedia, "ジョン・ステュアート・ミル"
また、快・不快はその人の学問、というか教養を反映するものであり、別の所では以下のような見解を発表している。
……高級な能力をもった人が幸福になるには、 劣等者よりも多くのものがいるし、 おそらくは苦悩により敏感であり、 また必ずやより多くの点で苦悩を受けやすいにちがいない。 しかし、こういった数数の負担にもかかわらず、 こんな人が心底から、より下劣と感じる存在に身を落とそうなどとはけっして 考えるものではない。(出所)J. S. Mill
確かこの言葉はミルの主著『自由論』に登場している文章じゃないかと記憶している。本当は前後の文章をもっと引用したいのだが、いくらブログとはいえ、まるごと引用すると文字通りに「人を傷つける」審議事案になりそうなのだ。主旨は上の引用部分だけで十分意を尽くしている。

☆ ☆ ☆

「格差拡大」は、たしかに多くの社会問題を生み出す、というか生み出しつつある。「経済格差」は大きいより小さいほうが良いと考える人もいる、というよりいるべきだ。

しかし、格差が拡大する世の中で、上流になれない人は必ず不幸にならねばならないのかというと、それは真実ではない。 カネがあるからといって幸福になるかと言えば、これもまた真実とは違う。幸不幸と貧富の格差は個人ベースでは関係がないのだ。金があって可能になるのは「贅沢」だけである。これを理解し、納得するに十分な「考える力」と「見る力」。そして「嫉妬と向上心を識別する力」、「夢と目標を持つ力」と「夢と目標を区別する力」。こういう力の欠落が、いまの社会と人生に不幸を作り出している。小生はそう思うのだ、な。

そしてそうした不幸を救うことができるのは政府ではなく「学問」である。「知性」と言うべきかもしれない。これが小生の見方だ。日本の近代が『学問のすすめ』から始まったのはいわば必然である。学問の普及なき経済発展は、富の集中と腐敗、相互不信と嫉妬がうずまくだけである。だから公教育の劣化が深刻で本質的な問題であると考えるのだな。

☆ ☆ ☆

フランス絵画を真に革新した先覚者だと今では言われているが、セザンヌは死ぬまで人に認められることがなく −『人知らずして憤らず、また君子ならずや』を思い出してしまう − 学校で優秀な生徒であったこともなかった。セザンヌは、自分が行こうと思う道を歩いただけである。自分の意志だけでそれが出来る所が、近代社会の素晴らしい点だと思っている。

もちろんセザンヌは偶々父親が富裕な銀行家だったので絵を売って生活する義務から免れたのだが、しかし、ゴッホのように貧困であっても、その時にはまた何とか工面をして自分のやりたいことをやっただろう。ギャスケの書いた『セザンヌ』を読むとそんな人柄が伝わってくるのだ。たかが絵を描くということにそこまで拘ったからセザンヌは救われた。


セザンヌ、Abduction(誘拐)、1867
(出所)WebMuseum

28歳の年に描いた上の作品から、50代になってから描いた下の作品まで、おそらく気の休まる暇はなかっただろう。いま流にいうと「単なるじこまん」じゃないかと、常時ストレスを感じていただろう。


セザンヌ、Still Life with Basket of Apples、1894
(出所)WebMuseum

ゴッホは、セザンヌとは別の場所で生きた人であったし、セザンヌが世に知られるよりずっと先に死んでしまったから、彼の恵まれた経済的境遇は知らなかったかもしれない。知っていても羨望は感じなかったはずだ。もし他人を羨む人間であれば、ゴッホは今日まで残っている作品を絶対に描くことはできなかった。

セザンヌやゴッホよりずっと先輩のルノワールには息子がいた。その息子は成長して映画監督になったが、父の自伝『わが父ルノワール』を書いている。その中に自分の学校を訪れた父の姿を描写している下りがある。父ルノワールは、ボロをきて、爪の間には絵の具のカスが残っていたそうだ。そんな父をバカにした級友にパンチを浴びせた記憶を書いているのだな。小生は、この話しがとても好きである。




2014年1月20日月曜日

靖国神社―長く尾をひく争点を残すのが合理的戦略なのだろうか

書店の棚の一角をすべて靖国神社関係書籍が占有するようになった。そもそも奇妙奇天烈な現象であって、どこかがおかしいと感じるのがバランスのとれた見方だと思う。

いうまでもなく靖国神社は、今日の日本においては宗教問題ではなく100パーセント政治問題である。初詣で明治神宮に参拝したからと言って、その人は神道の信者であるわけではなく、婚礼も葬儀も神道とは別の様式で行われることが普通だろう。そしてまた靖国神社は、ビジネスともほとんど関係がなく、経済取引上に占めるポジションも無視できるほどに小さい規模なのである。それ故、いまの「靖国問題」は、TPPのような国民の暮らしに巨大な影響を与える経済問題でもなく、思想や信仰の自由を大きく左右する宗教問題でもない。そう判断して間違いない。

だから「靖国問題」というのは、純粋の政治問題である。例えていえば、関ヶ原の合戦のあと大阪市民が秀吉を祀った豊国神社に参拝するのは是か非かという問題である。所詮は意地を張る意味はあるのかないのかという議論なのだ。そしてすべての政治問題は国内的側面と対外的側面が混在しているものだ。このところ政治問題として先鋭化しつつあるのは、主として対外的な側面である。しかし、国内的側面で問題がまったくないわけではないのであり、靖国問題を語るときは、常に国内、対外二つの方向から議論しないと真っ当な意見など出ては来ない理屈だ。


今度は台湾の馬総統が従軍慰安婦と靖国神社参拝で日本を激しく批判しているとの報道だ。
馬氏は元々、慰安婦問題などの歴史認識では日本に厳しい立場で知られていたが、2008年の総統就任後、これほど強く日本を批判したのは珍しい。
 中央通信社などによると、馬氏は18日に元慰安婦とされる南部・屏東の女性を訪ねた。その後、フェイスブックで「(慰安婦は)日本軍の暴行という歴史の目撃者だ」などと指摘。安倍首相の名指しを避けながらも、靖国参拝は「(慰安婦らの)傷口に塩を塗るようなものだ」と書き込んだ。(出所)2014年1月20日 読売新聞
従軍慰安婦・強制労働・靖国神社の三点セットが、日本を非難するときのオールマイティの外交ツールとして利用可能な状況がつくられつつある―もちろん作っているのは中国であり、韓国であろうと推測されるのだが、だれが作っているのか、もはやそれはどうでもよい。オールマイティの外交ツールを相手に提供するのは日本の損である。簡単な理屈なのである。

こういう判断が正しいのであれば、まずは将棋の玉が詰められないように防御を固め、状況の好転を図る必要があるだろう。

★ ★

安倍総理の靖国神社参拝については以下のような反応が観察されてきた。

失望した(US)
選挙公約を果たした。それだけだ。(US)
危険な方向へ歩み始めている(独)
オウンゴールだ(豪)
傲慢かつ反省なき態度である(中国)
被害者の心を踏みにじる行為である(韓国)

概略、マスメディアを通じてこんな反応を目にしてきた。そして日本の首相本人は靖国参拝は<戦略的行動>であると語っているそうだ。

★ ★ ★

靖国参拝自体が戦略目標であるはずがなく、本来の国家戦略の目標は日本の利益(=国益)であるだろう。また靖国参拝は、リデル・ハートのいういわゆる「直接アプローチ」ではなく、「間接アプローチ」であるとみられるから、それは日本を観察している関係国の見方、日本がとる行動についての周辺国の予想に影響を与え、その影響が日本にとってプラスとなることを期待するコミットメントと解釈される。

ただ今のところ、ほとんど全ての周辺国から「失望」されたり、「チョンボ」扱いされたり、「怒りの対象」になっているから、通常の意味でプラスの戦略的効果は得られてはいないようだ。

得られているかもしれないとすれば、「頑固だが信念をもつ政治家である」というレピュテーション(=風評)を形成することによる利益であって、強欲極まりない創業者が損得を度外視して競合他社から顧客を奪いつくす攻撃的行動をとり続ける発想と類似している。そうすれば、次第に他社は理屈の通じない相手と戦うことが損であることを悟り、結果として強欲な創業者が利益を得ることができる。いわゆる「チェーンストアの逆説」であるな。

☆ ☆ ☆

安倍政権が本当にこんな風な意図をもってコミットメントを繰り広げているなら、ひょっとすると効果はあるのかもしれない。しかし、それはかつて太平洋戦争で神風特攻を繰り返し、相手に日本人に対する恐怖・畏怖の気持ちを抱かせた戦術とほとんど同じであろう。

畏怖の気持ちを持つことと嫌悪の感情を抱くのとは表裏一体である。戦後の日本は、周辺国が呆れるほどに強硬で攻撃的な外交は行わない。たとえその戦略が効果的であると知ってはいても、信義と相互理解を原理原則とする。それが「戦争放棄」以上に戦後日本の国是であったのではないか。中国が「軍備増強を伴った平和的台頭」を目指すからといって、日本もまた「より強い軍備の裏付けをもった平和国家」を目指すというロジックは成立困難であると小生は思う。これだけの年数が経っても、やはり日本のウィーク・ポイントは敗戦国であり、先に手を出した側であるという歴史的事実にある。時代とともに国際的なレジームは変わるものだが、Pax Americanaの下で「戦犯」という言葉の魔力は消えることがないだろう。中国はアメリカを潜在的ライバルとしているが、日本を「戦犯」と呼ぶことの賞味期限がやって来るまでは、中国はアメリカを(いまの所)必要としている。アメリカもまた日本国内に配置している軍事基地がアメリカの覇権を支える基礎である以上、「戦犯」という言葉の魔法の胴元であり続けるだろう。この一点で米中(プラス韓)が異なった見解に達することはないのである。

なにも不思議はない。そもそもナポレオン戦争後の「ウィーン体制」、第一次世界大戦後の「ベルサイユ体制」を思い起こすまでもなく、「ヤルタ体制」なる国際レジームも最後の戦争の勝敗を反映している。冷戦は終わったがヤルタ体制はまだ死んではいない。フランスもまたかつては戦犯という立場におかれたのだ。そのフランスの名誉を回復したのは「7月革命」と「2月革命」による民主主義社会の確立である。そう考えると、アベノミクスならぬ安倍外交は、戦後日本の基本方針を少なからず否定しているようだが、向いている方向が前ではなく、後ろであるようだ。ドイツが旧敵国との国家連合への道を歩むことで「戦犯」という言葉の磁力から身をかわしているように、日本もまたそういう工夫をして創造的な社会をつくらなければ、安倍総理の念願である憲法改正を容認する力、というかモメンタムは世界のどこからも生まれてこないだろう。

どうもアベノミクスの他には安倍政権に見るべき点はないと小生は思う。しかし、あまりに話しが広がりすぎた。また別の機会に書き留めるとしよう。


2014年1月19日日曜日

日曜日の話し-システムを改善するべきときとは

昨日は大学入試センター試験の第1日だった。監督も大変重要な役割だが、それでも何度も何度もやると流石に飽きるというと不謹慎だが、己(オノレ)がやっていることの意義に疑問を感ずるようになることも人間普通の在り方というものであろう。

こんな会話があった。
小生: 英語のリスニングのICプレーヤーは最初は不安定でしたが、だんだん完成されてきて、いまではトラブル発生率が何十万の中の十数台、率にすると0.015パーセントくらいだそうですね。それでも、実際には受験生が何十万人もいるわけですから、全国で何件かは障害が発生する。そのトラブルが、私の担当試験室でないことを神様に祈るばかりですねえ…。ほんとに運・不運だけですよ。いざトラブルになると、トラブルに対応した経験もないですし、記入するべき調査票などの類が多すぎて、リスニング試験をやりながら現場で処理するなど、ほとんど無理な方式ではありますまいかねえ?
K先生: 確か経済学者じゃなかったですか?一つのシステムが完成され、成熟していくときこそ、新しいシステムに移行するべきである。確か、そんな説がありましたねえ。
小生: 複雑性の議論ではないですか?
K先生: そうそう。基本的な部分が完成してくると、細かな所をますます磨きに磨いて完全なものにしようとする。そうすると、どこをどう変更すれば全体はこうなると分かる人がだんだんいなくなって、それ以上大事なところを良くすることは不可能になる。どうでもよいところを変えてみるということしかできなくなる。
小生: 過剰に複雑な方式よりもっとシンプルで、理解しやすいシステムで、同じ程度に役に立つ方式はいくらでもある。それがシステム移行のチャンスである。そういうことですね。
終わって、エレベーターに一緒に乗った同僚とも話した。「もう飽きますなあ」、「だけど細かいルールが、毎年、ちょっとずつ変わってますよね。あれなんですか?」。


小生が役所勤めをしていたのはずいぶん昔になったが、現行システムの枠内で問題点を列挙して、その改善を立案するのは主として係長や課長補佐の仕事だった。課長は、現行システムの限界を判断し、新しい政策の企画責任者となって幹部や大臣、議員に根回しをするのである。細かなルール変更、手順変更は、課長補佐クラスの仕事である。おそらく入試センターの現場は懸命に「改善」への努力をしているのだと思う。それでも、もっと良い入学試験、学力試験のあり方があるのだと多くの人は信じている。実際、新方式の検討も議論されている。それでも今後の方向が見えてこない。それは入試の現場ではなく、トップマネジメントで果たされるべき仕事が果たされていないためであろうと小生は推測するのである。

★ ★

ただ難しい問題もある。韓国でもセンター試験類似の試験が行われているそうだが、それは高校で実施しているそうだ。日本でも、現行方式に代わる新方式として複数回実施方式が検討されているそうだ。試験は高校で行うことが議論されてもいるらしい。それが成案として固まっていかないのは、複数回受験の負担や高校側の心配があるというより、文部科学省に<高校不信>の気持ちがあるためではないか……。

確かに、いい大学に高校生を合格させたい、そう思っている高校にセンター試験に代わる学力試験をまかせてしまう。「そりゃ危ないわ」と、心配があるかもしれないという話も昨日の話題であった。

★ ★ ★


14世紀のヨーロッパは人口激減の世紀を経験した。その原因はペスト禍である。ちょうど黒船到来後の江戸においてコロリ(=コレラ)が流行したのと同じように"Pax Mongolia"(モンゴルの平和)の下で国際貿易が拡大した13世紀にペスト菌が東から西に浸潤したのである。その100年間にヨーロッパ全体の人口は概ね半分に減少したというから凄まじい惨状である。

その凄まじい惨状のヨーロッパ、中でもペスト禍の中心であったイタリアではルネサンスへと成長する若い芽が顔をのぞかせ次第に花を開かせ始めたことを忘れるべきではない。


Duccio di Buoninsegn、Madonna and Child、1300年頃

しかしながら、新しい時代の到来を予言する新しい芽も、自分自身は老樹から生まれた古い世代であることには違いはない。新しいというその度合いは、人々の驚きを招くようなものではなく、若い芽とは言ってもその一つをとってみると小さな変化、小さな違いでしかない。人々の常識を絶するような新しさは、単なる突然変異であって、拒否と排除の対象にこそなれ、今日まで残る継承の対象にはならなかったはずだ。

小さな変化や小さな違いが何世代も積み重なることによって進歩となる。


Goch, Church at Auvers, 1890

14世紀の感性がゴッホの美意識にまで進むには数えきれないほどの世代を必要とした。実際、19世紀のゴッホが医師・南方仁のようにタイムスリップをして、近世ヨーロッパの世界で現代油彩画を制作していたとしても、その作品は当時の人々からは否定され-19世紀の人々にさえ排除されたのだから-笑いの的になり、それを大切に保管し後世に伝えようと努力する人間を得ることはできなかったろう。ゴッホは、19世紀においてはホンの少し時代に先駆けて新しい感性を持っていたからこそ、現時点まで作品が残ったのである。

だとすれば、大学入試センター試験で毎年付け加えられる小さな変更も、それが積み重なっていけば日本の高等教育を進化させる無数の歩みの中のほんの一歩だったと後になれば分かるのであろうか?愚息も社会で仕事をはじめ、個人的にはもうどうでもよいことではあるが、できればそうであってほしい。貴重な時間をただとられたわけではなかったのだと。そう考えることができれば嬉しいことだ。

2014年1月17日金曜日

これは軍国主義なのか、モラルなのか?

第二次大戦後の30年をフィリピン・ルバング島に潜伏して過ごし、74年に救出された-ご本人の意識は救出ではなくあくまでも投降であったのだが-小野田寛郎・元陸軍少尉が亡くなったとのことである。

同氏は日本の無条件降伏を情報としてはつかんでいたが、敵の攪乱である可能性もあったことから、上官による作戦中止命令を受けないままに活動をやめることを潔しとせず、そのまま山中に潜伏したのである。まあ、一口にいえばこういうことになるが、実際の気持ちとしてはこんな単純なものではなかったに違いない。

いずれにしても身柄の確認後、同氏は軍刀の柄を白布に包んで降伏の意を表した。下の写真はその時の映像である。


この日の日本の新聞には『帝国陸軍最後の敬礼』というキャプションが付されていたことを記憶している。そういえば1974年という年は、前年73年10月に第4次中東戦争が勃発し、OPECの石油価格戦略によって世界が第1次石油危機に陥った年である。日本の戦後高度成長が終焉を迎えたという点では、これまた「もはや戦後ではない」という文句が何度目かのリフレインで口にされた時代でもあったが、戦後日本はこの時期に本当に終わりを迎えてしまった。

小生の父は、小野田氏の投降に感動と言うか、やはり戦中派なのだろう往時を懐かしむような心境になったのか、これぞ大和魂であると語っていたものだ。大和魂…すでに大変古色蒼然とした言葉になってしまった。おそらく江戸時代当初は「大和魂」などという思想的言辞が使われることなどなかったと思う。それが幕末になると吉田松陰の「とどめおかまし 大和魂」の辞世の句があるくらいだから、一種の流行語になっていたのだろう。

★ ★ ★

小生は、大和魂をたたきこまれる教育を受けてはこなかったが、それでもいま上の写真を改めてみると、小野田氏のたたずまいから中国人が言う悪の権化ヴォルデモート卿を連想する気持ちにはとてもなれず、高いモラルを感じてしまうのだが、これって小生が軍国主義思想に感染しているということなのだろうか?

まあ、日本は中国とは違って-また小中華と言われる韓国とも違って-皇帝を戴く中央集権的王朝国家であった歴史は短く、科挙という学力試験で選抜される文官が皇帝に忠義をつくすことを良しとする国でもなかった-その分、日本人の社会組織は"Long Term"を喜び、また"Local"であって"Closed"である。更にあげれば日本人は文治主義より武断主義を好むところがある。

幕府政治も、封建大名たちが自分を天皇に奉仕する武臣であると意識するに至って、ついに瓦解への道をたどらざるをえなくなった。しかし、武士やサムライが消えても、その姿や言動、生き方、人生観がモデルとして日本人の気持ちの中に残っているのだなあ。これこそ武力肯定、すなわち軍国主義だと断定されると、日本人はずいぶんやるせない気持ちになるだろうと思う。

小生の家の墓は両親が亡くなったときに大変世話になった師から紹介された場所に建てた。だから首都圏にある。その師は、特務機関・陸軍中野学校の出身であったそうで、戦時中は諜報活動に任じられていたと推量されるのである。詳細はまったく分からないが、戦後になって浄土宗の僧侶になったのは何か思うことがあったのだろう。もう話をきくことはできないが、写真の小野田氏も中野学校出身であるというから、小生の師とひょっとすると会ったことがあるかもしれないと想像している。

2014年1月14日火曜日

ワイドショーの話題から- 赤ちゃん連れで新幹線に乗っていいか?

昨日の某局ワイドショーを見ていると表題の話題で結構盛り上がっていた。新幹線や飛行機に乗っていると、赤ちゃんや幼児をつれた母親がずっと泣き止まない我が子に困っている様子に出くわすことがよくある。そんな時にどう思うかというのが昨日の話題だ。

TV局で実施した街角インタビューによると「いいんじゃない」という人が85%、それはそうだろう、赤ちゃんは泣くのが商売だから、と。同じことをキャスター -ワイドショーでもキャスターと呼ぶのかどうか詳しくないが- も言っていた。ところが何と15%の人は「乗るべきじゃない」と回答しているのだな!

思わず横のカミさんと話をした。

小生: 驚いたね。赤ちゃんがうるさいから乗るなって、じゃあどうしろと言うんだろうね。 
カミさん: うちだって北海道に来てから、まだ子供が小さかったからJRにはほとんど乗らずに自動車を使ってたでしょ?泣き止まないとお母さんも肩身がせまいものだよ。 特に一人で乗ってると。
小生: う~ん、昔は子供が泣き募ってると、扱いに慣れたおばあさんがいてさ、あやしてくれたもんだけどねえ…、最近はいないもんね。とんとそんな風景みないよな。 
カミさん: 下手に他人が手を出すと怒られるでしょ。 
小生: でも、手を出すのもおせっかいかもしれないなあと思って、じっと我慢をして、それで「うるさいなあ」と舌打ちするっていうのも殺伐とした社会になったもんだねえ。大体、子供がうるさいと思うなら、うるさいと思うほうがグリーン車に乗るとか、マイカーで行くとか、すればいいだろうが。 
カミさん: 新幹線のグリーン車で赤ちゃんがずっと泣いてたらどう思うかっていう質問だったよ、最初は。 
小生: ああ、グリーン車でか。そういえばね、昔さ、新幹線に乗ってたら、前の席にすわっていた幼い子供が僕の方を覗いては顔を隠したりしていたわけ、そうしたらさ、いきなりもどしてな。ずぼんが汚れちゃったんだよね。 
カミさん: そんなことがあったの?で、どうしたの? 
小生: とにかくふいて、洗面所でハンカチを濡らしてふき取ったよ。確か、クリーニング代にとか言われて、お詫びをもらったような記憶もあるけどねえ…いいですからって受け取らなかった気もするよ。 
カミさん: そりゃお詫びしないとね。で、仕事には困らなかったの? 
小生: 帰りだったんだろうね。泣かれるのはうるさいけど、もどされるよりはずっとマシだよ。あっと、あれだね…、赤ちゃんが泣くのがうるさくて、新幹線に乗るななんて答える人は、おそらく子供を育てたことがないんじゃないのかね? 
カミさん: そうかもしれないね。 
小生: 子供を育てたことがない人は、まあ「半人前」だからねえ、15%いるっていっても半分の7%くらいに見ておいていいんじゃないのかねえ…。 頭数はいるけど、1割もいませんヨってね。
カミさん: ちょっと、ちょっとお…そんな意地悪言っていると、また集中砲火あびるよお、いい加減にしなさい。
確かに『子供を育てたことがない人は半人前だから、0.5人で数えたらいいんでない?』というのは暴論である、な。深く反省したわけであった。

しかし、子供が泣き止まないので舌打ちする人がいるかと思えば、手を差し伸べてくれるお節介な人もいたのが、ずっと日本の社会であったような気がする。手を差し伸べてくれる人がいなくなったのは、他人にかまわない時代なのだから、それはそれで仕方がない。なら同じ乗車券を買った客どうし、お互い無関心でいればよいではないか。うるさければ自分が何とかすればいい。耳栓ひとつで問題は解決する。舌打ちは平気でするとはなあ…、少子化が心配だと多くの人が言う割には、いまの社会には問題をみんなで解決しようという自覚が希薄化しつつあるようだ。


2014年1月12日日曜日

日曜日の話し-雪国の良さ

この週末の天気予報のとおり吹雪とはいえないまでも外は真っ白な世界である。一戸建てに暮らしている人たちは、今日も早朝から起きだして雪かきに余念がないが、小生はマンションなもので雪かき作業はしない。時々、買い物に外出するとき車の屋根の雪おろしで息を切らすのがせいぜいの肉体労働である。今日も買い物の予定があるが、網戸越しに外をみると、「これはちょっとなあ」と腰が引ける。


ただ雪国の良さもないわけではない。頭脳を使う時間がたっぷりとあるのだ。東京在住のころ、小生は正月明けの冬の晴天が大好きで、暇があるとカメラを手に歩き回ったものである。それをいま住んでいる町でやるのは無理だ。その分、頭を使うのが雪国である。ロシアの数学はハイレベルであるのと同じ理屈なのだ、な。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む
三好達治の詩の世界からは雪の降り積む音まで聞こえるような静寂の中で数学の本を読むときの充足感は想像できまい。いまは古い本、Luenbergerの"Optimization by Vector Space Methods"(John Wiley & Sons, 1969)を読んでいる。職業からいえば、R. A.  Fisher"Statistical Methods for Research Workers"を読みながら、その行間を頭の中で補足するほうがずっと仕事にも密着していて有意義なはずだが、いつまでも「仕事」に執着するのも一つの「我執」であろうと思うようになった。それと、しばらく絵をかいていないので、頭の中で色々と想像してみたりする。どちらが主であるのか分からない。こんなグダグダな読書は仕事に必要な本ではできないのだ。

前の投稿では、自分の人生の充実を目標にすると、その充実は自分限りの満足であり、自分が死ねばなかったことになる。自分を超える価値に人生を捧げたいという願望を人は持ちたがるものである。そんなことを書いた。

じゃあ、古代エジプトでピラミッド建造に奉仕した奴隷たちは神の子であるファラオに命をささげることができたが故に満足して死んでいったはずであるということになる。「そんなことはないよね」というのは、近代社会の個人主義で考えているからだ。実際にピラミッドを建造していた労働者たちがどう思っていたか分からないであろう。

ただ人間の歴史は、皇帝や国王の軛からの解放の歴史であったし、絶対的な神からいかに自立して自分の生を全うするかという苦闘の歴史だった。だとすると、ピラミッドをつくった人たちも、本当は強制労働から逃亡したい、たとえそれが神の子であるファラオに奉仕することであっても嫌であった。そうなのかもしれない。そうでなければ、いまでも古代のままであろうから。

少なくとも古代エジプトから現代日本にタイムスリップして、いま時点の小生の過ごし方をみれば羨望の気持ちを抑えがたいはずだ。しかし、人間社会に大きな貢献をしたのは小生を羨ましいと感じるエジプトの奴隷達のほうである。個人の尊厳は小生が満喫しているのであるが、自分が成し遂げた価値の巨大さにおいては、明らかに小生はエジプトの奴隷たちに負けるのである。

こんな思考のゲームも雪のなせる遊びである。

2014年1月11日土曜日

都知事選: 一人芝居か、「脱原発」時代の力か

元首相・細川護煕氏が都知事選に立つ意志を固めたという。とはいえ、総理を辞任したのが1994年4月であったので、以来20年。その間、隠遁生活を送りながら陶芸の道を窮めて来たのが再び政治の世界に戻るのだが、さてそうした身の振り方に多数の有権者が共感や期待を感じ、知事の任期4年間を託そうという気持ちになるかだ、な。

ただ対抗馬、というか本命だと思うが舛添要一氏がかつて除籍された自民党の支援を受けるからには、いまの安倍政権と全く矛盾した政策思想は語れない。つまり原発再稼働に賛同する発言をせざるをえない。それに対して、細川氏は自ら脱原発を主張しているのだから日本の、そして東京都民のエネルギー計画の点で真っ向から対立する。確かにエネルギー政策は国が決めるべきことだが、都知事選という大きな選挙でいずれが支持されるかは、今後の安倍政権にとっては政策の選択肢を強く制約するだろうと思う。

× × ×

ただ、小生はへそ曲がりなため本ブログを公開から限定公開にする前、いろいろ人の感情を逆撫ですることも書いたのだが、<脱原発>は本当に東京都民から共感を得られる方向なのだろうか。小生は正直なところ疑問を感じるのだな。

そもそも首都圏は、福島県や新潟県の原発施設が発電する電力を消費してきたわけである。契約者数が多いことから電気料金も低めに設定することができていた。東京に林立するエネルギー多消費型超高層ビルも遠隔立地・原子力発電が支えてきたと言っても過言ではない。東京という大都市が置かれているソーシャル・インフラの現状は、東日本大震災以前とほとんど変わってはいないし、そこで行われているビジネスの中身も同じであり、おそらく働いているビジネスマンや家族達の感性もホンネとしては変わっちゃあいないのではないかと推測するのだ。毎月支払う電気代は安い方がいいだろう、と。つまりそういうことである。都民にとっては電気であれ、その他の生産物であれ、現場は遠いのである。

だとすれば、見通しを語らない脱原発よりも、最先端技術を織り込んだ原発の提案をすることで東京という超巨大都市の将来を語る方に、都民はより強く賛同するのではないか…。何と言っても、都知事選は国政選挙ではなく、そこで暮らしている人たちが自分たちの首長を選ぶ選挙なのだ。

東京都民は、脱原発ではなく、原発を含めた先端的エネルギー技術の活用を自分たちの生活のために選ぶと予想する。

むしろ東京都民のより強い願望は、これ以上の格差拡大の回避ではないだろうか。微罪の増加、犯罪の凶悪化、詐欺の横行等々、東京で子供を育てる人たちの願いは何よりも安全であり、安全が損なわれてきた主因に生活困窮者の増加があることは誰でも知っている。そして、格差拡大が進んだ時代の為政者として小泉氏の存在は忘れがたいものになっている。小泉氏が脱原発を唱え、細川氏と連動しても、都民は見には行くだろうが、本当に投票するだろうか。疑問だ。小生自身は、自己改革のエンジンとなる格差はあるべきだし、社会の発展が投影されているだけにすぎない格差拡大は容認するべきだと思っている。格差拡大は高齢化の裏返しであることも理屈ではわかる。しかし、東京という町で貧富の差を眼前にみているなら、理屈よりは感情が先立つかもしれないのだ。

となると、厚生労働大臣を歴任し、自身も母親の介護をずっと続けた舛添氏に都民の多くが共感をもつとしても自然なことではないかと予想する。

2014年1月9日木曜日

日本はアメリカの傭兵? アメリカは日本の傭兵??

日本はアメリカの傭兵国家になる。そんな意見があるようだ。

新保守主義といわれたブッシュ前大統領の頃、小泉総理は日本をアメリカの傭兵国家にしようとしているとの批判があったようだから、ずいぶん古い意見である。たとえば「日本は 米国の 傭兵」というキーワードでGoogle検索を行ってみると、予想外に多くのブログが検索されてくる。その数の多さから、それだけ多くの人が『アメリカは日本をアメリカの国益のために利用しようとしている』と、こんな眼差しをもっているのであろうと、そう推測されるのだな。

しかしながら、小生の記憶では話しは逆であり、「アメリカは平和主義・日本の安全のため日本の傭兵として活動している」。こんな指摘が、好意をまじえるにせよ、悪意を含めるにせよ、ずっと言われてきたような気がする。

となると、出てくる疑問は「アメリカは本気で日本を守ってくれるのか?」と、こうなるわけである。

★ ★ ★

しかし、100年にもならない短い期間のうちに、傭兵として雇われていた国が、今度は雇い主となって今までの雇い主を傭兵として使う。……こんな変化はちょっとあり得ないわけで、そもそも「どちらがどちらの傭兵であるか」というのは問題提起の仕方が悪い。

つまりは負担再配分であろう。「集団的自衛権」というのは元々そういうものである。勤務する大学に置き換えていえば簡単な話になる。人気授業を担当してきたA教官が疲弊してきた。相対的に少ない仕事を負担してきたP教官は、分野が同じでヤル気もある。A教官に代わってB教官にやってもらう。プリンシパル=エージェント問題ではない。結託(コアリッション)と対立のゲーム論である。日米中の3プレーヤーは、たとえ協調を演じるとしても利益の配分において潜在的対立関係にある。故に、2対1の関係を形成して利益を拡大する誘因をもつ。その組み合わせは日米、日中、米中という3通りがあるが、日中、米中いずれにも民主主義的政治体制であるかないかという本質的差異を乗り越えなければならないというイデオロギー上の障害がある。日米にはその障害がない。だから日本、アメリカいずれにとっても従来の同盟関係を継続して共同の国益を求めようとする動機がある。そのほうが契約費用が小さく効率的であるからだ。

★ ★ ★

ただ傭兵云々を心配する人の気持ちはよく分かるのだな。

確かに日露戦争を戦った日本は、世界のパワーポリティックスの場において、明らかにイギリスの傭兵であったかもしれない。地盤沈下しつつあった大英帝国は、非常に安価な費用でロシアの東アジア進出を抑止できたと言ってもいいだろう。

今度は相対的に影響力が弱くなったアメリカが、日本という駒を使って、台頭する中国に対して優位性を守ろうとしている。これがアメリカの国益であるとするなら、なぜ日本がそのアメリカの意図のとおりに行動しなくてはならないか。そんな疑問があっても当然であろう。日露戦争がイギリスにとってばかりでなく日本にとっても大きな利益を生んだと同じように、今後アメリカばかりではなく日本にとっても大きな利益を日米関係から望んだとしても、別におかしなところはない。

では、アメリカが中国と親和的に交流を深め、日本が中国との対立を激化させるという役割を演じていくとして、そうした状況はアメリカにとって損ではないはずだが、日本はどんな長期的な利益をそこから得るというのだろうか。

少なくともより危険性を増す東アジアを国民に感じさせることによって、安倍総理が自らの念願である日本国憲法の改正と国防軍創設に至る道を切り開く意図があるのであれば、それは自分の目的を達成するために国民を「使嗾する」。自分自身の政治目的を実現するためのエンジンとして国民を利用する。そうなるように環境を作っていく。そう言われたとしても反論はできないのではないか。

だとすると、1930年代以降の日本の変化をもたらした政治と同根であるような気が小生もするのである。さらに、そうした日本の変化がアメリカにとってもプラスではないとアメリカが考える可能性がある-共同行動体制を深めることによって、問題を解決できるチャンスは十分にあると思うが。

2014年1月6日月曜日

雑感-Kindleの利用価値

アマゾンのKindle White Paperを購入してから1年ほどがたつ。当初は、確かにホワイトペーパーと電子インクは目に優しい。アップルのiPadよりはよほど長時間の読書に耐える。そんな感じであって、これは多数の人と同じである。

その後、多くの本をダウンロードしてきた。これはもう手元に置かずともいいかという本は端末から消去してアマゾンのクラウドサービスに「貯蔵」している。本は紛失したり、見当たらなくなることも多いのだが、クラウドに保管している本がなくなることは決してないし、身の回りのスペースを占拠することもない。

昨日見つけたのは吉川英治の宮本武蔵完全版である。あの長い小説が一冊-電子書籍で「一冊」とかを言っても意味がほとんどないのだが-になっていて、最初の地の巻「鈴」から最後の二天の巻(続)「魚歌水心」まで一気にどこからでも読み始めることができる。これと同じことを紙媒体の書籍でやろうとすれば、常にリュックを背負って難行苦行することを強いられるというものだ。

時代は変わった。読書も変わった。

この本の最初に「武蔵の世界」があって、そこで作者・吉川英治が人間武蔵を造り上げるときのイメージが紹介されている。
なにか僕には大変まだ野性がナマのままある。……それで武蔵を描いた時も、いちばん意識して書いているのは野性なんですよ。そこを少し理想化しすぎているかもしれないけれど……。たとえば社会史なんかみても、根底の野性っていうものの力が、重要な役割をしている。野性の生命力がのちに咲く花の球根の役をしていると思う。つまり野性と人間の叡智、科学と結びついたものが、いちばん人間の中の生命としてみずみずしいものを持つんじゃないかと考えている。
 吉川氏が武蔵を執筆したときの時代背景は日中戦争である。とすれば、同氏が上の発言をしたのは戦後の1960年前後のことであろうと推測されるが-というのは、同年の「批評」冬季号に上の発言が掲載されているからである-社会史において重要な役割をしている「野性」とは、帝国陸軍における下剋上のエネルギーであったのかもしれない。

☆ ☆ ☆

日本人は「野性」が大変好きであることに間違いはないところだ。映画にも「野性の証明」なる作品があって大ヒットした。野性、いいかえると自然の生命力を無条件に肯定するところが、日本文化の本質を構成していると小生は思っているのだ、な。野性礼賛とは、究極的にはしかし、「反・教養主義」であり、「反・秀才主義」である。吉川氏は、宮本武蔵の中で社会を動かす野性のエネルギーを描ききったつもりであったのだろうが、そしてそれはある意味で軍国主義肯定論とも受け取られるのであるが、その中枢であった陸軍省・参謀本部においては典型的な秀才主義が貫かれていたことは歴史の皮肉でもある。

ま、どちらにしても中国では科挙による官僚選抜制度の昔からずっと教養主義が国を支配してきた。朝鮮半島も同じであって、その儒教主義の徹底ぶりは本家・中国をもしのぐほどであったという。日本は、侍という「武官」が政治を代行しているという点で、甚だ野蛮であり、中国的価値規範にたてば遅れた国、無教養な国であったわけである。そのサムライが、いまや日本的スピリットを代表するキャラクターとして世界中から認められつつあるのだから、中国的伝統をひく国々からみれば、これは腹立たしくて仕方がないところだろう。

19世紀の昔、中国の方が日本よりもはるかに早く西洋文明と往来を重ねながら国家の構造改革ができず-李朝朝鮮も全く同じである-逆に、日本は黒船来航をきっかけにして一気に徳川幕府の瓦解まで社会が変化してしまった。そして中国よりも100年も早く資本主義経済に国を造り替えてしまった。

これほどの大きな違いは、日本人のほうが器用だとか、異文明への順応性が高いとか、幸運にめぐまれていたとか、そういう説明では不十分であり、何百年にもわたって歴史的に蓄積されてきた日本と大陸アジア諸国との文化的差異が本質的な原因の一つである。そう考えるべきだと小生は思っているのだ、な。日本は、確かに東アジア文化圏に属しているのだが、やはり島国であり大陸文化と日本文化とは予想外に大きな違いがあるかもしれない。同根異花というより、異根同花の関係かもしれない。

☆ ☆ ☆

ま、議論はともかくKindleを使うようになって、今では夏目漱石も全作品を収めた「漱石大全」で読んでいる。芥川龍之介から有島武郎などの大正文学も「大正文学小説大全」を週刊誌程度の価格で買って保存している。「歎異抄」も「芭蕉紀行文」も樋口一葉も永井荷風もすべてそうしている。これらはみなKindleという端末に保存しているから、いくら本を買ってもスペースが余計にいることにはならない。いつでも読むために保存しているだけのことである。複数の端末にダウンロードできるから、洋書はiPadにダウンロードして読んでいる。読んでは端末から消去している。何度でもダウンロードできるから便利だ。Amazonからみれば、サーバーに一つだけ本のファイルを入れておき、購入した客のIDを閲覧許可リストに加えるだけで「販売」したことになる。本を売っても、本というモノが移動することはなく、したがって販売コストはほとんどゼロであろう。

本という商品がなくなることはない。そうは思っている。しかし、情報の伝達、情報の記録、保存の手段としては、書籍は現役を引退しつつあると考えてよいと思う。LPレコードと同じだ。ファイルは端末が破壊されれば無に等しいが、紙は残ると言われれば確かにそうなのだが、そうであれば竹簡や羊皮紙のほうが紙よりはましだ。銅板や石ならもっと確かだ。実際、墓石などという商品もまだある。これらを情報保存に用いることはしていない。

書籍は、美術的・骨董的な価値がある文化財として今後も作られるであろうが、情報伝達手段としては既にその生命を終えている。


2014年1月3日金曜日

断想: 仕事が人生か vs 仕事は生きる手段か

若いころは仕事漬けだった。仕事の成功は人生に勝つことであり-いったい何の勝負だったのか-人生の勝者になれば親が喜び、子には誇りとなり、自分も満足する…、まあこんな感じである。青雲の志しというのか、まったく青かったのだなあ。

★ ★ ★

自分の人生を自己責任で切り開いていくのが人間社会の原理であるなら、自分の人生をかけるにたる仕事を見つけることが最も大事な鍵となる。人生をかけるに値しない仕事に一日の大半を費やするのは苦痛以外のなにものでもない。仕事は、自分の人生そのものであって、仕事を失うというのは自分が否定されることと同じだ…。こんな風にして職業は人生そのものになる。

しかし、職業的な成功、自分の人生の充実が最優先目標になるとき、自分自身を超える価値はもはやなくなるという理屈になる。年齢を重ねてくると、これが大変空しいのである、な。なぜなら、そう考える自分自身はやがて死んでしまう。あとに残るものはないのだから、どんな努力をしても、なにを達成しても、それが価値あるのは自分が生きているうち。せいぜい何十年かの賞味期限付きのことでしかない。

人は喜んでくれている…?いやいや、人の心は秋の空だ。帝国を創業してもいつかは崩壊するし、それが歴史の中で評価されるかどうかは、何百年たっても定まらないかもしれない。ましてサラリーマンを定年まで勤めても、何が職業的な成功か、「さっぱり分からない」、これが凡人共通の思いではなかろうか。

かくして近代社会の人間は、自由を求めていながら、心は虚無的にならざるをえない。

☆ ☆ ☆

一人の人間が「個人」として存在していると考えること自体がそもそも哲学的フィクションであるかもしれないのだ。

家族を形成し、子供を育てるというプロセスは、自分が楽しいからそうするのだが、「楽しくなくともしなければ」という側面もある。あらゆる生物共通の動機である「子孫の保存」と「生存競争」への執念が根底にあると言えば身も蓋もないか。まあ、ここまで即物的でなくとも、自分を超える存在がどこかにいて、自分は普遍的存在の要請に応えようとしているだけだという思いは、誰でももちたいと願うことがある。そういう時には、仕事はそれ自体の価値をもたず、より普遍的な目的のための手段となる。


イギリスの元首相が世人をはばからずに言っている。
And, you know, there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families. 
こういう野蛮主義ともいうべき「血の絆」を古臭い妄想と否定する力のある「文明」はいまあるだろうか。21世紀の主たる問題は、「個人の尊厳」と「血の絆」を超える普遍的な価値を、神でもなく、天皇でもなく、国でも、社会でもない普遍的な存在を、動物的な種の保存を遥かに超える知的な形式を持たせてつくり出せるのか。ここに集約されているような気がするのである。





2014年1月1日水曜日

二人だけの正月に逆戻り

下の愚息の就職が決まり、いまは東京にいる。今度の年末年始は9連休になるので、北海道に帰ればと勧められたらしいが、冬は帰らなくともいい、それよりベストセラーでも読んだらどうだ、東京は行く所がいっぱいあるぞと話していたので、たった独り寮に残って「永遠の0」を買ってきて読んでいるらしい。

寮に居るのは一人だが、明後日にはいわき市にいる小生の弟宅に行くつもりという。ま、そうでもしないと時間を過ごせないて。自分なら高尾山頂にある薬王院に初詣をして無病息災を祈願し、帰りに明治神宮に詣で、寮の近くにある亀戸天満宮に寄って締めくくりとするか。いや齢が齢だから、もう初詣のはしごをするのは無理かもしれんねえ。愚息と電話で話しをしていると、時代が一つ進んだのだなあという思いを感じざるをえない。

そんなわけで今年の正月はカミさんと二人で過ごしている。結婚式を挙げたのが4月で、その年の年末はまだ母が取手市に健在だったので上京した。元日はどうしたか覚えていないが、夫婦二人で過ごす正月は今回が初めてである。これまた一つの時代が終わったのだなあという証しである。とはいえ、近くに一人暮らしをしながら非正規雇用の人生を歩んでいる上の愚息が、明日は休日だというので宅に来る。三人でカニ鍋などをつつこうと思っている。

愚息の就職も決まったし、またこのブログを公開するとしてももはや支障はない。本日から以前と同じに戻そう。

★ ★ ★

家族の過ごし方も時間が経てば変わるものである。古いものに執着していては、次の世代に花咲く若芽が蕾のままとなる。上の世代が変化を先取りして延びて行く方向の道を開くのが役割分担というものだと理解している。

結局、親は去年の葉っぱ、子は今年の葉っぱである。いま目の前で茂っている葉が一本の樹の生命を意味しているわけではない。実存しているのは、葉でも幹でも花でもなく、毎年の四季の中で循環し、次世代に継承している命そのものだ。一枚の葉は一年も生きられないが、一本の樹は何百年も生きる。そして一帯の森は何千年も生きられるのだ。

そういえば年末にイギリスのキャメロン首相が中国訪問を「許可」され、到着したらば「平身低頭」、中国のチベット支配もあっさりと認めるなど、あの大英帝国の宰相がねえという媚態外交を演じた。前にも書いたが、帝国も王朝も永く続いて400年という限界を歴史から読み取ることができると考えている。帝政ローマも400年。漢王朝も前・後あわせて400年。ビザンチン帝国の復興も800年から1200年が全盛でこれまた400年。唐帝国、清帝国は300年しかもたなかった。イギリス興隆のモニュメントなる東インド会社が設立されたのは日本の関ヶ原合戦と同じ1600年。欧州の優越と中国の没落を象徴するアヘン戦争が1840年。今はそのアヘン戦争から170年が経過し、エリザベス一世の治世から400年余がたった。中国が尊大に構え、英国が媚態を取り繕うとしても、それも時勢というものかと妙に納得をするのだ、な。