2014年2月27日木曜日

大学生の4割が読書時間ゼロとはこれいかに?

大学生協連が実施した「学生生活実態調査」によれば、学生の40.5%が読書にあてる時間をゼロと回答したということだ。調査に回答したのは全国30大学の学生8930人である。サンプル数を考慮すると誤差はせいぜい1.5%程度であるから、十分正確だ。

読書時間はゼロ…、それにしては今の大学生は色々なことを知っている、ということを小生は知っているし、小生の友人もこの点は同感のはずだ。それどころかIT端末を操作する技術は完全と言ってよいほど身についているし、物事を調べるノウハウも言われる前から十分に熟達している。そう感じているのだな。

この印象と読書時間はゼロという回答は両立可能だろうか?

「読書」という言葉に、どこからどこまでを含めるかという概念定義が定かではないため、断言的なことは書けないが、学校の授業に使うテキストは読書の対象には普通は含めないだろう。「読書」とは、ある意味で自発的な行動だ。更に、ネットに接続して画面の文字を追う行為は「読書」とは言わない。読書は、単独の或は何人かの著者が書き著した一冊の本を「完読」する行為をいうのではないだろうか。だから、「拾い読み」や「斜め読み」は読書の内には入らないと思う。

このように読書とは何かを考えながら、それに該当しない行為を順に消去していくと、現代という時代、真の「読書」をすることがどのくらいあるのだろうか?そんな問いに到達せざるを得ないのだ。

21世紀という今の時代、なぜ「読書」をすることが望ましいのか?

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それには読書をする動機・目的をリストアップする必要がある。読書の動機には幾つかある。たとえば

  • 調べている事柄について情報を集めるため
  • 時間つぶし・暇つぶし
  • その作家が好き-小説、詩などのケース
  • 社会的疑問、哲学的疑問に突き動かされて読む
  • 教養のため必読書として読んでおきたい-周囲の会話についていきたい

その他にもまだ多くのモチベーションが読書にはあると思われるが、大学生の40%が読書時間がゼロという報道に接して、何となく情けない思いをするとすれば、それは上に挙げたどんな読書を考えてのことだろうか。多くの立場があるだろうが、おそらく多くの人は「社会的疑問、哲学的疑問に突き動かされての読書」、「教養のための必読書として」、この辺の読書が望ましいと、そう考えているのではなかろうか。

しかし、社会や人生で何か深い疑問を感じた時、人は他人が書いた本を読まなければいけないのだろうか?そんなことはあるまい。というより、小生の経験では、むしろそれは有害だと感じることがある。本を読むよりは、人の話を聴いたり、人と話したりするほうがよほど効果的である。

文字を通して理解できる事柄は、意外なほど狭いものである。小生は、仕事柄、数学や統計学の本を読むことが多いし、仕事とは離れて知的興味にまかせて、色々な専門書を読む。どれも論理は一貫しているし、丁寧に読めばロジックは理解できるのだが、では身につくかと言うと本を読むだけでは肝心の本質が感得されない。大事な勘所がピンと来ない。そんな感覚は、本を読んでいて誰でも感じたことがあるはずだ。先達が身近にいない場合、本を読むしか方法がない場合は、本を読んで考えるしかないのであるが、インターネットもある、YouTubeなど動画サイトもある、メールも使える、チャットもできる、DVDもあればクラウドサービスもある現代、まず本を読め、まず本を読んで考えろという助言は、小生、あまり良い助言だとは思えない。

本というのは一方的なのである。それから、本を書いた著者自身が本を書いた後、考え方を変える、というか自分が本に書いた文章に不満を感じていることが多いものだ。直接話せるなら、ずっとそのほうが良い。これに反対する人はごく少数だろうと思う。

では「教養」のため必読書を読んでおくのはどうか。まあ、悪いことではない。ただ教養というのは、知的常識、Common Backgroundとして広く共有されて初めて意味をもつ。プラトンの「饗宴」や「ソクラテスの弁明」は確かに素晴らしい著作であり、小生も読んでよかったと思っている。しかし、読んだこれらの本について友人と議論したことはない。同僚と話題にしたこともない。相手は読んでいないのだな。相手が関心があるのは寧ろインド哲学であったりする。それは小生には関心がない、というか読む時機がずれてしまって、会話としては成立しないのだ。要するに、教養というのは「共有知」となって、はじめて教養たりうるのだ。

そんな共有知として有用な読書リストが、21世紀のいま、確立されているのか?疑問である。欧米のバイブルですらどうだろう?日本の『歎異抄』や『正法眼蔵随聞記』が共有知であるべきだとは、小生には思われない。むしろ共有知として誰もが聞いたり、話したりするのは、身近にある。日本はなぜ戦争をしたのか?どんな動機で戦争をしたのか?自分にとっての論理が大事であれば、相手の論理も同じ程度に大事であろう。こんな風な感性を広く国境を超えて持てる素材は、本という形をとっておらずとも、いわゆる「古典」よりずっと意義のある、共有知として持っておくべきものではないのか。そう思うのだ。

☓ ☓ ☓

読書にはメリットがある一方、著者の考え方を読んでいるつもりが、いつの間にか著者に読まれる、著者に洗脳されるという負の効果がある。健康によい食材が色々と提案されているが、合意されているものはない。一長一短だからである。

小生のかつてのゼミ生は時間があったら村上春樹を読むと話していた。別の学生は東野圭吾が好きだと言っていた。それは何かについて勉強するためではない。ただ面白いのだな。

その面白さを大学生たるもの誰でも感じることができるようになれというのは無理だろう。そんなことを言い出せば、テニスたるもの大学生なら誰でもプレイできなければならない紳士たるものの修練である。そんな風になるだろう。美大であればデッサンがこの程度でよく芸術を志せるものだ…となる。ピアノも弾けずに音大に入ってサックス演奏家を志したいというのか。不真面目だ。酒の一杯も飲めなくてどうする。ゴルフに関心がないとは、あきれ果てた奴だ。人生の本質は麻雀をすれば自然に分かるものだ…。民主主義より真面目主義、国のことより村のこと。本当にこんな感じだったねえ、昔は。

大学生たるもの読書時間がゼロとは何たることかと。「学生村」の住人にあるまじき過ごし方だ。そう慨嘆する人は『▲▲たるもの、このくらいはできて当然だろう』、そんな思考法をとってきたのではなかろうか。いわゆる「金太郎あめ集団」は、そんな風にして形成された古き良き日本人集団であったのだろう。






2014年2月26日水曜日

日本版ネオコンもそろそろ限界か?

アメリカ・ブッシュ政権は、9.11とその後のアフガン侵攻、イラク空爆で記憶されている。テロリズム追放、大量破壊兵器撲滅を大義とした単独行動主義は、チェイニー、、ウォルフォウィッツ等、米政権内のネオコン(Neo Conservatists)達によって推進されたとされている。しかし、当時の世界全体の世評としては、米政府が特定の思想を支持する派閥によって占拠されているという見方に近かったような印象が残っている。ま、いずれにせよ今のオバマ政権から燃え残ったネオコンの焦げ臭さを感じることはない。

日本国内を見ていてはそれほどピンとこないが、どうも安倍首相のイメージが世界全体で低落しているのではないかと憶測するようになった。アベノミクスは、日本の対外的イメージを変えるものであり、その意味では『周囲が自国をみる見方を変える行動をコミットメントという』というゲーム理論の教科書通りの「戦略」として、それは機能してきたと言える。

ところが、実際にはマネタリーな側面は黒田日銀総裁へ丸投げ、政府が真剣に取り組むべき経済成長戦略は「岩盤のような保守層」の前に後退に次ぐ後退を続け、重要な前線であるTPP交渉でもアメリカと正面衝突、一歩も引かずという戦術に固執して手詰まりに陥った。工夫をすれば果実を得られるにもかかわらず、このままでは何も得られず、という結果になる怖れが出てきた。くり返すが、安倍政権は「保守層」から支持されて誕生した政権なのだ。ここを間違えてはいけないと思う。

米紙Wall Street Journalは次のように書き始めた。タイトルは「1年を過ぎても実を結ばないアベノミクス」である。
 日本の貿易赤字は、アベノミクスの一部がどれほど日本の実情とかけ離れているかも露呈している。もちろん、日本は輸出が減少し、輸入を増やす見通しだ。なぜなら、高齢の労働者が退職し、外国の若い労働者が生産したモノを購入するため貯金を切り崩しているからだ。
 景気回復に向けた大胆な実験として導入されたアベノミクスが1年以上たつ今、日本が現在目にしているよりもずっと強い効果を期待することは理にかなっている。10-12月期のぜい弱な数字は、安倍首相にとって、まだ実現していない経済改革の「第3の矢」(民間投資を呼び込む成長戦略)を推進する時間が限られていることを示している。
(出所)WSJ、2014年2月19日

安倍政権に比較的好意的なWSJも最近になって論調が厳しくなってきている。Washington Post、New York Timesなどに至れば言うに及ばず、だ。

「黒田円安」は、新経済政策を良しとするG7の賛同があったから容認されたものだ。韓国はその円安から最大の被害を被っている。ドイツは極めて批判的である。それでも欧米は全体としてアベノミクスに沿って日本が構造改革に努力するなら、世界にもたらすだろうマイナスよりはプラスの効果を重く見て、安倍政権のリーダーシップを評価してきた。こう言えるだろう。

ところが安倍内閣は、自らの政治的支持基盤に迎合する行動を繰り返している。そして為すべき政治的課題と正面から取り組むエネルギーを惜しんでいるようにみえる。政治的エネルギーの大半を自分自身の理念の実現に使おうとしているかのようだ。そして何と言っても、日本が必要ともしていない総理靖国参拝と解釈改憲を是とする超法規的な姿勢がある。これじゃあ公明党だって堪忍の緒が切れるでござんしょう…。親友まで見限れば、あとは落ち武者のような話し相手が寄って来るだけ、次の選挙は大敗に決まったというものじゃあござんせんか。小生の周りにはこんなことをいう御仁が増えてきた。

「アベノミクス」のこれまでの効果は、世界の期待があったから実現されたものだ。世界の期待が失われれば、マネー流出による株価暴落、経常収支赤字体質への懸念による円暴落、貿易収支赤字の一層の拡大と円暴落、嵐のようなインフレの到来という「悪夢の三重苦」が日本を襲うかもしれない・・・、そんな恐怖がひそかに感じられる今日この頃である。

どうもGHQによる占領が終わってから以降、戦後日本に「改革」なし。あるのは改革という名の模倣、改正という名の現状維持である。団塊の世代が現役であった時は、それでも組織の規律をものともせず、集団的な”Generational Energy”が発散され、そのお蔭で日本社会のダイナミズムが維持された。もう、しかし、それもお終いだ。破壊のエネルギーはない。上質の保守は慎重な知性を土壌とするが、腐敗した保守は独断と無関心を餌にする。

とはいえ、周回遅れのネオコン政治は誠に見苦しいものである。単独行動主義は勇敢に見えるが、経験知としては単なる愚か者として歴史の底に沈みゆく結末が予見されるばかりだ。せめて、ただ沈み去ってほしいのであり、混乱という負の遺産は残してほしくないものである。

2014年2月24日月曜日

大事なことは「なせばなる」か、それとも運・不運か

ソチ五輪も閉幕した。五輪は何事もなく終わったが、五輪が開かれている間にウクライナの親ロシア政権は崩壊し、親欧州(=EU)勢力が政権につく見込みになった。ロシアのプーチン大統領にとっては誤算であろう。それとも冬季五輪はウクライナの混乱を見越した目くらまし戦術であったのか?いやいや、ソチ五輪はずいぶん前から予定されていたことだ。ずっと前から2014年2月の時点でウクライナが政治的危機に陥るとは誰も予想できなかったろう。だからウクライナ政情はプ大統領の誤算である。正にその時に自国でオリンピックがあり、それが成功裏に終わったことは、ある意味で幸運であったのかもしれない。

それにしてもオリンピック開会中に内戦同様の状況にまで進むのだから、「平和の祭典」とはよく言ったものである。が、これも「イヤイヤ」である。古代ギリシアのオリンピアードもその開催中はどんな戦争も停戦となったらしいが、オリンピアードが終わると兵士達も故国に帰って、祝祭モードから平常モードへ戻り、再び戦争を継続したのである。そうやってスパルタ陣営とアテネ陣営は30年もの間ペソポネスソス戦争を戦い続けたのだ。

それにしても、リアルタイムで隣国の親ロ政権を裏で支援するべく工作し、表面ではオリンピックを主催するのだから、五輪の形骸化も来る所まできた。1984年のロス五輪がビジネス・オリンピックの始まりなら、ソチ五輪はポリティカル・オリンピックのピークとして記憶されるかもしれない。

それにしても(と再び繰り返すのもくどいが)、成功の印象をもって五輪を終えたプーチン大統領は、政治的なフェリックス(=幸運児)である。同じく、日本の安倍晋三総理も一次・二次を含めて良い巡り合わせで好機が訪れる政治家だ。その日本の幸運児も最近は友人が次々に失言をして、足を引っ張られている感があるが、まあ一過性のゴタゴタで終わる見通しになってきた。

しかしながら、ここにきてTPPに暗雲がたれ込めてきた。アメリカも日本も議会や公約に縛られていて、まともな交渉ができない。理屈からいえば、日本は農業高度化の予算措置をして、併せて聖域5品目の関税をすべて「長期的には原則100%撤廃」とするのが、ほとんどの国民にとって最善の選択だ —前にも述べたが、食品自由化を断行して、食品価格の引き下げをもたらして、日本の家庭のエンゲル係数をアメリカ並みに下げれば、平均で概ね40万円/年程度の減税効果をもつ。ならば、世界市場で売れる銘柄農産物に特化できるように支援する高度化資金は税で十分調達できるはずなのである。

理屈では上のように議論できるが、自民党では無理だろうと思うようになった。そもそも安倍総理自ら山口県が地元であり、現在の日本の農業は伝統的に自民党の地盤なのだ。TPPは労組を支持基盤とする民主党が実行しなければならない政治課題だった。労組がTPPに反対する理屈は全くといってないからだ。得するに決まっている政策に反対したのは、小沢一郎を民主党に招いたからだ。小沢一郎は岩手を地盤とする農業政治家であると小生はみてきた。実際、農家戸別所得保障などという政策は、極めて小沢好みの政策であり、反・労組的な発想である。TPP交渉のボタンの掛け違いは、政策理念や支持基盤をかえりみず、ただ選挙に勝利したいがために異質の政治家を自党に招いた民主党の失敗に原因がある。小生はそうみている。

あとは安倍内閣が「なせばなる内閣」になりうるかどうかであるな。

2014年2月21日金曜日

日本から新興国からではなく、新興国から日本へか

ずっと昔は『アメリカがクシャミをすると、日本は風邪をひく』と言われていた。アメリカ景気が踊り場にさしかかると日本経済は不況になるという意味だ。もとより景気の浮沈は最終需要の変動で決まるものだ。この関係を日本と新興国経済の関係に当てはめれば、日本がくしゃみをすると、新興国は風邪をひくという表現になる。

ところが今日あたりの日経には以下の記事が載っている。
日本の輸出が伸びない。財務省が20日発表した1月の貿易統計(通関ベース)で輸出数量が前年同月比0.2%減と、4カ月ぶりに前年を下回った。米国や欧州向けが回復したのに対し、アジア向けが前年を2.0%下回り全体の輸出を押し下げた。アジアの新興国経済が日本の外需を抑えており、4月の消費増税後の景気の不安材料となるおそれがでてきた。
(出所)日本経済新聞、2014年2月21日朝刊

 「アベノミクス」が始まってから、すいぶん円安になった。ところが輸出が増加しない。円安になれば原油や天然ガスなどの輸入代金が膨らむ。だから貿易収支は一時悪化するが、その一方で海外市場で日本製品は安くなるので輸出数量が増加に転じる。それ故、貿易収支の悪化は一時的で長期的には円安は貿易収支を改善させる。それが常識的な見方であったが、1年たっても貿易収支赤字は膨らむばかりだ。それで、「おかしい……」という人が増えてきた。

上の記事は、新興国経済が悪化していることが日本の輸出の停滞を招き、それが貿易収支の赤字を拡大させている。そう指摘しているわけだ。

商品ごとの内訳をみているわけではないが、日本から輸出されているのは最近では部品・パーツであり、それを新興国で組み立ててから輸出しているパターンが多い。だとすると、停滞しているのは新興国経済というより、世界市場における"Japanese Bland"だと言うべきだろう。

上の記事の先を読むと、タイの政情不安が結構きいているようだ。
タイは政府による自動車購入の補助が縮小したほか、政情の混乱が経済活動の停滞に及び始めている。タイは日系自動車メーカーの多くが生産拠点を置き、タイ国内の自動車販売でも日系が9割のシェアを持つ。タイの減速は日本からの自動車部品など関連品目の輸出鈍化につながりやすい。
とはいえ、次の指摘もしている。
さらに日本製品が世界の市場で競争力を落としてきた分野もある。特にスマートフォンなどの情報通信機械は日本メーカーの苦戦が目立つ。これも輸出減の要因とする見方が多い。
タイの混乱 → 日系企業の生産活動が低下 → 日本からタイへの輸出低下。つまり生産現場の混乱であって、日本製品への顧客が減少しているわけではない。これが楽観論。対するに、IT製品ではMade in Japanを求める客が減っている。外国の競合企業に顧客を奪われている。これは持続性をもつマイナス要因だから悲観論になる。

この日本製品の魅力低下というマイナス要因をカバーするために、原発を再稼働して日本国内の電気料金を安くするという発想ではまずダメだろう。大体、円安効果によって似たような効果は既に享受しているのである。電気代を少々安くするなどは焼け石に水であろう。

第二次大戦後のイギリスは、対外資産運用益ではカバーできないほどの貿易収支赤字拡大と、Made in Englandの競争力を回復させるはずのポンド暴落の繰り返しだった。何度かイギリス経済の危機が繰り返された後、今日のイギリスに生まれ変わったのは、サッチャー内閣による<半ば暴力的な>規制緩和、労働市場改革、教育改革が行われたからだ。

サッチャー以前に機械的に反復されたイギリス経済構造改革は、いまでは専門家でなければ覚えていないだろう。それは、改革という名の現状維持であったのだ。イギリスが歩んだ道を日本が歩むかどうかは、マクロ経済状況による。残念ながら、この道を行きたい、あの道は嫌だという国民の好悪の感情は、国民の将来とはほとんど関係がない。あらゆる戦争もそうだが、国の運命は因果関係によって決まるのであって、国民の希望は社会科学のロジックにかなっている時にのみかなえられるものだ。


2014年2月19日水曜日

原発再稼働がないなら料金引き上げ—これは怪しからん事なのか?

昨日、四国松山に住んでいる年老いた叔父から電話があり、小生の亡くなった母と同年齢の叔母が亡くなったと知らせてきた。ついては家族葬にしたいと。だから帰らなくともよいし、香典も不要であると言う。ただ弔電だけがほしい。兄弟そろって心のこもった弔電がほしいという。それは出来るかと問うので、弔電はもちろんだと答えておいたが、香典はおくるな、弔電はくれと。その伝え方を聴いていると、年上の司令官が年下の部下に指示をする場面を連想した。もとより電話をかけてきた叔父は、亡くなった父のすぐ下の弟であり、少年期には陸軍幼年学校に通い、長じては地元の地銀に入行して宴席では常に床柱を背に座を占めてきた人である。甥とはいえ、人に指図することになれている感性が電話を通して伝わってきたのである。

本日の道新には、北電が電気料金引き上げの検討を始めたことを批判する社説が掲載されている。「泊原発の再稼働の見通しがないため、電気料金の引き上げを検討せざるを得ない。これではまるで、電気料金を維持するには、原発再稼働を認めよと言っているのと同じではないか」と。そんな主旨で北電の経営陣を非難しているのだ。

おそらく北海道新聞の論説陣は、以下のような道筋を考えている、そう解釈しないと論理が貫徹しないのだ。

  1. まず脱原発を社会的合意として決定する。
  2. 費用を利用者が負担する資本主義の論理によれば、原発を利用しないことによるコスト上昇は電気料金引き上げによって負担せざるを得ない。しかし、これは資本主義の論理だ。電気料金を引き上げないという社会的合意を形成することは可能である。
  3. その場合は、電力会社の経常赤字発生か、従業員の給与引き下げのいずれか、または双方を甘受せざるを得ない。
  4. 電力会社が長期にわたって赤字を出し続けることは不可能である。かといって、社会的に合意された安価な電気料金に合わせる水準に社員の給与を引き下げるのも理不尽である。大体、そんなことをすれば社員が流出するだけである。それ故、赤字補填のため政府から電力会社に経常補助金を支給しなければならない。
  5. 経常補助金の財源は租税である。しかし、社会的に必要な電気料金安定化のための措置なのであるから、税をもってそれを実現するのは当然である。

かつて戦後日本ではずっとコメの安定供給と米価安定を大義として、食糧管理特別会計(=食管)が設けられ、農家は政府にコメを売り、政府が国民にコメを転売していた。農家からの買取り価格より、消費者への販売価格が低かったが、その差額は税で穴埋めしていたのである。これと同じようなことを電気について政策的に実行せよと。そう解釈するなら、道新の主張は理解可能である。

しかしこれは社会主義なのである、な。すべての社会主義は、社会的弱者を救済するという大義があり、発想自体が倫理的に間違っているわけではないのだが、実行するには強い権力が必要である。政府の指示の通りに商品が流通する必要があるのだ。そのため現場をモニターして抜け駆けや自己利益追求行為を取り締まる必要がある。社会正義を求める心は正しいのであるが、そのためのツールは権力なのである。

冒頭の叔父は何事も取り仕切ろうとするのであるが、上から下をみる目線は権力を使い慣れた目線でもあるのだな。どうも小生は、そんな社会や慣習には辟易とする。

そんな権力を認めてでも原発は止めておきたい、それほど原子力発電なるものが嫌なのだろうか?いくら科学技術が進歩しても絶対に嫌なのだろうか?宇宙開発においても原子力エネルギーは容認できないのだろうか?原子力以外なら何でもよいのだろうか?正直なところ、小生は科学技術の進歩が成し遂げてきた成果に評価を惜しむことはしない。技術進歩がなければ生産性は低い。生産性が低ければ全て割高になる。価格を下げるには安く生産できることが必要だ。それには新しい、優れた技術進歩をどんどん採用しないといけない。その心構えが、窮極的にはより一層の安全にも結びついていく。安全は守りでは達成できない。普段の前向きのアグレッシブな姿勢からもたらされるものである。

理屈は簡単なのだ。おそらく理屈ではなく感情が問題の本質である。理科離れの感性はここにも観察できると思っている。

2014年2月16日日曜日

明治以来、というより天保以来の大雪か

甲府市の積雪量が110センチに達したという放送をみて吃驚した。小生がいま暮らしている北海道の町も、道内では雪の▲▲として知られているが、それでも積雪量はその位である。甲府市と同じくらいだとはねえ…。異常である。

広重の浮世絵「東海道五十三次」の中の蒲原雪景は切手にもなっている名作である。


歌川広重、「東海道五十三次絵‐蒲原」、1833年(天保4年)頃
(出所)浮世絵検索

しかしながら、蒲原といえば温暖な静岡県にある村である。その蒲原が、上の絵のように大雪に埋没することがあるのか。これは広重の想像を描いた絵ではないのか。そんな不審もあるのだな。

ちょっと気になって調べてみると、正にこの雪景色はありのままの写生ではないとしても、実体験に基づいたイメージではないかと思うようになった。

というのは、上の絵が制作された天保年間という期間だが、江戸時代の中でも大変寒い期間であったことが知られている。江戸4大飢饉は、寛永・享保・天明・天保の4回の凶作を指す言葉で、特に1833年から37年まで続いた天保の大飢饉の原因は寒冷のための不作だった。更に、大飢饉が過ぎ去った頃にあたる1842年(天保12年)1月28日の大雪は江戸の町を真っ白にして、「大雪三尺」と形容されている。三尺といえば90センチである。今回の大雪はせいぜいが20数センチである。上には上があるのである。

茨城県にある古河藩主・土井利位が雪の研究『雪華図説』を著したのは1832年(天保3年)前後のことである。冬季の雪が少ないとされる茨城県古河市で雪の結晶を継続して研究できる気象であったのが天保年間なのだ。

歌川広重の名作「蒲原」は彼自身がみた雪景色を、実際に歩いた蒲原宿に重ねて作ったイメージなのであろう。単なる想像の産物ではないと思われる。



2014年2月14日金曜日

メモー「歴史」は過去のことなのか?

『過ぎたことをあれこれ言っても仕方がない』、日本の井戸端会議では頻繁に口にされる台詞だ。人の噂も七十五日、覆水盆にかえらず、これらも大体同じ趣旨である。こんな議論をそのまま延長すれば、「歴史問題」をいつまでたっても蒸し返す感覚にはついていけない、と。こういう反応になってくる。

訪韓した米・ケリー国務長官も発言しているそうだ。
韓国の尹炳世ユンビョンセ外交相と会談したケリー氏は共同記者会見で、「韓国と日本は歴史問題を克服し、関係を進展させるべきだ」と述べ、日韓両国に関係改善を強く促した。さらに、「過去より現在がもっと重要だ。(核開発を進める)北朝鮮の脅威など、現代の多くの人々の命がかかる安保問題に焦点を合わせるべきだ」と訴えた。
 また、「米国は、(日韓という)二つの同盟国が歴史問題を後回しにし、関係を改善する方法を見つける手助けをする」と米政府が関係改善の仲介役となる意向も表明した上で、「(4月に歴訪する)大統領が仲裁する形になってはならない」と早期決着を訴えた。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2013-2-14

「過去より現在が重要だ」というのはその通りだが、しかし、過去の一連の事実、一つの時代をどのように考えるかという議論は、いま行われているか、あるいは今後将来行うべき議論なのだから、過ぎたことではない。過ぎた問題とは<解決済み>の問題を指す。相手がいれば双方が<解決済み>だと同意しなければならない。一方が新たな論点を提出すれば再び<未解決>に戻る理屈だ。そうなれば、いま解決するべき問題となり、何も過ぎ去った問題ではなくなる。解決が求められるわけだ。

このことは何も著名な英人歴史家・E.H.カーの名言『歴史とは現在と過去との対話である』を思い出すまでもないほど明らかであって、いま生きて話しをしているのは現在の人間たちである以上、歴史は現在において作られつつあるのであり、である以上は現在のことである。それに自分はどう参加して、議論するのか。過ぎたことを意味なく「蒸し返している」のではない。歴史とはそもそもそういうものである。ここがポイントなのだ、な。

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足を踏んでおいてから、踏んだ方が『うっかり踏んでしまいましたが、これはバスが揺れたのと、あなたが私のすぐ後ろにいたためです。しかし過ぎたことであり、今さら踏まなかったことにすることもできません。だから故意に踏んだとか、注意をすれば踏まずにすんだとか、そんな話しはせず、さっと水に流しましょう』と言えば、おそらく踏まれた方は憤激して、踏んだ相手に殴りかかるだろう。それに値する程の無礼をはたらいているわけである。踏まれた側の痛みは実質として存在する。その痛みと自分との関連を考えることがポイントである時に、どう言おうと済んだことですよねと言えば、五無主義ではないが無作法、無遠慮である。相手が腹をたてて進行する紛争は、過去の事柄が遠因になってはいるが、直接的な近因は起こった状況をどう認識するかにある。だからこの紛争もミニサイズの歴史問題であって、根底にはパーセプション・ギャップがあり、いま解決されなければならないのだ。

「歴史問題」を過去の問題として議論しないのは現状認識として間違っている。また、議論を回避するのが一つの戦略であるとしても、何を目的とした最適な戦略であるのか、常に自らが理解していることが大切だ。そこには自己利益・共同利益の裏付けがなければならない。

2014年2月13日木曜日

最近の「お墓」事情に寄せて

先日朝のモーニングワイドで<墓トモ>というキーワードが登場していた。言葉の意味は簡単で、一緒にお墓に入ろうというまでになった老いた友人同士のことである。

言うまでもなく日本という国に墓の作り方に関する伝統はない。伝統があるのは武士や公家、地主などの富裕層である。だから、幕末というそれほどの昔ではない過去に遡ってすら、先祖の墓の所在がよく分からないというケースは実に多い。昔は「▲▲家之墓」などという文字を刻した石など普通は建ててはいなかったし、個人別に小さな墓石が置かれていればマシであったのだ。

アンケートの結果の細かい数字は忘れてしまったが、男性の場合は「実家の墓に入る」、「夫婦で新しいお墓をつくる」というのが大半を占めていたように覚えている。おそらく前者は長男であり、後者は次三男の人であろう。では女性はどうかというと、「夫の実家の墓に入る」という希望はほとんどなく、「実家の墓に入る」、「夫婦で新しい墓をつくる」、「友人と一緒の墓に入る」、「墓には入りたくない」等々という多くの選択肢にばらついていたのが目をひいた。

回答がばらつくというのは、簡単にいえば社会的に定着している合意がない、というか以前の合意が崩壊してきていることの反映だろうと思う-妻は夫の実家の墓に入るか(長男)、新しく分家として墓を建立するというのが常識だったから。

話しだけをきくと、現代の女性の身勝手な願望にあきれ果てる人も多いだろう。しかし、そうではないと気がついた。

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女性が嫁いだあと、嫁ぎ先で自分の入る墓が与えられるか、つくるかではなく、育った実家の墓に入りたいと自ら思っているなら、婚家先に既にいない小姑(古イ言葉デアル)たちも、いずれ戻ってきて婚家先の墓に入るであろうと予想される。そうなると、実家の墓に入るのは夫、夫の親、夫の兄弟(次三男まで実家の墓に入るとすれば)、姉妹たち、つまり夫の血族であって、他人である自分は極めて肩身が-死後の世界に「肩身」などがあるかどうか分からないが-狭いと予想せざるをえない。それは嫌だ。自分は実家の墓に入る。自分が入れば、そして兄弟姉妹も入れば、実家にいる兄の嫁の居心地が悪くなるとしても、仕方がない。嫌なら育った実家の墓に戻ればいい……、こんなドミノ・ゲームが進んでいるのだろう。

ずっと昔は、「墓というのはタテに入る」。そういう原則が確立していた。祖父母、長男夫婦、そのまた長男夫婦、という具合にだ。だから、一つの墓に入っているのは、直系男性親族が半分、あとの半分は外から嫁いできて家を継承する次世代を育て、家族を支えてくれた代々の妻たちである。日本の墓は、家族親族が一緒に仲良く入る死後の空間ではなく、世代をタテに継承していくための家制度のシンボルであったわけだ。そして何世代もの永い間、それは見事に機能してきたのだ。

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いま「▲▲家」や「〇〇家」から成る家制度は急速に崩壊している。というか、崩壊しつくした感がある。それとともに家の墓がもつ意味が変わってきた。家の墓は、懐かしい家族が最後に暮らす空間になってきた。その代償として、いわゆる「嫁」と呼ばれる女性が死後に安住するべき空間がなくなった。「嫁」は所詮は他人である。いや、嫁という言葉すら死語と化しつつある。息子の妻は、いつ他人に戻るかもしれない仮の縁でしかないのである。仮の縁で一緒に生きた人と未来永劫ずっと死後の世界をともにするのは嫌だ。悔いのない人生など、塩気のない海に似ているが、死と同時に現世の縁を悔いることが予約されているような人生観かもしれない。それでも心情は想像できる。


だから死後の在り方についても合意や常識は崩れ、個人個人が随意に選んでいる。違いがあるのは、選択範囲が多い証拠であるから、人々の満足は高まっているのだという経済学の理屈をここで当てはめてよいかどうか、小生には分からない。より高い満足ではなく、不安と迷いの現れと言われれば、そんな気がする。

小生のカミさんがかかったインフルエンザも峠をこして、今日などは布団から抜け出してきて、ソチ五輪を観たりしている。

小生: 毎週リハビリ、時々病気。これって何かのドラマのサブタイトルになりそうだね。
カミさん: もう、大変だったんだよ。でも、よくうつらなかったねえ。
小生: プロポリスのうがいと、板藍茶のお蔭だろうな。こんな書き出しの本があったら読みたくなるよ、『会社を辞めてから毎週リハビリ、時々病気といった暮らしぶりだったが、昨日は運悪く角を曲がってきた車にはねられて怪我をした』、…どう?思わず読みたくなるよね。
カミさん: 一度、お祓いにでも行こうかなあ。
小生: 航海安全の住吉神社にでもいくか。

死んでから残るのは骨だけだ。もしも魂があったとしても、魂は天に向かうだろう。墓は、死んだ当人の都合ではなくて、自分のあとに生きる次世代が仲良く暮らしていくための仕掛けである。子供たちが最も好都合なように親の墓を決めればよい。実際、日本のお墓はそんな風に現役世代が便利であるように決められてきた。それでいいと思う。自分の死後はこうしてくれなどと、次世代に最後のお願いをするのは、やりすぎというものだろう。





2014年2月11日火曜日

世界史の問題-2月11日は何の日か?

今日は建国記念日である。東京では「日本の建国を祝う会」主催の式典があり、安倍総理はこの日にあわせたメッセージを発表した。NHK News Webによると、「現職の総理大臣によるメッセージが出されたのは初めてで、心より歓迎し、政府主催の式典が開催されることを願う」と、主催者側が感謝の念を述べたということだ。

とはいえ、アメリカの独立記念日(=7月4日)やフランスのパリ祭(=7月14日)が、グローバル時代にふさわしい広がりと記憶を伴っているのに対して、建国記念日の今日、いったい何があった日であるかに正解できる人は日本人であっても少なかろう。

2月11日という日付は、むしろ、はるかに重要であった出来事と関連付けられている。それは第二次大戦後の世界の構造を決めたヤルタ会談が終わり、米英ソの首脳(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)が最終コミュニケに署名した日である-中国・国民党政権の蒋介石は招待されてはいなかった。

今日は、インフルエンザにかかったカミさんが病臥しているので、PCをもって小生一人で外出し、気に入りのカフェで1時間余り成績評価作業をしたあと、書店に寄ってアルチュール・コント『ヤルタ会談 世界の分割-戦後体制を決めた8日間の記録』を買って帰った。

その巻末に「1945年2月11日付けコミュニケ」の正文と「ソ連の対日参戦に関する協定(ヤルタ秘密協定)」がある。もちろんどちらも日本語訳である。後者の2項の3に『千島列島はソ連に引き渡される』と記されている。対日参戦の報酬の一つが千島列島であったわけだが、日本語によるWikipedia<千島列島>でも「千島列島(ちしまれっとう)は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。」と記されている。北方領土の領有権を主張する日本政府は、したがって「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている」という立場をとらざるをえないのだが、小生不勉強なもので戦前日本の小中学校で「千島列島」がどの範囲を指すと教えられていたのか確かめたことがない。おそらく帝国陸軍参謀本郡・陸地測量部が作成していた地図をみれば明記されているのではないだろうか。

思わず「領有権」についての話になったが、上の本を買うきっかけになったのは、帯に書かれていた文句だ。ミッテラン元・仏大統領の発言だそうだが、『西欧の愛国者の思いはただ一つ。ヤルタ体制の打破である』。う~む、なるほど。フランス、というか欧州から戦後世界をみる時にも、そこには失われた幾つもの国益への哀惜があるわけか。いやいや欧州ばかりではない。今後将来、平和的台頭を目指す中国もまた<ヤルタ体制>を打破する動機があるに違いない。確かに冷戦は終わったかもしれないが、アングロサクソンとロシア勢力圏が世界の秩序を決めようというヤルタ・スピリットはまだ灰の中で燃え続けていて、戦後世界を支える基本構造となっている。その支柱を倒壊したいという夢想は、案外多くの国で共有されているのかもしれない。表面的な対立構造は、実は文字通りの表面であり、共有されるべき宿願という点では協調への動機がある、より大きな利益をもたらす21世紀の結託への動機がある。刺激的な一冊である。

2014年2月9日日曜日

雪の日、雪の絵

東京では45年ぶりの大雪になった。小生がカミさんと結婚した年も全国的に大雪の日が多く、四国・松山でも市内電車が雪のために往生したものだ。その年の春4月15日が式当日であったが、城山を廻るお堀端の桜がちょうどその日に満開だったことを覚えている。平年より半月は遅れたのだ、な。45年ぶりというと更にその年を上回る大雪というのだから文字通りに稀な冬である。

小生は、雪の日も雪の絵も大好きである−永井荷風が書いた随筆「雪の日」の素晴らしさも忘れられない。その浮世絵には雪の名品が無数にある。広重は何枚も描いているし、月岡芳年など大半はおどろおどろしい妖怪、侍の図であるが、ごく少数だけ花の絵、雪の絵、美人画がある。そのどれも何とも言えず美しく、可憐である。しかるに西洋は、あれだけ雪が降っているにもかかわらず、気象学的な現象の一つ「雪」としてしか認識していないのか、降る雪や積もった雪を情緒として感じ、雪景色を絵にした名品が少ないのは大変不思議である。そもそも西洋画には純粋の白という色がほとんど使われない。印象派の画家モネが描いた雪は白くはないのだ。その分、リアリティは増すが、雪としての美しさは毀損されてしまう。雪は白いものである。


月岡芳年、大雪の冬

中でも不思議なのは、ロシア人・カンディンスキーはなぜ春・夏・秋の絵をあれだけ描きながら、冬を思わせる絵をほとんど描き残していないかだ。生まれ育ったロシアでも、修行をしたドイツでも、冬は長く厳しく、雪を描くのに困ることはなかったはずである。


Kandinsky, Cemetary And Vicarage In Kochel, 1909
Source: Kandinsky

教会の墓地であろう。雪を思わせる色使いだが、雪の日を描いたのではないかもしれない。中欧の冬景色らしくもないからだ。よく分からない。が、カンディンスキーが冬を描いたのだとしたら、この作品と他にあるだろうか…、後半生は抽象画に没頭した人でもあるし。どちらにしても、この時期、第一次大戦までは弟子ガブリエレ・ミュンターと一緒に暮らしていたはずだ。画調が明るすぎるのはそのせいかもしれない。

あるものをどう表現するか、分かりきったことは疑わないものだ。それが伝統というものだ。分かりきったと考える内容が違うと、同じ雪でも全く違った表現となり、違った絵をかくことになる。

一つの事実、一連の事実、一つの時代、これらをどうみるかというのも、何を分かりきったことと考えるかで、過去はまったく違うものとして意識されるだろう。その色々ある過去の見方のどれが正しくて、どれが間違っているか。それが歴史論争である。その論争にいま決着をつけたいと願う人は、その決着で利益を得る人たち、失うものを持たない人たちだろう。こんな風に考えると、なるほど歴史は過去のことではあるが、議論する人間はいま生きているのだから、歴史もまた適者生存の中で選ばれて決まるのだろう。歴史を政治と切り離すことなど、最初からできないことではなかろうか。




2014年2月8日土曜日

WSJ: 日本をみるもう一つの視線

ソチ冬季五輪が始まった。
北海道でも札幌雪祭りや、小樽の雪明りの路が始まった。
いつの間にか正月、松の内、小正月、節分、立春が過ぎて、春をまつ季節になってきた。
今週は毎日会議があり慌ただしかったが、今年度の仕事もそろそろ一段落させる時期である。

それはそうと……

特定の新聞社が一つの観点にたつ意見を記事にしたとしても、それと矛盾する見方は一切とらないという意味ではない。

互いに矛盾する内容の意見を並列して認めることは、真理を得る帰納的方法においては、必ず行わなければならない鉄則である。

端的にいえば、ある時点で知られていることは必ず一面的であって、真理を示唆する材料にすぎない。個別に一つずつをとりあげて、それが正しいとか、誤りとかを言っても、さほどの意味はないのであって、常に全体的な見方の転換というのは起こりうるものである。「パラダイム・シフト」という言葉を知ってはいても、実際に身につけて日常的に生かすことは難しいものだ。

前回投稿のあとWall Street Journalが社説を載せた。『日本には集団的自衛権が必要―アジアの民主主義に貢献』がタイトルになっている。最後の下りをここでは引用しておきたい。
憲法の新たな解釈が日本の軍隊から制約を完全に取り除くことはないだろう。安倍首相は憲法改正を求めたい考えだ。中国は集団的自衛権をめぐり大騒ぎする一方で、中国政府首脳は自らの行動が政治的に道筋を開いたと考えるかもしれない。中国が尖閣諸島や南シナ海の問題をめぐって武力で現状を変えようとし続けるなら、安倍首相あるいは次の首相が憲法第9条を丸ごと削除するかもしれない。 
 安倍首相は、日本をアジアで主導的役割を果たすことのできる正常な国にしようとする取り組みにおいて称賛に値する。日本政府は平和に貢献し、この70年間で過去の行為を償ってきた。日本は民主主義のため隣国に安全を保障するという自らの役割を果たすべき時がきている。
(出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、2014年2月6日

 小生は、矛盾した意見を時に応じて平気で次々に言う人が大変好きである。それぞれが、その人にとっては真理であり、個々の矛盾はそれだけ現実が多面的で、互いに矛盾しているかのように見える世界であることの反映だからであって、混沌とした発言はむしろ奥深さを意味していることがあるものだ。

ここまで書いて連想したのは、かなり昔に読んだハイエクの文章だ。
(設計主義的合理性の下にできあがった)設計によらずして、「成長して成った」制度に対する関心がこのより古き思考様式の復活へと導いた。(出所)ハイエク『市場・知識・自由』、第5章「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」、137ページ
「古き思考様式」とはイギリス伝統の帰納哲学のことであり、制度の設計ではなく、制度の(自然的な)成長を重視した。成長を重視するというのは、その制度を導入する当初においては、まだ未熟・不完全であるが、永年をかけて国民が新しい服に慣れていくように、制度を修正していくということになる。最初が不完全なのだから、修正の頻度が高ければ高いほど、より速く完成されるわけでもある。

このような思考様式は、日本国憲法の「護憲派」にはとても容認できない立場かもしれない。護憲という言葉には、変革の拒否、完全なるものの守護という意味合いが込められている以上、上のような不完全なものを完全なものに直していくという発想が欠けているからだ。

2014年2月6日木曜日

安倍現政権はいつまでもつのか?

昨夏の参議院選で自民党・与党が勝ったとき『これであと3年間は国政選挙がなく政治に専念できる』という声が広がった。

その3年の間にはアベノミクスの成果が出るなら出ているはずであるし、アメリカ、欧州の経済状況が回復に向かっていて消費税率引上げも乗り越えそうだ。今回の安倍政権は前回と違って巡り合わせが良さそうだ。そんな風に本ブログでも書いた記憶がある。

ただマスメディアを通じて伝わってくる首相の人柄は、前と変わらない印象で、どこか大事なところが「鈍感」であり、普通の人の感覚を理解できない、簡単にいうとデリカシーがない、そんな所があるのじゃあないかと(今回も)感じてきた。その善くも悪くも直線的なキャラクターが原因するのか、前回も閣僚達の放言に泣かされて支持率が急低下したかと思ったら、今回もそろそろ周辺の人物の放言に悩まされ始めたようだ。ただ今回は閣僚ではない。さすがに閣僚は、前回の失敗に懲りたか褌を締めなおしている感があるが、知人・友人がいけない。締め直しが徹底していないのだ、な。

NHK経営委員の長谷川三千子氏が『今上陛下はふたたび現御神(アキツミカミ)となられた』と、まるで明治憲法下、天皇機関説を展開した美濃部達吉に対して天皇主権説、というか皇権神授説を主張した上杉慎吉ばりの意見を述べたかと思うと、百田尚樹氏は『日本軍による南京大虐殺はなかった』と発言した。NHK会長に就任する楺井勝人氏が最初の記者会見で「従軍慰安婦はどこの国にもあったでしょう」と言ってしまい、あとで個人的見解をしゃべってしまったのは遺憾だと弁解したのも「ダイジョブか?」と思わせる行動で、極めてまずいことであろう。

どの人もこの人も安倍総理周辺の人物であるという。前回は「お友達内閣」と揶揄されたものだが、今回はいまのところそうした声は出ていない。しかし、仲のいい知人に名誉ある要職でねぎらう傾向は変わっていないようである。その抜擢された人物達が、個人的意見を公人の立場で発言し、その意見が社会でどのように受けとめられ、どのような印象を形成するか、これらのことを予想する能力を全く欠いているというのは、最終的に安倍総理を支持している人たちの能力、知力、思想に危うさを感じさせるまでに至るだろう。この点、間違いはないと確定的に予想しておこう。

米紙Wall Street Journalは、日本と安倍政権には比較的好意的な立場をとってきているが、こんな記事を載せている。
米国政府にとっての本当の危険は、自らが張子の虎と見られるようになることである。オバマ政権はアジアでの目標をこれまで明確にしてこなかった。それは民主主義と自由主義を促進することなのだろうか。中国の人権侵害に立ち向かっていないこと、他の民主主義国を団結させていないことからすると、それが優先事項の上位にあるとは思えない。中国を抑え込むことだろうか。アジア・ピボット戦略のそもそもの誘発要因は中国の冒険主義を思いとどまらせることにあるということは誰もが知っているが、ワシントンでそれを口にする者などいない。……
…一方、韓国との同盟を除く米国の同盟関係は時代遅れであり、2010年代というよりも1950年代の状況に適合している。以前よりもずっと独断的で威圧的な中国にでさえ、戦争にうんざりしている米国民が怒りを覚えることはほとんどない。軍事力で一方的に国境を変えようとするほど中国はバカではないと思っているからだ。
米アップルの「iPhone(アイフォーン)」が中国で組み立てられていること、中国政府と日本政府で2兆ドル近い米国債を保有していることは誰もが知っている。それでも平均的な米国民は、アジアの安定と平和を維持するために米国人が血を流す価値はない、米国政府が継続的に防衛予算を割く価値すらないかもしれないと考えている。日本や韓国といった豊かな同盟国がどうしてもっと大きな役割を果たさないのかと疑問に感じている。遠くの海にある岩礁をめぐって戦闘するという考えを受け入れることができないのである。
(出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、2014年2月5日

安倍政権は集団的自衛権を憲法上容認する道を開くことを「男子の本懐」としているが、どこと共同して、どこを自衛するのだろうか?韓国との外交関係は最悪である。アメリカもまた日に日に変わっているのだ。アメリカが変われば、豪州もフィリピンも、イギリスもインドも変わるだろう。台湾は最初から尖閣列島という岩礁は台湾の一部だと主張している。

東アジアの近隣諸国が日本に対して歴史問題カードを使い続けるのはシツコイというなら、日本がロシアに対して「北方領土は、幕末以来、日本固有の領土だ」と主張し続けるのもシツコイのではないか。ルーズベルトがスターリンに手形をきったからソ連は対日軍事行動を起こした。そうではなかったか。ロシアにとっても千島領有は宿願であった。であるのに、領有権を日本に渡すか、そもそも?

どれも大問題である。難問である。であるのに、周辺の人物からまた崩れ始めているようである。このダメージはいずれ本丸にも波及するだろう。こんな程度の支持基盤(=保守層)に応えるために自ら靖国参拝をしたのは愚の骨頂であったろう。いまはそんな声が世間に増えている。

小生、現政権はあと3年はもたないとみる。国政選挙はなくとも、支持率が20%を割り込めば、やりたいことは何もできないはずだ。



2014年2月4日火曜日

足元の予測-株価はどうなるか

世界の株式市場が動揺している。日経には以下の記事が載っている。
4日午前の東京株式市場で日経平均株価は一時前日比で500円近く下落し1万4200円台を割り込んだ。米サプライマネジメント協会(ISM)が発表した1月の製造業景況感指数が市場予想を下回ったのを受け、前日の米株式相場が大幅に下落したことが背景。新興国経済の先行き警戒感が強く、投資家が運用リスクを避ける動きも目立つ。1月の米雇用統計など重要指標の発表を控え、日本株の動きは今後どうなるのか。…(以下、コメンテーターの意見)
…発表が本格化している日本企業の決算内容は、長期的な円安・ドル高基調を背景に、おおむね好調だ。日経平均は前日時点で25日移動平均を6%超下回っている。仮に1万3000円台まで下がれば、値ごろ感からの買い戻しが入るだろう。最近の米経済指標の悪化も寒波による一時的な現象とみており、日経平均が1万2000円台に下落することはないと考えている。
(出所)日本経済新聞、2月4日

昨年は年末まで上げに上げた感がある。その反動が年明け後に出ている感じもする。アメリカFRB議長がイェレン新議長に交替したばかりである。前職のバーナンキ議長も就任してから暫くは市場の荒々しい反応に振り回されていた記憶がある。小生は時に閉口して「バーナンキ暴落」と悪口をたたいたものだ。しかし、その前のマエストロ・グリーンスパンも就任直後はブラックマンデーの洗礼を受けているから、金融市場の安定・不安定には相当な程度ヒューマン・ファクターがあるのではないかと推察している。

実際、日本だけの経済状況をみると、総じて経済指標に心配な兆候はない。例によって、景気動向指標の先行・一致・遅行指数を見るのが簡潔だ。
上から先行指数、一致指数、遅行指数のグラフである。最近の大きな落ち込みは2008年秋から2009年春にかけてのリーマン危機であるが、先行指数はそれよりずっと前の2007年後半から下降トレンドに入っていたわけである。そのような意味で変調な動きは、足元では見られていない。

経済の実態は極めて順調である。

ただしかし、先日、将来予測の授業中にこれら3系列のデータをVARで予測したところ、年明け以降は低下に転じるとの計算結果を得たことがあった。上の図をみると、明らかに共和分が存在するので、VAR分析は不適切である。授業では、問題点を含んでいるVAR分析より、ここでは一つずつ切り分けたARIMA分析の結果を信頼することにしましょうと話しておいた。下がその図だ。予測対象は景気の現状を伝える一致指数である。
アメリカの経済シンクタンク"The Conference Board"からは日本の景気動向指数と同様のデータを公表している。直近のPress Releaseは以下のようだ。
The Conference Board Leading Economic Index® (LEI) for the U.S. increased 0.1 percent in December to 99.4 (2004 = 100), following a 1.0 percent increase in November, and a 0.1 percent increase in October. 
“Despite month-to-month volatility in the final quarter of 2013, the U.S. LEI continues to point to gradually strengthening economic conditions through early 2014,” said Ataman Ozyildirim, Economist at The Conference Board. “The LEI was lifted by its financial components in December, but consumer expectations for business conditions and residential construction continue to pose risks.” 
“This latest report suggests steady growth this spring, but some uncertainties remain,” said Ken Goldstein, Economist at The Conference Board. “Business caution and concern about unresolved federal budget battles persist, but the better-than-expected holiday season might point to sustained stronger demand and could put the U.S on a faster growth track for 2014.”
Source: The Conference Board, Global Business Cycle Indicators


コマーシャルではないが「もっと良くなる、ずっと良くなる」という見通しである。確かに新興国の資金繰りが心配されてはいるが、世界の株式市場で不安心理が共振運動を起こしている面もある。いずれ単なる不安であることがわかり、市場はノーマルな状態に復帰すると予想する。






2014年2月2日日曜日

道具へのこだわり

投稿の頻度が下がって、しょっちゅう「日曜日の話し」とヘッダーをつけるのも煩わしくなった。立春も近くキリがいいので、もう「日曜日○×▲」と言うのは止めよう。

昨日は卒年次生による最終発表会で朝から夕方までコメントを記述し、今日は入試の試験監督で昼まで教室にはりついた。流石に少し休憩したくなり、今日できる仕事を明日にのばして宅に帰ってきた。齢のせいか、毎日の仕事量のバランスに以前より気をつかうようになってきた。

齢のせいと書いたが、いくつになってもこだわり続け、容易なことでは妥協したくないものもある。若い頃はカバンであった。何を買っても一長一短で、自然と次々に買う。それでも一番気に入った奴はクタクタになるまで持ち続け『喜びも悲しみも幾年月』の10年を過ごしたものだ。今では我が家のプライベート「記念品博物館」に収納されている。今日一緒に監督をした同僚は、履いていった冬靴に気がついて誉めてくれたが、小生このところ靴に開眼したというか、靴を選ぶ目ができてきたのである。

これまではリーガルでも買っておけば心配ないだろう位に思って、無関心のままずっと暮らしてきたが、だんだん長く歩いて疲れない靴が欲しくなってきた。それで昨年は、登山靴メーカーであるCARAVANが作っている「蒼」を3万円で買った。それを履いて福島の学会に出かけ会津若松の市内を歩き回ったのだが、予想以上に安定感があって、いくらでも歩けるのだな。靴は単なる道具ではなく身体の一部になることを知った次第だ。これがきっかけになって、メーカーごとの製品、足のサイズとの相性をずいぶん調べまくった。今日履いた冬靴は、やはりキャラバンから出ているスノー・キャラバンの"SHC-1"である。春が来たらレッドウィングのセッターを買うか、ビジネス用途優先からリーガルのウィングチップ・ブーツ"rgl-60cr"にするか、少しカネを出してTrickersを買うか、迷っている所だ。

「カバンばっかり買うかと思ったら、今度はクツばっかり買うようになってと、カミさんからは呆れられてますよ」
「ハハハ、男なんてそんなものですよ」

「弘法は筆を選ばず」というが、道具を選ぶことによって、結果もまた自然に違うし、疲労度も違う。この最後の点が非常に重要なのだ、な。我が身を愛おしく感じるのと同じ気持ちを道具に対してもつ。確かにそういう時は誰にでもあるのではないだろうか。

× × ×

静物画という領域を開拓したのは18世紀のフランス人画家・シャルダンだ。高校生の頃は見てもつまらない人だと思っていたが、「シャルダン?知っているよ」と、独自にしてユニークな芸術家であることは、画集や雑誌をみて知っていた。「静物」というと敷居が高いイメージだが、要はモノであり、道具のことだ。


Jean-Baptiste-Simeon Chardin, Still Life of Fruit and a Glass, 1759
Source: Chardin - The Complete Works

昔から不思議に思っていたが、果物も「静物」なのである。これはおかしい。果物も生命から生まれたものだからだ。果物が静物なら、花も静物であるはずだ……、しかし花は静物とはいわんだろう…と、そんな屁理屈をずっと昔にこねたような記憶もよみがえってきた。

ただモノであれ、道具であれ、愛情を持っていなければ絵に描き残そうという心理にはなるまい。ただきれいな、きれいであるだけが取り柄の風景をみても手間ひまをかけて絵に描きたいと思わないように、道具にせよ、モノにせよ、きれいであるばかりでなく、そこには人間の涙や追憶や温もりがなければ表現の対象にはなりえない。

その意味では、何も語らない物質(だから静物なのかもしれないが)が描かれてはいるのだが、表現されているのは、その近くの人間たちへの思いである。