2014年2月14日金曜日

メモー「歴史」は過去のことなのか?

『過ぎたことをあれこれ言っても仕方がない』、日本の井戸端会議では頻繁に口にされる台詞だ。人の噂も七十五日、覆水盆にかえらず、これらも大体同じ趣旨である。こんな議論をそのまま延長すれば、「歴史問題」をいつまでたっても蒸し返す感覚にはついていけない、と。こういう反応になってくる。

訪韓した米・ケリー国務長官も発言しているそうだ。
韓国の尹炳世ユンビョンセ外交相と会談したケリー氏は共同記者会見で、「韓国と日本は歴史問題を克服し、関係を進展させるべきだ」と述べ、日韓両国に関係改善を強く促した。さらに、「過去より現在がもっと重要だ。(核開発を進める)北朝鮮の脅威など、現代の多くの人々の命がかかる安保問題に焦点を合わせるべきだ」と訴えた。
 また、「米国は、(日韓という)二つの同盟国が歴史問題を後回しにし、関係を改善する方法を見つける手助けをする」と米政府が関係改善の仲介役となる意向も表明した上で、「(4月に歴訪する)大統領が仲裁する形になってはならない」と早期決着を訴えた。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2013-2-14

「過去より現在が重要だ」というのはその通りだが、しかし、過去の一連の事実、一つの時代をどのように考えるかという議論は、いま行われているか、あるいは今後将来行うべき議論なのだから、過ぎたことではない。過ぎた問題とは<解決済み>の問題を指す。相手がいれば双方が<解決済み>だと同意しなければならない。一方が新たな論点を提出すれば再び<未解決>に戻る理屈だ。そうなれば、いま解決するべき問題となり、何も過ぎ去った問題ではなくなる。解決が求められるわけだ。

このことは何も著名な英人歴史家・E.H.カーの名言『歴史とは現在と過去との対話である』を思い出すまでもないほど明らかであって、いま生きて話しをしているのは現在の人間たちである以上、歴史は現在において作られつつあるのであり、である以上は現在のことである。それに自分はどう参加して、議論するのか。過ぎたことを意味なく「蒸し返している」のではない。歴史とはそもそもそういうものである。ここがポイントなのだ、な。

☓ ☓ ☓

足を踏んでおいてから、踏んだ方が『うっかり踏んでしまいましたが、これはバスが揺れたのと、あなたが私のすぐ後ろにいたためです。しかし過ぎたことであり、今さら踏まなかったことにすることもできません。だから故意に踏んだとか、注意をすれば踏まずにすんだとか、そんな話しはせず、さっと水に流しましょう』と言えば、おそらく踏まれた方は憤激して、踏んだ相手に殴りかかるだろう。それに値する程の無礼をはたらいているわけである。踏まれた側の痛みは実質として存在する。その痛みと自分との関連を考えることがポイントである時に、どう言おうと済んだことですよねと言えば、五無主義ではないが無作法、無遠慮である。相手が腹をたてて進行する紛争は、過去の事柄が遠因になってはいるが、直接的な近因は起こった状況をどう認識するかにある。だからこの紛争もミニサイズの歴史問題であって、根底にはパーセプション・ギャップがあり、いま解決されなければならないのだ。

「歴史問題」を過去の問題として議論しないのは現状認識として間違っている。また、議論を回避するのが一つの戦略であるとしても、何を目的とした最適な戦略であるのか、常に自らが理解していることが大切だ。そこには自己利益・共同利益の裏付けがなければならない。

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