とはいえ、金の問題はいざしらず、『団扇を配ることのどこが悪い?』という反論に類似した抗弁はとても多い。法の理屈は明快だ。有価物を配るのはダメだということだ。鉛筆はダメ(なのだろう)、メモ用紙も1枚や2枚はともかく、1冊はダメかもしれない(と思う)。お茶もだめなのか…?つまり、法律専門家でなければ、どこまでが常識の範囲で、どこから先が違法なのか定かではない。故に、選挙活動の是非は「専門家」の世界なのである。
しかし、そもそも「選挙」というのは本来、「専門家主義」とは正反対の立場から実施されるものではないのか。人種によらず、性別によらず、出身によらず、学歴によらず、職業によらず、個々人の信念やライフスタイルが本来は自然に発露されるよう、なるべく広範囲の自由を認めておくべきだという意見は当然あっておかしくはない。
それを「柄がついていれば団扇、ついていなければ団扇ではない」と、こんなことで候補者を裁いてもいいの?やっぱり本質的な疑問になるのではないか。ま、笑止な話なのだなあ。法律家が「団扇」を定義できる資格があるわけでもなく、こんな議論をしていると段々バカになるのじゃあないかと心配になってくる……。
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近現代の歴史について読書するのが割と好きな方だが、『満州事変は自衛権の発動であり、満州国樹立は中国内部の分離運動によるものであるとの日本側の主張を、(国際)連盟に了解させるよう努めるべきであると考えていたのである』。これはいま読んでいる『昭和陸軍全史(1)』(川田稔)の一節で、陸軍・中堅幕僚のホープであった永田鉄山の見解を述べた箇所である。前後にある書簡などを併せて考えると、大体そうなのだろうと説得力のある所でもある。
満州事変が自衛権の発動なら、日華事変も自衛権の発動であり、その後もすべて自存自衛のために行った戦いであることになるだろう。いまなお類似の意見を述べる政治家は多くいるように感じる。当然「右翼」である。
ま、要するに1930年代以降の昭和陸軍の特徴は、『自分たちが悪いと相手が言うのは相手が間違っているためだ』という思考パターンなのだ、な。自分たちの信念が世界の非常識であることに気がつかなければ、子供のワガママと同じことを絶対に正しいと思い込んでやってしまう。そんな好例である。
小生の亡父は軍事教練を経験した世代で、「天皇」に対するホンネの心情も「帝国軍人」の表も裏もよく見聞きしていた風であったが、「陸軍は大人数で力をふるうが井の中のかわず」、「海軍は外国をよく知っているが声が通らない」。いまや常識になっている台詞だが、結局は最も頻繁に引き合いに出されてきた物言いが、実は(やっぱり)最もよく真実をついているとらえ方なのだと、読後感というか読中感というか、改めて感じているのだ。
やはり己の信念と矛盾するのでなければ、世間の常識とは良い関係を維持するのが合理的である。
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