2015年4月14日火曜日

安倍政権:時代錯誤の妄言の一例

保守と右翼は本質的に意味の違った言葉であるし、まして日本の極右は国家改造を目指しているうえでは共産主義にも類似したいわゆる過激派である。違いは方向性だけである。

今日書こうと思っていることは本日の日経が社説にしていたので書くことがなくなった。
国立大学でも入学式の国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけようという総理と文科相の国会答弁である。
 しかし学習指導要領に定めがある初等中等教育と、大学とは根本的に違う。大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。(中略)
大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。
そもそも天皇絶対の古代政権下の和歌に歌詞が由来し、旧幕時代の大奥で歌い継がれてきた君が代は現行憲法下の国歌にふさわしくない。ま、そんな議論は置くとして、非生産的なコントロールはただですら周回遅れの日本の大学全体のパフォーマンスを更に低下させるだけである。上層部に上がれば上がるほど、そこにいる人の中身は空ッポになるのが、日本の昔からの伝統であるとしても、『〽情けなきこと涙コボルル』という感覚は、民主党政権以来久しぶりのことであった。

大体、学習指導要領・・・、あれは何なんだろうね。もちろん義務教育には一定の必修的要素があるべきで、これは当たり前だ。とはいえ、教える内容と教え方まで全部決めることはないだろう。ま、常識的には5割を必修・検定付き。あとの5割は指導要領や教科書検定もいらない自由授業とするべきである、な。

半分も自由科目としたら日本国民の知的水準が低下する、はたまた反社会的な内容が教えられるのではないかという、そんな心配はご無用だ。普通の人は役に立たないことは勉強したくないものだ。反社会的な事柄を最初から勉強しても損である。真に自分の力になることを学びたいはずなのだ。故に、学習指導要領の運用範囲を半分にすれば、日本人の知的水準や創造力はまず確実に高まるはずである。良い結果を出してこそ税金が生きるというものだ。無駄に使っちゃあ、またまた『〽情けなきこと涙コボルル』だ。

そういう戦略の下で、学校組織を最適化し、最適化された学校に適した教員スタッフを任用・配置する・・・というのがマネジメント専門家なら誰でも語るはずの常識だ。

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