2014年12月13日土曜日

「少数の軍国主義者」が実は純粋で正義感にあふれた好人物だったらどうする?

中国の習主席が南京事件の追悼式典で演説をしたそうである。
習主席は演説で「30万人虐殺の事実の否定を13億の中国人民は受け入れない」と主張。同時に「中日両国人民は世代を超えて友好を続けていくべきだ。我々は少数の軍国主義者が引き起こした侵略戦争により、その民族を仇(かたき)として敵視すべきではない。戦争の罪と責任は少数の軍国主義者にあり、一般民衆にはない」とも強調した。
(出所)日本経済新聞、2014-12-13-12-57

南京事件の在り様については数多くの事実と憶測が提出されていて、事実か憶測かの線引きにも数多くの違いが残されたままだ。

とはいえ、上の演説は全うなものだと思う。特に「少数の軍国主義者」が引き起こした戦争という事実認識については、これまた多くの議論があるわけだが、詰まる所、この認識に間違いはない。調べれば調べる程、そう思うのだな。というより、「少数の軍国主義者」は決して日本の陸海軍で伝統的に主流であり続けた勢力ではない。

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戦前期日本の迷走が1931年の満州事変から始まったという点は専門家も含めて大体合意されつつあるのではないだろうか。

大正期の1910年代から1920年代を通して、日本の政治は明治藩閥・元老から政党へとリーダーシップの所在がシフトしていった。身分格差、資産格差、所得格差を別にして、大きな流れとしては「民主化」が進んだと(小生には)思われる。外交は政治家が行うべきものとされ、まずは国際協調、対英米協調路線が支配的だったと(これも小生には)思われる。

しかしながら『対米追従ではいかん』、『腐った上層部の言うことなど当てにはできん』という純粋な青年は、文字どおり、いつの時代もいるものである。そんな若者に世間は共感するものだ。

そんな若手を直接の部下にもつ中堅管理層も自己利益追求とは無縁の若者達が醸し出す熱気に打たれるものである。

とはいえ、組織的意思決定は最高責任者の判断によって形成されるべきであるし、そうでなければ組織としては機能しない。政治はいつでも人間の生身にも似て汚れ、邪念にまみれ、不潔なものである。純粋な愛国心では政治はできない。

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警察ドラマでは、大体が係長がまとめ役になり、数人の部下と部長、課長との板挟みになることが多い。出先の所轄を統括する本庁から人が来て『もうこの辺でやめろ』というと、現場の若手が『上からの指示ですか?』と反発するのが常である。

このような情景が、1930年代の陸軍省・参謀本部と出先の関東軍や支那派遣軍との間で何度も繰り返されたに違いない。というか、確認されている事実だ。

しかし、近代軍隊は(警察も検察もそうだが)政府と切り離されて存在はしえない。そして(民主主義国においては)全て行政は政治に従うべきものである(のが理屈だ)。行政機構が政治に優越することがあってはならない(のが理屈だ)。多くの人は反対するかもしれないが、小生はそう思っているのだな。

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後になってみれば、上からの組織統制をしっかりとやっていれば出先の暴走はなく、日中戦争の泥沼もなく、対米関係の決定的悪化もなかったかもしれない。そんな後知恵もあるのだが、これって『たとえ腐った上層部であっても上の指示には従え」と、純粋で一途な部下にそう言えと。普通の日本人には「そんなことでいいのか」と、納得できない面もあるのだろうが、「止めろ」と言うべき時に「止めろ」と言う。指示に従わない純粋な部下がいれば、規律違反として直ちに懲戒する。これがあるべき姿であった、と。

実は当たり前のこのことが情に流されて出来なかった。戦前期の失敗と犠牲から得た貴重な学習はここにある。最近何度も思った感想はこんなことである。

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