同氏は日本の無条件降伏を情報としてはつかんでいたが、敵の攪乱である可能性もあったことから、上官による作戦中止命令を受けないままに活動をやめることを潔しとせず、そのまま山中に潜伏したのである。まあ、一口にいえばこういうことになるが、実際の気持ちとしてはこんな単純なものではなかったに違いない。
いずれにしても身柄の確認後、同氏は軍刀の柄を白布に包んで降伏の意を表した。下の写真はその時の映像である。
この日の日本の新聞には『帝国陸軍最後の敬礼』というキャプションが付されていたことを記憶している。そういえば1974年という年は、前年73年10月に第4次中東戦争が勃発し、OPECの石油価格戦略によって世界が第1次石油危機に陥った年である。日本の戦後高度成長が終焉を迎えたという点では、これまた「もはや戦後ではない」という文句が何度目かのリフレインで口にされた時代でもあったが、戦後日本はこの時期に本当に終わりを迎えてしまった。
小生の父は、小野田氏の投降に感動と言うか、やはり戦中派なのだろう往時を懐かしむような心境になったのか、これぞ大和魂であると語っていたものだ。大和魂…すでに大変古色蒼然とした言葉になってしまった。おそらく江戸時代当初は「大和魂」などという思想的言辞が使われることなどなかったと思う。それが幕末になると吉田松陰の「とどめおかまし 大和魂」の辞世の句があるくらいだから、一種の流行語になっていたのだろう。
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小生は、大和魂をたたきこまれる教育を受けてはこなかったが、それでもいま上の写真を改めてみると、小野田氏のたたずまいから中国人が言う悪の権化ヴォルデモート卿を連想する気持ちにはとてもなれず、高いモラルを感じてしまうのだが、これって小生が軍国主義思想に感染しているということなのだろうか?
まあ、日本は中国とは違って-また小中華と言われる韓国とも違って-皇帝を戴く中央集権的王朝国家であった歴史は短く、科挙という学力試験で選抜される文官が皇帝に忠義をつくすことを良しとする国でもなかった-その分、日本人の社会組織は"Long Term"を喜び、また"Local"であって"Closed"である。更にあげれば日本人は文治主義より武断主義を好むところがある。
幕府政治も、封建大名たちが自分を天皇に奉仕する武臣であると意識するに至って、ついに瓦解への道をたどらざるをえなくなった。しかし、武士やサムライが消えても、その姿や言動、生き方、人生観がモデルとして日本人の気持ちの中に残っているのだなあ。これこそ武力肯定、すなわち軍国主義だと断定されると、日本人はずいぶんやるせない気持ちになるだろうと思う。
小生の家の墓は両親が亡くなったときに大変世話になった師から紹介された場所に建てた。だから首都圏にある。その師は、特務機関・陸軍中野学校の出身であったそうで、戦時中は諜報活動に任じられていたと推量されるのである。詳細はまったく分からないが、戦後になって浄土宗の僧侶になったのは何か思うことがあったのだろう。もう話をきくことはできないが、写真の小野田氏も中野学校出身であるというから、小生の師とひょっとすると会ったことがあるかもしれないと想像している。
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