言うまでもなく日本という国に墓の作り方に関する伝統はない。伝統があるのは武士や公家、地主などの富裕層である。だから、幕末というそれほどの昔ではない過去に遡ってすら、先祖の墓の所在がよく分からないというケースは実に多い。昔は「▲▲家之墓」などという文字を刻した石など普通は建ててはいなかったし、個人別に小さな墓石が置かれていればマシであったのだ。
アンケートの結果の細かい数字は忘れてしまったが、男性の場合は「実家の墓に入る」、「夫婦で新しいお墓をつくる」というのが大半を占めていたように覚えている。おそらく前者は長男であり、後者は次三男の人であろう。では女性はどうかというと、「夫の実家の墓に入る」という希望はほとんどなく、「実家の墓に入る」、「夫婦で新しい墓をつくる」、「友人と一緒の墓に入る」、「墓には入りたくない」等々という多くの選択肢にばらついていたのが目をひいた。
回答がばらつくというのは、簡単にいえば社会的に定着している合意がない、というか以前の合意が崩壊してきていることの反映だろうと思う-妻は夫の実家の墓に入るか(長男)、新しく分家として墓を建立するというのが常識だったから。
話しだけをきくと、現代の女性の身勝手な願望にあきれ果てる人も多いだろう。しかし、そうではないと気がついた。
☓ ☓ ☓
女性が嫁いだあと、嫁ぎ先で自分の入る墓が与えられるか、つくるかではなく、育った実家の墓に入りたいと自ら思っているなら、婚家先に既にいない小姑(古イ言葉デアル)たちも、いずれ戻ってきて婚家先の墓に入るであろうと予想される。そうなると、実家の墓に入るのは夫、夫の親、夫の兄弟(次三男まで実家の墓に入るとすれば)、姉妹たち、つまり夫の血族であって、他人である自分は極めて肩身が-死後の世界に「肩身」などがあるかどうか分からないが-狭いと予想せざるをえない。それは嫌だ。自分は実家の墓に入る。自分が入れば、そして兄弟姉妹も入れば、実家にいる兄の嫁の居心地が悪くなるとしても、仕方がない。嫌なら育った実家の墓に戻ればいい……、こんなドミノ・ゲームが進んでいるのだろう。
ずっと昔は、「墓というのはタテに入る」。そういう原則が確立していた。祖父母、長男夫婦、そのまた長男夫婦、という具合にだ。だから、一つの墓に入っているのは、直系男性親族が半分、あとの半分は外から嫁いできて家を継承する次世代を育て、家族を支えてくれた代々の妻たちである。日本の墓は、家族親族が一緒に仲良く入る死後の空間ではなく、世代をタテに継承していくための家制度のシンボルであったわけだ。そして何世代もの永い間、それは見事に機能してきたのだ。
☓ ☓ ☓
いま「▲▲家」や「〇〇家」から成る家制度は急速に崩壊している。というか、崩壊しつくした感がある。それとともに家の墓がもつ意味が変わってきた。家の墓は、懐かしい家族が最後に暮らす空間になってきた。その代償として、いわゆる「嫁」と呼ばれる女性が死後に安住するべき空間がなくなった。「嫁」は所詮は他人である。いや、嫁という言葉すら死語と化しつつある。息子の妻は、いつ他人に戻るかもしれない仮の縁でしかないのである。仮の縁で一緒に生きた人と未来永劫ずっと死後の世界をともにするのは嫌だ。悔いのない人生など、塩気のない海に似ているが、死と同時に現世の縁を悔いることが予約されているような人生観かもしれない。それでも心情は想像できる。
だから死後の在り方についても合意や常識は崩れ、個人個人が随意に選んでいる。違いがあるのは、選択範囲が多い証拠であるから、人々の満足は高まっているのだという経済学の理屈をここで当てはめてよいかどうか、小生には分からない。より高い満足ではなく、不安と迷いの現れと言われれば、そんな気がする。
小生のカミさんがかかったインフルエンザも峠をこして、今日などは布団から抜け出してきて、ソチ五輪を観たりしている。
小生: 毎週リハビリ、時々病気。これって何かのドラマのサブタイトルになりそうだね。
カミさん: もう、大変だったんだよ。でも、よくうつらなかったねえ。
小生: プロポリスのうがいと、板藍茶のお蔭だろうな。こんな書き出しの本があったら読みたくなるよ、『会社を辞めてから毎週リハビリ、時々病気といった暮らしぶりだったが、昨日は運悪く角を曲がってきた車にはねられて怪我をした』、…どう?思わず読みたくなるよね。
カミさん: 一度、お祓いにでも行こうかなあ。
小生: 航海安全の住吉神社にでもいくか。
死んでから残るのは骨だけだ。もしも魂があったとしても、魂は天に向かうだろう。墓は、死んだ当人の都合ではなくて、自分のあとに生きる次世代が仲良く暮らしていくための仕掛けである。子供たちが最も好都合なように親の墓を決めればよい。実際、日本のお墓はそんな風に現役世代が便利であるように決められてきた。それでいいと思う。自分の死後はこうしてくれなどと、次世代に最後のお願いをするのは、やりすぎというものだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿