2018年8月7日火曜日

「面白い本を読もう」という方針にはワナがある

ニーアル・ファーガソンの『大英帝国の歴史(上下』(中央公論新社)を読んでみた。それなりに面白い本だ。同じ著者の『マネーの進化史』(ハヤカワ)もそれなりに面白い本だが、同じ程度に面白い ― マネー史であれば相田洋『マネー革命(1・2・3)』(NHKライブラリー)の方がずっと刺激的だったが。

それにしても、いつも思うのだが歴史書は全て共通しているところがある。まず人の名前が非常に多く登場する。年月日もそう。映画であれば数シーン、本であれば一つの節に主題があり、たとえば具体的な事件であったり戦争であったりする。ファーガソンもそうであるし、その本の中で悪玉国家を演じている大日本帝国について書かれた(例えば)別宮暖郎の『帝国陸軍の栄光と転落』、『帝国海軍の勝利と滅亡』を読んでも同じだ。人名、年月日、事件、騒動、決定等々、これらが数多登場する。歴史を書く以上、仕方がないのだろう。

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帝国主義が植民地拡大をもたらす。大英帝国は七つの海を制覇する。なぜ制覇できたのかが興味ある研究課題となる。偶々、ダーウィンの進化論が有力な仮説として提案されていた。生物界の生存競争が国家や民族に適用された。競争の社会的意義が着目され、人種間優劣が科学的に研究された。やがて似非科学である「骨相学」が登場し、次にピアソンが統計的手法を発展させ真正の科学(と思われた)「優生学」が発展した。この辺の叙述はメリハリがあって、よくさばいている ― ひょっとして著者のホンネではあるまいかとすら感じるほどだ。優生学が登場しなければ、それを根拠とした劣性遺伝子の排除、それを目的とした不妊化手術も行われることはなかったろう。つまり歴史は現在の状況と常につながっているものだ。『ああ、そうだったのか!』という発見をするのは誰でも面白いはずだ。

優生学といえば現代統計学の元祖ロナルド・フィッシャーもまた賛同者であったと聞く。最近では「誤り」と判定されているが、100年も前には「最先端の学理」だと受け止められていたわけだ。とすれば、あと100年もすれば又々正反対の方向に社会が流れていくかもしれない。

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第一次世界大戦に至る過程はコンパクトである。

やはり英国にとっては20世紀初頭のボーア戦争が時代の分岐点として記憶に残るのだろう。帝国主義戦争の典型とされたボーア戦争の惨状をウィンストン・チャーチルをはじめ従軍記者が報道するにつれ、イギリス国内でその非人間性に嫌悪の感情が増し、やがて「帝国主義」という言葉自体にネガティブな感情を覚えるようになったことが触れられている。より残忍な行動を繰り返しながら、なぜその時になって英国社会は自らの非人間性に突然として目覚めたのか。本書を読む限りでは、さっぱり分からない。

戦争の非人間性への嫌悪感が高まっていたにもかかわらず、なぜ第一次世界大戦を戦ったのか。ニーアル・ファーガソンは、その当時の判断を英国の犯した戦略的ミスであると遠慮がちに指摘している。しかし、そんな簡単なミスを一国の国民が集団的に犯すとは思えない。わかったうえでの選択だろう。それが分からない。おそらく当の英国人にもピンとこないのだろう。丁度、なぜ対米戦争を決意できたのか、当の日本人すらピンと来ないのと同じように。何しろ「鬼畜米英」と旗を振った張本人であった元・陸軍軍人が進駐してきた米軍にすすんで協力したのだから。

「思い通りにはいかないよね」とか、「この世は分からんものですヨ」とか、何か一言付け加えておけば、ファーガソンもより説得的であったろう。

多くの人が語るように第一次世界大戦で欧州は崩壊したというトーンではなく、ボーア戦争が一つの時代の到達点となり、第一次世界大戦で必要のない戦争を戦わざるをえなくなり、第二次世界大戦で大英帝国はドイツ帝国・大日本帝国という悪の帝国と刺し違えた、と。そんな立場にたっているようだ。

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歴史は必ず戦争や事件を人の名前と年月日と併せて記述する。なぜその人はそんな判断をしたのか、行動をしたのか、一応それらも記述する。しかし、動機が書かれているとしても、なぜそんな動機を持ったのかという疑問が出てくる。歴史というのは、読んでいるうちは面白いが、川の河口から水を遡り、最後は水が流れてもいない源流をたどって水源地を探そうという空しい努力に似ていないでもない。

すべて歴史を語る人は『私はこう思うのですよ』という一面があるのはこのためだ。

「優生学」を真正の科学として信頼したピアソンやフィッシャーは、21世紀初めの現在になって、なぜそれが「間違った思想」であると断罪されているのか、理解できないだろう(と想像される)。彼らは、100年先の未来を見ることができたとしても、自分たちが間違っているとは考えない(と想像される)。なぜなら優生学は当時の人にとって、モラルや規範などではなく、確認された科学的結論であったからだ。疑いようもなかったわけだ。

この「疑いようもない」という点に「時代」というものを感じる。

過去と現在とはどこか大事なところが違っているのだ。そして、現在と未来も大事なところが変わっていくはずだ。時代が変われば、誰であっても、考え方を変える。小生もそうだ。過去は現在とつながっているが、やはり過去は過去、現在は現在である。子供に自分のDNAは半分しか含まれていないし、孫は4分の1だけが自分でしかない。だんだんと他人になるのだ。現在は過去の延長ではあるが、過去とは違うところの方が多い。

現在の人間が歴史の彼方を記述するのは自由だが、過去が現在であった時代に生きていた人たちがそれを読めば、あまりの脚色ぶりに吃驚するだろう。

そんな面白いものではなかったよ

時間軸に沿ってリアルタイムで人に可能なことは「将来予測」だけだ。予測をせずにただ歴史を語ると、どうにでも語れるものだ。枝分かれする川の上流を遡るようなものだ。水なき上流にそって山を登っていくようなものだ。そのうち水源に気がつかないまま尾根に出てしまうだろう。そうなればやり直しだ。リアルタイムで生きた人が回想すれば少しはましになる。水流の予測がいかに外れたかを語ることができる。それでも『過ぎたあとから思うこと』である。過ぎる前の自分(達)と過ぎてからの自分(達)は別の人間になっているに違いない。

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結局、歴史を読んで感じる印象の全体はいつも同じだ。
成功したのは賢明であったからであり、失敗したのは愚かであったためだ。
歴史を読む側の人間には、ただ、それだけの印象が残る。歴史家は色々な事実を探してくる。歴史を語る側の意図はいろいろとあるが、歴史を読む側の人間は上の公式に当てはめて本を解釈する。解釈できれば面白いし、できなければ変な本だと思う。

サマセット・モームの『サミングアップ』にこんな下りがある:
この30年間に本を読む人の人数は急激に増加し、あまり労せずに知識を仕入れたいと望む多数の無知な人が存在する。作中人物が今日の焦眉の諸問題について意見を述べるような小説を読むと、何かを学んでいると思うのだ。小説だから、あちこちに惚れた腫れたの話も書かれているため、楽しみながら勉強ができるというわけである。・・・だが彼らの書いた小説は文学作品というよりジャーナリズムであった。それは新しい考え方を伝える役目を果たした。欠点としては、しばらくすると昨日の新聞と同じく誰も読まなくなるということだ。
歴史と文学は違う。確かに違うのだが、ファーガソンも別宮さんも、モームなら『これはジャーナリズムだねえ』と。こんな風にバッサリやってくれるかもしれない。

本を読むと、何か賢くなったような気がするのも危険なことである。何かが出来るようになるわけでもなく、本に書いていることをどこかで話題にできるとしても、それは著者が書いていることを伝えているだけのことであり、それも真っ赤な嘘であるかもしれないのだ。まして「面白かった本」を読んで、自分が賢くなるなど、そんなわけがない。面白く感じるということと、知識を獲得するということと、関係はない。別々のことのはずではないか。真の知識は、面白い本ではなく、自分自身の経験と観察を何度も考察し、失敗・叱責・罵倒を経て、苦労しながら獲得するしかない。大学(院)で演習や実習が単位になっているのはその第1歩だ。

ジャーナリズムが世間の知的レベルを向上させるなどは、本当のところ、言うは易く、行うは難し。よくよく検証されなければならないのが偽らざるところだろう。

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この位の短文を書き残しておくのは、バカにならないための予防策だ。小生、偏屈でへそ曲がりである。これまた、徒然なるままに、ということで。



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