日常の出来事を記録するブログではニュース番組やワイドショーの登場頻度がどうしても多くなってしまう。
話題に困ったときは、テレビ・バッシング。そんな時代になってきた。
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またまた福井県の記録的豪雪をめぐって某局のキャスターが「やっちまった」、というより「言っちまった」ようである。
1500台の自動車が立ち往生する中、災害救助要請をうけた自衛隊が現場に駆けつけて、除雪作業にあたったのだが、そのキャスターが『ただ、24時間で除雪できたのは、手作業がメインだったということもあって、わずか1.5kmほど』と言ったというのだ ― 小生も10時から放送されるそのニュース番組はよく観るのだが、その発言は後で知った。もし観ていれば、「ありゃ、ありゃ、いいのかい」と小生もまた感じただろう。
この発言に対して、抗議が殺到したというのだな。
「人の手で1日であの高さの積雪を1.5kmもする事がどれだけ大変か…現場のリポーターにスコップ渡して1メートルでもやらせてみろ」等々、抗議の電話が殺到したという。
そりゃあそうでんしょう。「わずか1.5キロ」という表現はひどすぎる。そのキャスターが雪というものを全く知らなかったことは明らかであるにしてもだ。
しかし、一方で雪を知っている人は日本の中で多数派ではない。体感的に知らないのは仕方がないんじゃない・・・そうも感じる。実際、1992年にこの町に移住するまでは、小生もまた表日本育ちであり、「スタッドレス・タイヤ」という単語ですら、「それ何?」と聞いていたくらいだ。
「雪ってロマンチックだね」と思う人は雪国にはまずいないからネエ、と。そう言ってもリアルな実感として心を一つにできる人は東京や大阪にはそうそういないはずだ。
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小生はマンションで暮らしている。だから寝る前に雪を確かめ、早朝に一度起きてまた雪を確かめることはしない。しかし、一軒家の住人は降っていれば雪かきをしておく。すれば30分か1時間は肉体労働をする。そんな一戸建てに暮らす苦労とは無縁である。楽な暮らしをさせてもらっている。
除雪はマンション管理の一環として任せている。これは楽だ(もちろんその分だけの管理料は払っている)。しかし、駐車場に除雪車(除雪ブル、ブルドーザーと当地では呼んでいる)が入るときは車をどける必要がある。大雪の朝は、管理人から「ブルが入るので9時半までに車をどけてください」と連絡が入る。そうすると、住人が一斉に車をどけるのだが、停めるところに困るので、小生はそのまま近くのショッピングモールにいって昼までコーヒーを飲みながら時間を過ごすことにしている。買い物もすませて正午前後に戻ると、除雪は完了している。ブルドーザーもどけた雪を運搬するトラックもいなくなっている。駐車場はスッキリと、滑らかな雪面が輝いている。その時の気分は雪国の住人でなければ想像できない。
まあ、雪国の冬はこんな朝が毎週1回や2回はある。一度、ブルが入る前に自力で除雪をして車を出したことがあった。その夜、生まれて初めての坐骨神経痛が発症して眠れなかった。雪国育ちではない小生は雪かきには肉体が適応していないのだ、な。駐車場の車1台分など僅かな大きさだ。加えて、北海道の雪は軽い。それでも除雪作業はかなりこたえる。重労働なのだ、な。疲弊すること月並みではない。
もし駐車場を除雪する時に起きてこない人がいて、何台かの車がそのまま残っているとどうなるか? ブルドーザーは直進しながら帯状に雪をどけながら一地点に集める作業をする。その集めた雪をトラックで運搬するわけだ。何台かの車が残っていると、残っている車の周囲には取り切れなかった雪の段差が残ることになる。作業も煩雑になる。
豪雪時の1500台立ち往生の際、自衛隊はなぜ重機を持って行って効率的に作業をしなかったのかと、そんな疑問を呈するコメンテーターもいたようである。
この意見も「自衛隊の除雪はわずか1.5キロ」と同じである。生活実感として知らないのだな。大体、車がズラッと並んでいる国道で、除雪ブルドーザーを動かせるか?困難であろう。かえって時間を要する可能性が高い。
人海戦術でいくしかない。その人海戦術にしても、数万人を投入するわけにはいかない。狭い国道沿いに作業エリアがある。数万人が集まっても役にはたたない。なので千人規模の動員になったと想像される。
自衛隊の作業体制は極めて合理的であったと小生は思う。
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「わずか1.5キロ」、「なぜ重機をもっていかなかったのか?」。マア、悪気はないのである。「無知ゆえの勘違い」である。
除雪というのを知らないのだから、誰か知っている人がキャスターに教えてあげればいいのにねえ・・・そう思いました。
「なぜ1.5キロしか進めないんでしょう?」
「それは△△○○なんですよ」
そういう短時間の会話、確認をしておくだけで、キャスターの目線は格段に的を射た共感可能なものになるだろう。
実際には、都会で暮らしている平々凡々たるサラリーマンが「凡人の常識」に沿って大雪で難渋している現場の報道をしたわけである。別に悪意があるわけではない。しかし、無知であるが故に現場で苦労している人が聞けば腹立たしい発言をしたりするわけである。「知らないなら黙っておれ!」と言いたくもなるわけだ。
そこで今日の表題になる。
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ずっと以前は、TVの民間放送といえば、まずはドラマかバラエティ、歌番組、クイズ番組、お笑い番組が主であって、ニュースといえばNHKでアナウンサーが淡々とデスクの上の原稿を読むといった風なスタイルであった。
世間の出来事を「報道」と称して、キャスターが個人的感想や意見を付けくわえつつ語るというスタイルは、放送業界の伝統ではないと思う。
これもあらゆるジャンルの番組が視聴率低下に悩み、ソフト提供側にあってはニュース解説やワイドショーが残された最後の鉱脈であるのだろうが、そろそろ社会倫理上の限界に達しつつあるようだ ― 実際、番組中に細々とした謝罪をのべる事が増えているように感じる。
「よく知らないなら黙っておれ」を忠実に守るなら、キャスターがアドリブで発言する機会は封じるべきであるし、「あのキャスターが何をいうかを聞きたいんだよね」というのであれば「勘違いもまた面白いよね」と、そんな意識が見る側になければなるまい。
ドラマやバラエティは100パーセントがエンターテインメントで最初からフィクションである。受け取る側もそれが分かっている。しかし、「事実」を素材にコンテンツを編集するなら、関係者は現実の住民である。それなりのリスクは作り手側が当然覚悟しておくという理屈になる。
学問用語でいえば、電波で流すソフトにも社会的な外部不経済があるわけだ。その社会的コストは<生産者責任原則>に沿って供給側が負担する、そしてコスト負担を内部化する。この考え方が社会的な資源配分の適正化への基本となる。
アメリカではフェースブックなどのSNSが社会にプラスの価値を提供しているのかどうかを議論している。日本でもそろそろ真剣にTVのワイドショー、ニュース解説が社会にプラスの価値を提供しているのかを議論してはどうだろうか。
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