2014年12月28日日曜日

ブレないことの戦略的価値と「国益」の価値

昨日は、本当に久方ぶりに隣町のコンサートホールに出かけていって尾高忠明指揮・札響の『第九』を聴いてきた。


朝の余りの大雪に地下鉄を降りてからホールまで歩いていけるのかと少々心配であったが、上の写真の通り、ホールのある公園内は綺麗に除雪されていて、大変気持ちがよかった。開演は午後2時である。

久しぶりにきく地元の交響楽団だが、ズバリ、見直したというか、驚いた。以下、楽章ごとの感想だ。
第1楽章: こんなに底力があったか?底光りのする響きになってるなあ・・・
第2楽章: 切れがよくなってるねえ。技量、あがったなあ・・・
第3楽章: もっと天国的で優艶な調べにしないと最終楽章が盛り上がらないヨ
第4楽章: パワーがこもっている。磨きに磨きましたねえ・・・

率直に言って脱帽しました。これから定期演奏会には聴きにいくかな。そう思いました。

× × ×

開場早々ワインを注文して、ソファに腰を下ろし、最近読みふけっている川田稔『昭和陸軍全史』の第2巻『日中戦争』をKindleで読み続けた — これから聴こうという楽曲の思想と全く主旨を異にしている点、あきれ果てるのだが。

読みながら考えたのは、「国益」ということと「ブレない」こととの関係だ。そもそも、小生、ずっと「ブレない」ことが大事だと言う意見にはいつも首をかしげてきたのだな。むしろ変化する情況に置かれた人間なり、組織は、与えられた情況の下でいかにして最も合理的な行動をとるか。それが大事である以上、変化する世界の中で行動方針を変更するのは当たり前である。そのどこが間違っているのか。そう思ってきたのだ。いわば「理論」にとらわれていたのだな。

ところが、ぶれない経営が価値の源泉になる。先日、そんな議論をしてから、目から鱗が落ちるように見方が変わってきた。すべて戦略とは、今後将来の行動計画のことである。そして戦略が定まるには理念・目的が決まっていなければならない。一定の理念と目的からスタートする以上、今の行動がどうあろうと、発言がどうであろうと、最終的な目的は変わらないはずである。戦略は変わらないはずである。変わるとすれば、変化する情況の中で展開する戦術だけである。ブレない企業は、経営理念に迷いがないので、その理念に共感し支持する人は継続的に安心して投資する。その結果、低い資本コストで資金が調達できる。ブレる企業は「分からない企業だ」と見られる分、資本コストが上昇し、そこに競争上の優劣が生まれる。そんな議論をしたのだ。

逆に考えると、特定の理念、目標に束縛されない「柔軟な」姿勢を保つと、その時々の条件の下で利益・国益を最大化する政策をとりうることになる。しかし、このような行動方針は、結局は「機会主義」になるのであり、変化する情況の中で次は何をするか外からは見えにくい。そんな組織的行動とならざるをえない。つまり信頼されない。そういうことなのだろうと考えるようになったのだ、な。

そんな目で『陸軍全史』を読んでいると、1920年代から30年代にかけて、何が時代のキーワードであったかといえば「グローバルな構造変化」である。その変化の中で、帝国陸軍は国益を守り自存自衛の必勝態勢を築くことを政策目標とした。これ自体は国益と合致している。そんな議論なのだが、これは原敬以来の政党内閣が目指してきた英米協調路線とは全く異なる。その意味では、「昭和陸軍」は国内でも国外でも「革新」を支持し「新体制」に共感したわけであり、そうすることで「国家改造」を目指していった。であるが故に、必然的に大日本帝国の理念と目標がブレ、対外的信頼性が毀損されることで政治資源を失い、現実に認められる中国の頑強な抗日姿勢とも融和できず、最終的には不利な戦争を余儀なく選ぶという結末に至った。

簡単に言えば、使い古された表現だが、一貫性がなく、機会主義的であった。大戦略なき戦略。それを立派な戦略と思い込んだ。そう思ったわけだ。そして更にその根本的原因を探ると、そもそも戦前期・日本は広く国民の幸福を増進するために出来た国ではなかった。上(=国と官)に下(=地方と民)が従う非民主主義国家であった。この点を無視することはできない。「幸福」に基礎を置かずに「国益」を求めれば、国防やGDPが国家目標になるだろう。ということはだね…、国益が幸福より優先された遠因として「資本主義」をあげることは、他にも資本主義国が多数あった以上、できない。生活を犠牲にして国の利益を求めることができた主因は、資本主義ではなく、「上」が「下」を抑える戦前期・日本の「国体」そのものが、民主的ではなかったからだ。この点こそが原因か……

そんな感想 −どうも「戦後知識人的見解」になってしまうので意外感を感じつつあるのだが − ホールの壁際のソファに座って、あれこれと思いをめぐらせながら、歳末の『第9』開演をまったわけだ。

☓ ☓ ☓

【追記】 好き好きだけでいえば、小生、同じベートーベンの交響曲なら第3番のエロイカの方が圧倒的に好きである。かつ、歳末に聴く楽曲としてもエロイカには明瞭で壮大なストーリー性があるので、好適ではないかと思案している、というより以前から歳末のエロイカ演奏を熱望しているのだ。ま、そんな世の流行に逆行するようなプログラムを組む楽団は今後も現れないであろうが。やはり第2楽章の葬送行進曲かねえ、ネックになるのは。全体としては偉大なる不死と復活のイメージなのだが。

で、やはり聞きたくなってAmazonで買ったトスカニーニを聴くと、さすがに「これは違う」とー フルベンが手に入ると思ったのだが、検索で出てこないのだなあ。おかしい。ところが探すと、"All Time Greatest Hits"というアルバムが見つかったのだが、これが往年の隠れた名指揮者Carl Schurichtの名演集であった。新年早々のお宝発見となった次第。


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