イスラム教は、そもそもキリスト教の分派でもあるわけで、キリスト教を国教としていた中世ビザンティン帝国の宗教政策上の失敗に遠因があるとも言われている。
ただ、今日はその話題ではなく単なるメモである。
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仏教では「神」という呼称はない。しかし日本の神道では多数の神がいる。それらの神は、仏教上の至高の存在である「仏」がとりうる多くの形のいくつかであるとイメージされている(ようだ)。現在では採用されていないが、聖徳太子以来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説というか、神仏習合論であり、こちらが寧ろ日本文化の伝統には沿っている。
今朝、はっきり目が覚める前に思ったのだが、仏教には阿弥陀如来や大日如来、釈迦如来など多くの如来がいる。年を重ねるにつれて、阿弥陀如来の名号をとなえる他力思想に共感を覚えるようになったが、阿弥陀信仰は唯一の神を信仰する一神教ではない。なぜなら、他の多くの如来が同じ仏教で信仰されているからであり、異なる名称をもった多くの如来的存在が本質的には同一の神であるとは議論されていないからだ。
しかし、多様な存在を認める以上は、その統一性というか、整合性というか、更にその上位にある<如来性>を象徴する存在を考えないと議論はまとまらないと思うのだな。どうも仕事上、常に<公理>から出発しているので、そんな考え方が癖になっている。
最近の小生に近しい<阿弥陀如来>も、一つの如来的存在であって、すべての如来に共通する如来的な本質だけを具有した存在を認めなければならない。そう考えてしまうのだ。このロジックは、すべての宗教的議論に包括的に適用される。
なので、教理には全くの素人であるが、すべての宗教は究極的には唯一の神を想定しないと理論化できないと。すべて宗教は同じ一神教として見ないとおかしい。今朝、そう思ったのだ、な。
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この理屈でいえば、すべての宗教は究極的には<神>自体を信仰している点は変わらないわけで、信仰自体は同じである。内容の違いはすべて民族的なもの、歴史的な原因によるものだ。つまり、人間的な原因である。信仰する神が異なるために、宗教上の対立が生まれ、紛争に至ることはない。
宗教的な対立は、信仰自体によるものではなく、学説の違い、手順の違い、儀式の違い、歴史の違い等々、宗教エリートの権力闘争になるわけで、つまり政治の問題である。そして政治問題の原因の多くは経済にあるといわれるから、結局は経済政策になるのかもしれない。
神々の問題も、根底にはカネや損得の問題があるというと堕落した見方かもしれないが、案外、本筋かもしれない。
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