2014年1月6日月曜日

雑感-Kindleの利用価値

アマゾンのKindle White Paperを購入してから1年ほどがたつ。当初は、確かにホワイトペーパーと電子インクは目に優しい。アップルのiPadよりはよほど長時間の読書に耐える。そんな感じであって、これは多数の人と同じである。

その後、多くの本をダウンロードしてきた。これはもう手元に置かずともいいかという本は端末から消去してアマゾンのクラウドサービスに「貯蔵」している。本は紛失したり、見当たらなくなることも多いのだが、クラウドに保管している本がなくなることは決してないし、身の回りのスペースを占拠することもない。

昨日見つけたのは吉川英治の宮本武蔵完全版である。あの長い小説が一冊-電子書籍で「一冊」とかを言っても意味がほとんどないのだが-になっていて、最初の地の巻「鈴」から最後の二天の巻(続)「魚歌水心」まで一気にどこからでも読み始めることができる。これと同じことを紙媒体の書籍でやろうとすれば、常にリュックを背負って難行苦行することを強いられるというものだ。

時代は変わった。読書も変わった。

この本の最初に「武蔵の世界」があって、そこで作者・吉川英治が人間武蔵を造り上げるときのイメージが紹介されている。
なにか僕には大変まだ野性がナマのままある。……それで武蔵を描いた時も、いちばん意識して書いているのは野性なんですよ。そこを少し理想化しすぎているかもしれないけれど……。たとえば社会史なんかみても、根底の野性っていうものの力が、重要な役割をしている。野性の生命力がのちに咲く花の球根の役をしていると思う。つまり野性と人間の叡智、科学と結びついたものが、いちばん人間の中の生命としてみずみずしいものを持つんじゃないかと考えている。
 吉川氏が武蔵を執筆したときの時代背景は日中戦争である。とすれば、同氏が上の発言をしたのは戦後の1960年前後のことであろうと推測されるが-というのは、同年の「批評」冬季号に上の発言が掲載されているからである-社会史において重要な役割をしている「野性」とは、帝国陸軍における下剋上のエネルギーであったのかもしれない。

☆ ☆ ☆

日本人は「野性」が大変好きであることに間違いはないところだ。映画にも「野性の証明」なる作品があって大ヒットした。野性、いいかえると自然の生命力を無条件に肯定するところが、日本文化の本質を構成していると小生は思っているのだ、な。野性礼賛とは、究極的にはしかし、「反・教養主義」であり、「反・秀才主義」である。吉川氏は、宮本武蔵の中で社会を動かす野性のエネルギーを描ききったつもりであったのだろうが、そしてそれはある意味で軍国主義肯定論とも受け取られるのであるが、その中枢であった陸軍省・参謀本部においては典型的な秀才主義が貫かれていたことは歴史の皮肉でもある。

ま、どちらにしても中国では科挙による官僚選抜制度の昔からずっと教養主義が国を支配してきた。朝鮮半島も同じであって、その儒教主義の徹底ぶりは本家・中国をもしのぐほどであったという。日本は、侍という「武官」が政治を代行しているという点で、甚だ野蛮であり、中国的価値規範にたてば遅れた国、無教養な国であったわけである。そのサムライが、いまや日本的スピリットを代表するキャラクターとして世界中から認められつつあるのだから、中国的伝統をひく国々からみれば、これは腹立たしくて仕方がないところだろう。

19世紀の昔、中国の方が日本よりもはるかに早く西洋文明と往来を重ねながら国家の構造改革ができず-李朝朝鮮も全く同じである-逆に、日本は黒船来航をきっかけにして一気に徳川幕府の瓦解まで社会が変化してしまった。そして中国よりも100年も早く資本主義経済に国を造り替えてしまった。

これほどの大きな違いは、日本人のほうが器用だとか、異文明への順応性が高いとか、幸運にめぐまれていたとか、そういう説明では不十分であり、何百年にもわたって歴史的に蓄積されてきた日本と大陸アジア諸国との文化的差異が本質的な原因の一つである。そう考えるべきだと小生は思っているのだ、な。日本は、確かに東アジア文化圏に属しているのだが、やはり島国であり大陸文化と日本文化とは予想外に大きな違いがあるかもしれない。同根異花というより、異根同花の関係かもしれない。

☆ ☆ ☆

ま、議論はともかくKindleを使うようになって、今では夏目漱石も全作品を収めた「漱石大全」で読んでいる。芥川龍之介から有島武郎などの大正文学も「大正文学小説大全」を週刊誌程度の価格で買って保存している。「歎異抄」も「芭蕉紀行文」も樋口一葉も永井荷風もすべてそうしている。これらはみなKindleという端末に保存しているから、いくら本を買ってもスペースが余計にいることにはならない。いつでも読むために保存しているだけのことである。複数の端末にダウンロードできるから、洋書はiPadにダウンロードして読んでいる。読んでは端末から消去している。何度でもダウンロードできるから便利だ。Amazonからみれば、サーバーに一つだけ本のファイルを入れておき、購入した客のIDを閲覧許可リストに加えるだけで「販売」したことになる。本を売っても、本というモノが移動することはなく、したがって販売コストはほとんどゼロであろう。

本という商品がなくなることはない。そうは思っている。しかし、情報の伝達、情報の記録、保存の手段としては、書籍は現役を引退しつつあると考えてよいと思う。LPレコードと同じだ。ファイルは端末が破壊されれば無に等しいが、紙は残ると言われれば確かにそうなのだが、そうであれば竹簡や羊皮紙のほうが紙よりはましだ。銅板や石ならもっと確かだ。実際、墓石などという商品もまだある。これらを情報保存に用いることはしていない。

書籍は、美術的・骨董的な価値がある文化財として今後も作られるであろうが、情報伝達手段としては既にその生命を終えている。


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