全国的な影響力のあるマスコミ大手が偏見や先入観をもって報道すると、残酷な「社会的制裁」が発生する。いまだ無抵抗の社会的制裁被害者に日本の裁判所が数億円規模の損害賠償をメディア各社に命じた事例はない。小生の不勉強かもしれないが、そのはずである。
が、インターネットのほうも決して言論の理想郷などではない。誰も管理していないということは、誰が何を言っても(=書いても)許されるのが基本だ ― もちろん余りに世間を憤慨させることを書けば「炎上」する。本人にはね返ってくる。とはいえ、極論、愚論がそのまま流通している状況は「フェークニュース」ではないにしても、民主主義にとって危険であるかもしれない。
たとえば・・・
富田林署から逃亡した窃盗犯。まだ捕らえられていない。どこに潜んでいるかというので、連日、TV報道をにぎわせている。昨日だったか、一昨日だったか、大阪府警本部長が報道陣を前に公式に謝罪した。この先の猶予はせいぜい10日ないし2週間程度ではあるまいか。このまま逃亡犯を確保できないままに、次の9月の俸給支給日が来るとして、大阪府警の最高責任者が何事もないかのように椅子に座っているという事態はちょっと想像できない。
留置管理を怠った警察の責任であることは自明である。
ただネットの投稿をみていると、人は色々だと思う。前の(いや、その前かもしれない)府知事だったH氏は『接見して何も言わずに帰った弁護士が悪い!その弁護士を処分しない弁連が一番悪い!!』と、そんな風に語っている。
確かに、小生、ニュースを最初に聞いたとき「これは弁護士と共謀した逃走劇ではないか」とすら感じたものだ。しかし、弁護士にはそんなことをする動機はないし、下手をすれば自分が逮捕される。弁護士は刑事犯の利益を代弁する本来の業務を遂行しただけだろう。入口扉のブザーが鳴らないように電池を抜いていたのは警察の勝手であり、そんな怠慢をオープンにするはずもなく、弁護士はブザーが(どこかで)鳴ると思って帰宅したのだろう。逃亡犯が「自分が署員に言うから」とも言っていたそうだ。そもそも弁護士は警察と「協力」する関係ではなく、むしろ「敵」であると言ってもよい。
もちろんこの弁護士と逃亡犯の間に信頼関係などはなかった。これは確かだ。逃亡計画のダシに利用されたくらいだ。世間の弁護士と依頼者との関係など、ほとんどがルーティンワークであり、形式的かつ機械的。TVドラマ化できるような人間劇など、実際には極めて例外的事象なのだろうとは思う。利用された弁護士は、決して逃亡犯の利益を真剣に守ろうとする有能な弁護士ではない。これだけは言えるだろう。
プッと失笑してしまったのは『警察も悪いが、一番悪いのは逃げた犯人だ!』。いやいや、笑ってしまいました・・・まるで上方漫才である。さすが大阪・・・
犯人は自首したわけではない。犯罪をおかし、もっと逃げたいと思っているのを、逮捕され留置されていた。そもそも「逃げたい」と考えている人物を国家権力である警察が拘束していたのだ、な。自由にどこかに行きたいと考えている人間を警察が拘束できるのは、それが警察の職務であり、権力を有しているからであり、刑事裁判が開かれ判決が下るまで身柄を管理するのは、検察・警察の業務である。
接見が終わったと言ってくれなかった弁護士が悪い!
俺たちも悪いが、逃げたあいつが一番悪いやろ!!
<責任逃れ>としては典型的だ。小学生もここまで頭の悪い言い訳はしないだろう。ところがインターネットでは堂々と書かれている。ここが編集長のいるマスコミとの違いだ。
ネットは「まずい」と思えば自ら「削除」できるが、新聞は一度配達した新聞を「撤回」できない。せいぜいが誤報を謝罪できるだけだ。ネットの書き手も時に謝罪することがある。しかし炎上したネティズンが自分の暴論を謝罪して、その後復帰したという例はあまり見たことはない。
やはり無責任を基本とするのがインターネットという場ではあるまいか。
どちらもどちら。Which is better? である。が、この二つには共通点がある。「自分はこう考える」というのが「意見」であるのだが、マスコミは既に「何を語れば多数の満足を得られるか」を基準に自分のいう事を決めている節がある。インターネットはこんな営業バイアスからは自由であると思っていたが変わってきた。最近のネット投稿もまた閲覧(視聴)者数の増加が書き手の利益につながるケースが多い。故に「意見」ではなく、多数者の話題になりそうなことを書いているのではないか。そう思わせるような記事が増えてきた。
すべてはビジネス化する。呑気な暮らしにもいつかカネが狙いのビジネス動機が入り込む。自分が欲しいかではなく、世間が欲しがっているかどうかで買っておくかを決めるようになる。"Time is money"を超えて"Money is all". これが資本主義社会の鉄則とはいえ、真の「言論の場」を形成することがいかに困難であるかを改めて感じる。自分の損になる種類の「意見」はそもそも言論の場に出てこないのだ。というか、文字通りの「意見」を文字通りの意味で戦わせている場は、現代の日本社会にはない・・・と、気がついてきたのが近ごろの気分である。
「意見」とは本来パーソナルで嘘もてらいもないはずだ。そのパーソナルな意見を表明できるとすれば、いまはマア「選挙」でしょうナア~~~。他にはありゃあしませんぜ。言論?新聞?テレビ?ありゃビジネスでござんすヨ。支持者や読者を増やすための言論ビジネスってえやつで、意見の表明なんてもんじゃござんせん、受けるかどうかが狙いにちげえねえって。こんな風に思う昨今であるのだ、な。
Which is better? である。
ただ、富田林署逃亡事件で救われるのは、世間の圧倒的多数の反応は警察の怠慢を非難するものであり、責任を逃れる屁理屈に肩入れするような風潮はないという点だ。この点ばかりは、日本の社会がまだ健康さを保っている証拠である。
0 件のコメント:
コメントを投稿