広重の浮世絵「東海道五十三次」の中の蒲原雪景は切手にもなっている名作である。
歌川広重、「東海道五十三次絵‐蒲原」、1833年(天保4年)頃
(出所)浮世絵検索
しかしながら、蒲原といえば温暖な静岡県にある村である。その蒲原が、上の絵のように大雪に埋没することがあるのか。これは広重の想像を描いた絵ではないのか。そんな不審もあるのだな。
ちょっと気になって調べてみると、正にこの雪景色はありのままの写生ではないとしても、実体験に基づいたイメージではないかと思うようになった。
というのは、上の絵が制作された天保年間という期間だが、江戸時代の中でも大変寒い期間であったことが知られている。江戸4大飢饉は、寛永・享保・天明・天保の4回の凶作を指す言葉で、特に1833年から37年まで続いた天保の大飢饉の原因は寒冷のための不作だった。更に、大飢饉が過ぎ去った頃にあたる1842年(天保12年)1月28日の大雪は江戸の町を真っ白にして、「大雪三尺」と形容されている。三尺といえば90センチである。今回の大雪はせいぜいが20数センチである。上には上があるのである。
茨城県にある古河藩主・土井利位が雪の研究『雪華図説』を著したのは1832年(天保3年)前後のことである。冬季の雪が少ないとされる茨城県古河市で雪の結晶を継続して研究できる気象であったのが天保年間なのだ。
歌川広重の名作「蒲原」は彼自身がみた雪景色を、実際に歩いた蒲原宿に重ねて作ったイメージなのであろう。単なる想像の産物ではないと思われる。
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