2018年8月5日日曜日

「結婚」の定義が曖昧になりつつある。これは「混乱」ではないか?

結婚をした二人が世間にその事を知ってもらう時ほど嬉しい瞬間はないだろう。派手婚であろうが、地味婚だろうが、ナシ婚だろうが、結婚する二人の本質に違いはない。これまでは・・・

もし結婚の本質を「愛」と考えるなら、たとえ同性婚であっても、二人が"LGBT"であっても、結婚を可能とするべきだという議論になる。それを「結婚」という言葉の概念範囲に含めるとすれば・・・。

こんな議論もある。
 しかし、法律婚は「子どもを産み育てる」ことを前提に税金での優遇制度がすべて設計されているわけではない。
 例えば、茨城県石岡市にも新婚世帯への家賃補助があるけど、こっちの目的は「新婚世帯の定住化の促進を図るため」である。
 ここでは、子どもを産み育てるかどうかではなく、「夫婦というユニットになることで、生活基盤が安定し、定住性が高まる」という考え方がベースにある。定住することで、そこで働き、何らかの富を生み出すという想定があるのだろう。それが税金を投入するのに値する、というわけである。
URL: http://blogos.com/article/315765/

実は「結婚」というキーワードでこのブログを検索すると、以前にこんなことを書いたことが分かる(だからこそブログは自分自身の思考の旅程であり便利なのだ)。

「家族」とは何のために存在するのか?以前にも投稿したことがあるが、小生の理解はシンプルである。地縁・親族・姻族を柱とする大家族制から核家族制に移った社会においては、「家族」の存在理由は「子の養育」が目的であるとしか考えられない・・・ロジカルに考える時、何がほかに挙げられるだろうか。夫婦の愛を育むことだけが目的であれば、結婚という制度は不必要だ。相続などは遺言をかいておけばよい。
愚息は結婚をして、戸籍を別に作る時点において、小生とは別の「家族」となる。つまり愚息が子の養育を開始する意思決定をして、自らの家族をつくり始める時点が小生の家族から離れる時である。それは「核家族」であり、伝統的な「大家族」ではない。「核家族」という言葉の意味合いを社会学的な観点からつくづくと実感したのは初めてである。
出所:古い慣習の効用?、2017-3-13 

なぜ結婚をしようと人は決めるのか? それは、新たな生命を創り、子とともに新たな家族を築いていこうと(その時点では、少なくとも)当人たちが決意するからである。

こう考えていたことが確認できる。これ以外に「結婚」をどう考えればいいのかという意味では、基本的に小生の考え方は変わらない。

なので、そもそも最初から「子供は要らない」と決めているのであれば、「ではなぜ結婚するのですか?」と。同棲がより純粋である。愛の終わりが二人の別れであると思うのが、より純粋な愛のカタチではないか。「結婚」を制度的なハードルにして、二人の共同生活を長期安定的なものにしようというのは、当人二人を守るためではなく、幼い子供に安定した家庭環境を与え続けるためではないか? 結婚した二人に対する社会的支援が正当化されるロジックは「子の養育」にある、そうではないのか? もし愛する二人を愛しているがゆえに応援するのであれば、同棲して事実婚を続けている二人も同じように守られるべきである。愛という点において一層純粋である理屈だから。

まあ、やめておこう・・・いくらでも書けるのだが。

こんなことも別の投稿で書いている。
もし税とライフスタイルとは独立であるべきだと考えるなら、結婚後に働くか、専業主婦になるかで税負担額に違いを設けない。それは分かる。しかしそれ以前に、二人が働いている状態で、結婚しようが、同棲のままでいようが税負担額には違いはない、と。こうあるべきだと主張しなければならない。小生にはそう思われるのだが、そうなのだろうか?専業主婦であるか共働きをするかどうかがライフスタイルの選択ならば、結婚するか同棲のままでいるかもライフスタイルの選択ではないのか。敢えて結婚をするのは、子どもを育てるという目標を暗黙に前提していると思うのだが、違うのか。子供は育てないと決めているならば、結婚することが望ましいとは、言えないのではないか。
出所:保守的なへそ曲がりの結婚観、2016-4-14 

最初に引用した議論と小生の考え方とは基本的に相いれない。というか、同じ現代日本社会に暮らしていても、人の考え方はこれほどまで違うものである。文字通り、人生いろいろ、人はいろいろ、なのだ。だからこそ、「民主主義」と口で言うのは簡単だが、その運営にはよほどの知恵と練達がいる。社会は本質的にバラバラである。

◆ ◆ ◆

とはいえ、「家族」が先ず存在する。「社会」の前にまず「家族」がある。この点だけは最初に引用した議論と(意識のうえでは)共通しているかもしれない。

つまり、どんな言葉で表現するかという問題にすぎない。家族という共同体を形成するのに「夫婦」でなければならないと断定する必要は(論理的には)ない。同性であっても一つの戸籍をもち、法律上の(≒義理の)兄弟、姉妹となることは可能だ(可能とする)。古すぎて何だが『三国志』に登場する「桃園の誓い」がいい例だ。LGBTである二人が親と子(養子)になることもありうる(ありうると認める)。"T"のステージに進んだ二人であれば、兄と妹、姉と弟、いとこ等々からいずれかの関係を選べばよい(と認める)。そして「家族関係」を結ぶ。そもそも「核家族」が浸透する以前は「大家族」であったのだ。「結婚」したいと望む同性の二人は、自分たちの愛は夫妻愛と本質的に同じであると考えるだろう。しかし、小生、同じであるとは思えない。結局、法律とは制度であり、人の内心に立ち入るものではない。愛の同質性は法律的議論にはそぐわない。

「家族・親族」には色々な「関係」が含まれうると考えるべきだ。そんな柔軟な制度設計がこれから求められているのだと思う。だからといって、「結婚」、「婚礼」という日本語の概念範囲を拡大するメリットはない。

そう思うのだ、な。


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