標題から分かるように前稿の続編である。
大手マスメディアによる最近のFBやTWTRなどのSNS企業叩き、特にFBバッシングは目に余るものがある。
なるほど、NYTなどの老舗新聞からみれば、フェイスブックはメディア企業として極めて無責任に有害な情報を社会に垂れ流しているということなのだろう。
フェイスブックは、それに対して『わが社はメディア企業ではない、IT企業である』と自社のポジションを主張しているが、世間の中では旗色が悪い。やはり米大統領選挙におけるロシアンゲートで重要な役回りを演じてしまったことが響いている。
要するに、印象が悪化したのだ。数年前の「アラブの春」では社会の進歩の先導者であると称賛されたのが嘘のようである。
実際には、いずれのケースもSNS企業の功績ではなく、SNSを利用する利用者の意図が為したことなのだが、世間はそうは見てはくれない。
包丁で人を刺したからと言って、包丁メーカーが悪いわけではない。考えてみればすぐに分かることだ。
ここが問題だ。が、よく考えてみると、旧メディア側が憤る背景も分からないではない。
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雑誌"Forbes"にこんな文章がある。
Facebook may have initially led the charge in connecting people, but Jacob Weisberg wrote in the New York Review of Books, “Zuckerberg and his company’s leadership seem incapable of imagining that their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive.”
Source: Forbes, 19-Nov-2018
先日の
投稿はあくまでも人と人をつなぐ"Social Network"を念頭に置いていた。
しかし、フェイスブックの利用者は「人々」ばかりではない。権力を行使する政府、公的機関、影響力の大きい言論機関、民間企業、その他団体もFBという空間で意図をもって行動している。
リアルな社会で力を行使している組織が、ネット空間でも言葉や映像、音声を通して影響力を広げている、そう言える状態が既にある。力を行使するチャンネルの一つとしてフェイスブックが利用されている。これも「人と人の繋がり」であると強弁するのか。要するに、こういう批判である。
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経済学には確かに完全競争の下で社会的厚生は極大化されるという「パレート最適」が命題として証明されている。しかし、この命題が成立するには非常に困難な前提が満たされていることが必要である。むしろ、経済学の基本定理で主張されている結論をリアライズするには、どのようなことが必要であるかという視点に立って定理の意義を理解することが大事だ。こう話してくれたのは、小生が学生時代に授業を担当してくれた福岡先生である。経済学の純粋理論で仕事をする人にはそれなりの現実認識の裏打ちがあったことがわかる ― 小生の恩師である小尾先生と計量経済学グループはまた違った感覚で純粋理論畑の人たちを観ていたようだが。
経済的厚生を破壊する主要因は、一つには「独占的支配力」を有する巨大企業の誕生である。アメリカで市場経済の成果を評価する産業組織論が大型トラストが相次いだ1920年代に発展したのは偶然ではない。
自由な経済活動は企業の成長と社会的厚生を両立させる近道であるが、全てを自由化し放任しておくと、強者が弱者を支配する「ジャングルの経済」が到来し、多数の経済的厚生が損なわれることになる。米国FTC(Federal Trade Commission:公正取引委員会)は、経済的自由を抑制することが目的ではなく、社会の経済的厚生を守るために必要な行政機関である(建前としては)。ただ、もちろん、一時のマイクロソフトや現在のGoogleのような巨大企業に対して、具体的にどう立ち向かうか、学派によって左翼もあれば、右翼もいるのが現実だ。
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フェイスブックの利用者がフェイスブックを利用する目的は「社会的つながり」を求めて自分自身のプロファイルや「近況」を発信することばかりではない。
巨大な組織もまたフェイスブックを利用しており、それらの加入者はフェイスブックに集積されている人と人との繋がりを「調査する」のである。
場合によっては、フェイスブックからマイクロデータを(所要の契約手続きの下ではあるが)入手して、それを分析し、自社利益拡大のための行動につなげていくのである。このようなプロセスの中で、英国の選挙コンサルタント企業「ケンブリッジ・アナリティカ」による個人情報流出事件が発生し、ロシアの選挙介入の片棒をかついだという疑惑の標的にいまフェイスブックがなってしまっている、というわけだ。
Forbes誌の言う"their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive"は、経済学分野における「市場原理主義」への懸念と大変似ていることに気がつく。さすがは"The New York Times"である、と書いたところ、上の引用記事は"Forbes"からだった。"Forbes"までがネエ・・・。確かに潮目は変わってきたと感じる。
市場原理主義者が唱えたグローバリズムは、結局は多国籍企業やメガ金融機関に利益拡大のための自由を保証したものだった、と言えば公平性を欠くかもしれない。しかし、いまフェイスブックが唱えている「開放的かつ自由な繋がりの場」は、結果として悪意と意図をもった力ある組織が社会に影響力を行使するための格好の場となっている。いずれはジャングルのような社会がやって来るに違いない。社会の利器が凶器と化す。そんな非難も決して的外れではない・・・ウ~ン、確かに一理も二理もある。そう思われてくる。
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どうすればいいか?
SNS企業の裁量で「良い利用者」と「悪い利用者」を選別するか? 一社にそんな選別をする権利を与えるなどトンデモナイとみな考えるはずだ。が、いま進めているのはそんな方向だ。社会の現実をSNS企業で問題解決せよと非難している。では、公的機関が一定の判断基準に立って、「サイバーパトロール」のような事を担当するのか? そんな権限を「お上」に与えてしまえば、「アラブの春」のような進展は二度と期待できないだろう。自由な発信を規制できる権限を公的機関に委ねるべきではない。多くの人はそう考えるのではないか。
結局は、偏った投稿なり動画なり不適切なデジタル資源がネット空間に現れても、圧倒的に放出される多数の異論の洪水の中で埋没・消失していくという状態が理想であるには違いない。"Natural Selection"に委ねればよいという観方だ。SNS企業はインフラを提供する役割にとどまる ― どんなインフラを設計するかというのが問題の本質だが。
ただ、現在のフェイスブックは社会で目立ったポジションを占めたいと考える人が活発に発信し、平穏に日常を送っている人たちは必ずしも社会的により広い繋がりを求めてはいない・・・実際、小生の旧い友人たちでフェイスブックのアカウントをもっているのは極々少数である。SNSというツールは、まだビジネスとしては序の口の段階であり、耐久消費財の普及率でいえば、せいぜいが15パーセント位かというのが実感である。
日本ではLINEが優勢で、FBとLINEは相互参照はできない。カミさんが最近になってLINEを始めたが、それでも友人たち全体の半分はLINEをやっていないという。世代格差も大きい。
フェイスブックの創業者ザッカーバーグが主張するように、SNSが真に社会的インフラとなって、そのプラス面を発揮するようになるには、もっと遥かに多数の人がSNSを利用することが必要であるし、何よりも多数に分立しているSNS企業間で相互参照できるチャンネルをつくることが欠かせないのではないだろうか ― もちろんビジネス戦略として選択可能かどうかという問題がある。
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ただ、上のような理想のSNSが形成された後であっても、テンポラリーに核となるような陣営が形成され、その陣営が社会に大きな影響力を、時に破壊的なほどに発揮するかもしれない ― 1990年代から2000年代にかけてマイクロソフト社も過剰な支配力を持っていると批判されたものである。強制分割への恐怖は大きくなりすぎた主体には常にあるものだ。
大きな影響力をもつに至った党派を「過大」であるとして抑制するのか、そのような党派もまた社会の「自然」の流れであり、進化であると考えるのか。どちらの立場に立つかは社会哲学によるのであって、正解を見つけるのは困難だろう。