なるほど当時のベストセラーになっただけあって悪くはなかった。
Amazonから『スタンブール特急』が届いたので読んでみた。若くて、まだ小役人をやっていた時に読もうとした以来のことだから、手に取るのは40年・・・は、まだ経っていないか。が、まあ過ぎた時間を考えると、最初の部分をどんな気持ちで読んでいたかはもう思い出すことができない。多分、オリエント急行を舞台にしたグリーンの小説ということでワクワクしていたのだろうということは想像がつく。
この小説は"Entertainment"であると著者自らが分類した作品であるので、「純文学的」には評価対象になることはない(なかった)。
ここで「純文学的」と言ったのは、登場人物の造形にリアリティがあり、プロットに自然さなり独自性があり、人間存在や社会の深遠さが伝えられていて「思想」があるということを言うのだろう(と勝手に思っている)。
その意味では「純文学的」ではない。
しかし、評判の『ヒューマンファクター』よりは、小生、よほど面白かったネエ・・・これだけは書いておこう。小説の評価なんて、当てにはならない一例だ。
グリーンは巻頭に気の利いた名句を挿入する癖があるのだが、ここにもあった:
この世にあるものはすべて、
その理想的な本質において抒情的であり、
その運命において悲劇的であり、
その実存において喜劇的である。
脇役というより主人公に近い役割を担っている教師リチャード・ジョン(=医師・革命家リヒャルト・ツィンナー)についてだけは内面に立ち入って造形されている。
その両親と当人との人間関係が実にいい。
銃で撃たれ逃げ込んだ倉庫の中で死を迎える老いた革命家が夢をみる。夢の中にいる両親は「偉く」なりすぎた息子との疎隔を隠さない。それでも親らしく
おまえはやれるだけのことはしたのだ、まじめだったヨ
こう伝えるときもそうだが、そこで死をみとる娘が
ほんとに割があわないことだわ
こう思うとき、これは"entertainment"ではあるが、小生自身にも語られた文章表現であると感じるほどだ。その意味で実に普遍的である。
革命家と娘をおいて先に逃げた盗賊が娘を探しに来た青年の乗っていた自動車に乗りこむ。そのままコンスタンティノープルまで無事逃亡できた事がわかる終幕もわさびがきいている。
ただ面白いだけの作品ではない。上の巻頭言に内容は凝縮されている。
確かに多くの人物は霧の向こうにいるようにボンヤリとしている。そこが「純文学的」ではない。が、雪で前が見えないオリエント急行で起こった話であることを思えば、どの人物も影絵のような輪郭として登場したのは必然であった。
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