ただ雪国の良さもないわけではない。頭脳を使う時間がたっぷりとあるのだ。東京在住のころ、小生は正月明けの冬の晴天が大好きで、暇があるとカメラを手に歩き回ったものである。それをいま住んでいる町でやるのは無理だ。その分、頭を使うのが雪国である。ロシアの数学はハイレベルであるのと同じ理屈なのだ、な。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む三好達治の詩の世界からは雪の降り積む音まで聞こえるような静寂の中で数学の本を読むときの充足感は想像できまい。いまは古い本、Luenbergerの"Optimization by Vector Space Methods"(John Wiley & Sons, 1969)を読んでいる。職業からいえば、R. A. Fisher"Statistical Methods for Research Workers"を読みながら、その行間を頭の中で補足するほうがずっと仕事にも密着していて有意義なはずだが、いつまでも「仕事」に執着するのも一つの「我執」であろうと思うようになった。それと、しばらく絵をかいていないので、頭の中で色々と想像してみたりする。どちらが主であるのか分からない。こんなグダグダな読書は仕事に必要な本ではできないのだ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む
前の投稿では、自分の人生の充実を目標にすると、その充実は自分限りの満足であり、自分が死ねばなかったことになる。自分を超える価値に人生を捧げたいという願望を人は持ちたがるものである。そんなことを書いた。
じゃあ、古代エジプトでピラミッド建造に奉仕した奴隷たちは神の子であるファラオに命をささげることができたが故に満足して死んでいったはずであるということになる。「そんなことはないよね」というのは、近代社会の個人主義で考えているからだ。実際にピラミッドを建造していた労働者たちがどう思っていたか分からないであろう。
ただ人間の歴史は、皇帝や国王の軛からの解放の歴史であったし、絶対的な神からいかに自立して自分の生を全うするかという苦闘の歴史だった。だとすると、ピラミッドをつくった人たちも、本当は強制労働から逃亡したい、たとえそれが神の子であるファラオに奉仕することであっても嫌であった。そうなのかもしれない。そうでなければ、いまでも古代のままであろうから。
少なくとも古代エジプトから現代日本にタイムスリップして、いま時点の小生の過ごし方をみれば羨望の気持ちを抑えがたいはずだ。しかし、人間社会に大きな貢献をしたのは小生を羨ましいと感じるエジプトの奴隷達のほうである。個人の尊厳は小生が満喫しているのであるが、自分が成し遂げた価値の巨大さにおいては、明らかに小生はエジプトの奴隷たちに負けるのである。
こんな思考のゲームも雪のなせる遊びである。
0 件のコメント:
コメントを投稿