2018年2月4日日曜日

一言メモ: 世間は実は「官僚主義」を願っている??

最近の「第2次貴の乱」にとどまらない。企業の不正経理、不祥事が発生するたびに外部第三者の視点を入れるべきであることが強調される。

確かに組織管理(=経営)の現場において組織外の人材の視点は以前よりも濃厚に反映されるようになっている。この事情は大学運営においても同じである。

***

ただ、思うのだが、企業が外部取締役の役割を以前よりも尊重するようになったのは誰の利益を重視しているのだろうか?

この問いかけに対しては「それは企業の所有者たる株主の利益を重要視するからにほかならない」という回答になる(はずだ)。

企業の所有者である<株主>と現に業務に従事している<経営執行部+従業員>は典型的なプリンシパル・エージェント問題である。なので、現に働いている経営執行部か従業員の側のいずれか、あるいは双方にモラルハザードが発生し、所有者の利益を毀損する確率が高い。

第三者によるモニタリングは所有者である株主の利益を守るためである。組織内部の現場を構成する経営執行部や従業員の利益を守るために第三者を入れるというのは、そもそもロジックからしてありえないことである。労使協調路線を徹底すれば、組織内部においてローカルな最適解が必ず見つかるものである。

***

外部取締役の視点を経営現場に入れることによって、株主への利益配分が増え、従業員への配分が減るというのは、組織管理の基本ロジックを思い出せば当然の結果である。

最近は、このような結果は問題であり、任命されている外部第三者が果たしつつある役割が不十分であるという指摘が増えている。

もし企業内部において、利益と賃金との所得配分の理念を変更しようとすれば、

  1. 従業員代表がボード(=取締役会)の構成員となる。
  2. 株主ではなく社会の利益を代表する外部委員がボードの構成員となる。
  3. 株主利益の視点から経営をモニタリングする外部取締役をボードから外す。

これらの方策がありうる。

最後の選択肢<3>は以前の状態に戻すというものである。しかし、当該組織の運営を当事者だけに委任するという方式はもはや世間が受け入れないかもしれない。

最初の方策<1>は(例えば)ドイツが採っている「従業員代表制度」が近い。ただ、経営意思決定への参画の度合いは様々であって、参画の度合いが高くなれば、最後の選択肢とどこが違うか区別できなくなる。

方策<2>は、(ある意味で)利害関係のない「世間代表」。学問的用語を使えば「公益代表委員」をボードの構成員とする案である。これは、しかし、たとえば中国の企業内部に共産党の支部組織を設置し、経営判断においては<自分達(=会社)だけで決めず>党(=社会)の意向を尊重せよという、いま習近平政権が推進している方向とどこが違うのだろうか。そんな疑問を感じる。

***

いずれにせよ、「世間の目を意識せよ、社会的な利益を尊重して組織を運営せよ」という世間の要求は、自由市場においては既に実現しているはずのことである点を忘れるべきではない。許容できない(という事実が明らかになった)企業の商品・サービスは購入しなければ、その企業は存続できないのである。その意味で、自浄機能が備わっているのであって、自由市場経済の下では「顧客が社会を決めている」と言ってもよい。

社会的な利益を意識させるために、その組織の意思決定の場に「世間(=公益、社会)」を代表する人材を送り込む。この方式こそ、いま共産党国家・中国の指導者が最も力を入れている政策である。これは結構重要なポイントではないだろうか。

***

相撲の話に戻るが、もし「大日本相撲協会(当時の呼称)」の下に(よくいえば)統合化された大正15年(1925年)以前のように、相撲界が「一門」という多くのグループに分かれ、群雄割拠し、互いに競争している状態であれば、いわゆる「暴力体質」が露見した一門の巡業からはファンが離れ、その一門は資金が枯渇し、多人数の関取を維持することができなくなるので、本場所に出場しても好成績を収めることが困難になるだろう。こうして角界には自浄機能が働く。

相撲興行を自由開催から日本相撲協会による独占的活動にしたのは、マア「伝統文化」を守るためであったと言えば聞こえは良いが、要するに独占化することによる利益拡大と、更に1920年代の思想の潮流として見落とせない<国家社会化>への志向が色濃く反映していた、これらの点は忘れてはならないと思われる。

***

その相撲協会には既に危機管理などで外部の人材が任命されているが、その外部の人材が世間の感覚とかけ離れ、協会側の利害に立った議論のみをしている、と。マスメディアではこんな批判があるようだが、このような議論の行き着く果ては、真に公益を代表した理事を日本相撲協会の執行部に入れるべきである、と。関取は世間の常識に沿った運営をする協会の指示に従えばよい、と。そんな方向になるのではないか。もしそうだとすれば、この発想はいま習近平政権が進めている「腐敗撲滅運動」とどこが違うのだろうか?

現在の日本は「国民主権」である。「国民」や「社会」を名乗れば、それは直ちに「権力」をさす。世間の常識、社会の合意をふりかざせば、そのまま「社会主義」、「全体主義」への道を開くことも可能である。「官僚主義」そのものである。

確かに世間の常識は守ったほうがよい。しかし、だからといって詳細かつ具体的な事まで明文化してルール化するのは問題だ。透明化といえば聞こえはいいが、法治主義には裏の顔がある。小生はそう思っているのだな。そこに自由はない。息の詰まる社会ができる。体制には従え、となる。反対すれば反社会的になる。そうなる。この手法こそ、いま中国で共産党政権が進めている「打虎拍蠅」(虎もハエもたたく)一大運動と同じである。そうなってしまうのではござんせんか?

世間も社会常識もオールマイティではない。やはり<ほどあい>というものが大事ってことでござんしょう。


0 件のコメント: