2015年4月10日金曜日

ああ、老いも自然でありたいものだ

小生が東京で小役人をやっている頃に「長寿社会」という言葉が流行し始めた。一時の間、広報誌の編集長をやっていて、巻頭座談会に掲載する写真を自ら撮影するため都内を放浪していたのが、今では懐かしい。ある号の座談会のテーマが正に長寿社会だった。それに合わせた写真を小生は公園のベンチを撮った風景にしたのだ。そうしたところ、いやあ怒られました、その部署のトップだったOBに。『齢をとったら公園のベンチに座ってろということか!』と。なぜそんなに怒るのか、何を威張っているのかと、若い小生には怒っているOBの心情が理解できなかった。が、今になると、まあ分からないこともない。そんな風に思うようになった。

しかし、これは個人個人でまったくバラバラなのだろうが、齢をとって公園のベンチに座って、近隣の風景を眺めながら、時間を過ごす。いいではないか。個人的には好きなのだな。やっぱりそんな風に年老いたあとは時間を過ごしたく思う。

老人が孤独に陥らないように地域社会が手をつなぎあって協力しようではないか。分からないでもないが、何か社会的正義をまず先に確立して、その正義にかなった行動を若者世代に要請するという政治哲学は小生は大変嫌いである。その果てに太平洋戦争に黙って出征した学徒兵がいるのだと思っている。

大体、そもそも「正義」というのははじめは誰かの「単なる意見」である。無数の意見が離合集散しているうちはいいが、ランダムな要因からある考え方が核となり、自己組織化されてしまうと、単なる意見であったものが社会的な「正義」となり、「権力」となり、人に対して強制力を発揮するようになる。ま、小生はそんな風に「正義」の生成プロセスを考えている。

話を戻そう・・・

自然でよい。そう思っている。いかにそれが不平等であろうと、いかにそれが淋しそうであろうと、それが年齢相応の過ごし方であれば、それが生物自然の道である。自然の道が神意にそっている。哲学らしきものを小生はもっていないが、持っているとすれば、こんな希望くらいだ。

今日、ノートPCの雑多なファイルを整理しているとバイロンの詩を写した画像がみつかった。


どこで手に入れたのか…、これは『チャイルド・ハロルドの巡礼』の中の一句だろう。『ああ、人工の巧にてその途汚さざる処、あらき姿に自然は最も美なりけり』。

人の手が入ったり、人の考えが入れば、必然的にレベルは落ちるのだ。いいねえ。その通りだ。ありのままの自然に人の尊厳もあり、神が定めるからこそ天寿は神聖なのである。そう思いませぬか。『この世界は、本来、諸行無常。それが真なら、明日をも知れぬ身となって、そこで生きて死ぬのが我が定め。そうは思わぬか、おぬし』。こんな台詞をどこかで使いたかったねえ。

自然の全ての物、現象に神聖を感じる。汎神論的なロマン主義である。ロマン主義でありながら、神聖であるはずの現実を写実する自然主義にも根が通じているというのは正に逆説的である。教会という宗教法人から自然の中に神をみる意識転換があったあと、やがて神は存在せず、人間が人間社会を改善していくしかないという人間が現れる。それが思想となって影響を与える。当局や責任という言葉が頻りに使われるようになる。改良を目指す社会主義はすぐそこにある。窮極的な共産主義と全体主義への共感の芽がそこにある。人間社会は有為転変。風に漂う凧のようでどこにでも行く。

とはいえ、老いたあと時間をどう過ごすかは自分で決めたいものである。神から頂戴した理性と感情でそうしたいと思うなら、たとえ社会がどんな人為的な政策をとろうと、その人の意志が優越すると見るべきである。過激ですかねえ…これは。法治主義に違反するかねえ…、これは。

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