2019年1月26日土曜日

一言メモ: こんな人や社長、政治家、隣人は確かにいる

韓国・文在寅大統領の支持率が低下中とのことだ。特に、若年男性層が複数の理由もあって核心的支持層から核心的不支持層に逆転してしまっているという。女性は若年層であっても高い支持率傾向に変わりはないという。

総じて言うと、文政権の政策基調は女性重視の一言に尽きると韓国内では評されているとか…。

ずばり、政治家・文在寅は<八方美人>とは真逆の<一方美人>なのだろう。

こともあろうに政治家に一方美人なる人がいるのかと吃驚したくなるが、明治の政治家でいえば伊藤博文は典型的な八方美人、それに対して井上馨は一方美人と形容されていたことを何かで読んだ記憶がある。

対北朝鮮、対米、対中、対日外交を一渡りみても、文大統領の行動パターンは一方美人そのものではないか。

そんな人は時にいる。そういう御仁なのだと。そう割り切ればよいのではないだろうか。

2019年1月25日金曜日

政府統計の迷走

総務省が ― というのは統計業務全般を管理していた旧・行政管理庁が総務省に吸収合併されているという背景もあるのだが ― 統計法上の基幹統計について実施状態を総点検したところ、幾つかの不備が確認されたということだ。

予算減額、定員削減・・・、この20年ほどで進んだ行政合理化のしわ寄せが集中しているとでも言えば、その構図は国立大学法人化と大学における研究基盤弱体化とどこか重なるところもある。

結局、いまの足元の問題にカネがいるので、将来に備えた課題にまでカネが回らない、そういう事である。

★ ★ ★

それにしても毎勤統計に関する特別監査委員会で委員長になったH氏も大変気の毒なことだ。ずっと昔になるが、小生がまだ大学院生であった時分、H氏は学部は違っているものの、計量経済グループが主催する演習に出席していたものだ。小生の親しい友人は別にいたので話をすることはなかったが、労働経済学畑の本流を歩んだ大国柱の一人である。専門分野との関係で旧・労働省、現在の厚生労働省との縁も深く、小生の恩師から数えればもう半世紀を超える学術的交流が続いているはずである。

そうした深い相互理解をとりあげて「身内による検証」と断罪されるのだから、今の日本社会も変質したものである。

こうした事を大っぴらに言うときに予想されるのは『それほどの専門家なら統計不正をなぜおかしいと最初に気づかなかった!?』という多数の非難である。今回の問題は日銀の統計専門家がチェック作業をして「確かにおかしい」となり問題が明るみに出たという。多忙な日常業務があるにもかかわらず日銀の職員が既報統計に疑念を抱き検証作業を行うこと自体、既に専門家の間では広く疑念が共有されていたからに他ならない。

繰り返すが、今回は専門家がその不自然に気がつき、公的機関が人を割いてデータの検証を行うことで誤りが露見し、政府機関である統計委員会が公式に問題とすることで、問題解決への作業が始まろうとしている状況だ。そこに政治家が頭をつっこみ政治問題に転化させるのは道理に合わぬ。

昨今の韓国の対外行動は、極端な反日と本来技術的である問題を政治化する点に特質があるわけなのだが、日本国内の野党もまた極端な反政権と本来技術的である問題を政治問題にするという傾向がある。

小生は、昨今の野党の言動を<国内反対勢力の韓国化現象>と呼んでいる。

★ ★ ★

毎勤統計問題の検証だが、委員の構成をみると全て外部専門家であり、当該分野の専門家に加えて統計委員経験者を含め法律・会計分野から人が入っている。

ただ職員に対する質問、確認は部内でやったと報道されている。更に、あろうことか中間報告文案も厚労省が起草したという報道がある。これは拙いねえ・・・。

まあ誰が問題発生の経緯等を聞いたかも大事ではある。とはいえ、統計業務は統計学とはまた異なる仕事だ。現場経験がなければ実態を想像することもできまい。何かの質問をするとしても問題解決につながるようなエッジの効いた意味ある質問をするのは部外者には無理である。

ただ文字通りの省内現職公務員が聞くという形はまずかろう。それは小生が当事者でもそう思う。統計業務経験者で省外にいる専門家をワーキングスタッフに任命し経緯の調査や問題点の洗い出しを行ってもらってもよかった。というより、統計管理行政を所管する総務省の側に<統計行政監察権限>がない所に問題の本質がある。今回の事案は、調査や監査などではなく「監察」もしくは「査察」といった権限に基づく「〇察」が必要なケースである。

★ ★ ★

ずっと以前になるが、いわき市にいる弟宅を訪れようと上野から特急ひたち号に乗ろうとしたことがある。ところが、事故によって運休となり往生し、ついに訪問を中止したものだ。後になって知ったのだが、その日、変電所で仕事をしていた電力会社の社員の一人がスパナを手から落としてしまったのが運悪く広域停電を招いてしまったらしい。

小生がその日に特急ひたち号に乗れなかった原因は「落ちた一本のスパナ」だったのだ。ただ、こうした事故の再発を防止するには、人(Man)・方法(Method)・素材(Material)・道具(Machine)という四つのMから前後の状況を検証し、改善策を提案しなければならない。

問題解決への王道を、今後、誰が主張なり提案することができるだろう……さっぱり分からヌ。

野党は韓国化しているし、国会議員はすべて素人、メディアは専門家を呼ぶことはできるが残念ながら専門家の語る内容を記者やキャスターが理解できない・・・。問題解決には現場の実態をまず知ることが大事なのだが、検証に現場の声どころか周辺の声が混じる事すら昨今の日本社会は嫌がる空気があるようだ。

ずばり、民主主義の理解不足。人材不足、平和ボケ、三無主義、少子高齢化、etc.。「複合不況」と言う言葉をかつて経済学者・宮崎義一が創ったが、この数年間続いているのは「複合危機」かもしれない。

やれやれ、情けないネエ・・・

こんな風に迷走をして、太平洋戦争の早期終結にも失敗したのだろうなあ・・・あの時も「長期戦争」の理解不足、人材不足、組織ボケ、タコつぼ根性、憲法の欠陥、etc.の「複合危機」としてみるべきだった。


2019年1月23日水曜日

「毎勤統計不正」に思うこと

財務官僚や警察官僚、経済官僚、外務官僚というカテゴリーがあるのと同様、日本の行政府内にも統計官僚という集団が事実としてはある、というより小生が小役人をやっていた時分には確かにあった。

2004年以降であったか(?)、本来ならば従業員500人以上事業所については全数調査であるところを東京都内ではサンプル調査に変更していた、しかも抽出率調整を行っていなかったというので、この分野においては珍しく、一大騒動になっている。労災保険や失業保険金の算定にも使用されているデータであるから、この「手抜き」によって生じた国民の損失も巨額である。

ニュートンが古典力学体系を完成できたのも、前代にケプラーが基本3法則を発見してくれていたからであり、そのケプラーの法則は彼の師匠であるティコ・ブラーエが精密な観測データを長期にわたって蓄積してくれていなければ発見されることはなかった。分野を問わず正確なデータを蓄積しておくことは、「すぐに役立つ」という次元を超えて、近代国家の大前提であると言っても過言ではない・・・というのは誰でも分かっていたはずなのだが、それでも行政基盤の弱体化を目の当たりにして愕然としているわけだ。

☓ ☓ ☓

手続きを踏むことなく統計調査方法を勝手気ままに変更していたというのは、明らかに統計法違反であるから、「手抜き」を超えて「不正」という名称が使われるようになったのは仕方がない。

本日の朝刊には本件に関する特別監査委員会による中間報告が報道されていた。それによると、「組織的隠蔽」はなかったものの統計業務執行の在り方としては「言語道断」。そんな姿勢であるようだ。

それに対して、一部の専門家(何の専門家は不明だが)は「トカゲのしっぽ切りは許さない、監査委員会でできないなら国会でやるべきだ」という発言もしているようだ。

☓ ☓ ☓

トカゲのしっぽ切りねえ・・・。ま、確かに厚生労働省事務次官以下の官僚が処分され、それで何の対応も行わないというのでは、とても片がついたとは言えない。そんなことは分かりきっていることだ。だから、中間報告なのだろう。

個人的な予想だが、厚労省の「統計情報部」という組織は、イヤイヤ、今は「統計情報部」ではなくて政策統括官が多数並列している「ナントカ統計室」を所管しているのであったな、・・・その組織全体が丸ごと改編されるのではないか?そう観ている。

今回の不正の発端は、どうやら担当係長と東京都とのやりとりであったようなのだが、詳細は報道からは不明である。おそらく監査委員会は当該係長から話は聴いているのだとは思われる。が、もう10年以上も昔のことだ、記憶にも濃淡があって、正確な復元は無理だろう。

率直にいえば、小生も似たような環境で同様の仕事を担当していたこともあるので、雰囲気としては容易に想像できる。

まず何かの問題がある。下から「こうするしかない」と方向が固まってきて、次第に確定しかかってきた段階で課長補佐に上がり、課長にあがる。課長に上がる頃には「先方もこれで行けると態勢を組んでしまったんですよね」という、「こちらからちゃぶ台返しをするとなると相応の基本方針を示す必要があると思うんですよね」と係長は言う、それに対して行政改革の暴風雨のさ中にあれば課長はびびり、局長にあげると局長も「仕方がないだろう」という。まあ、そんな所だろうとは思う。

統計業務は極度にボトムアップ的であって、末端の仕事の結果が「一気通貫」というかトップにまで上がって行ってしまう仕組みである。

だから直接実行したのは担当係であり担当課であり担当局である。真っ先に担当官僚が処分されるのは当たり前である。

☓ ☓ ☓

こんな言葉がある。確かずっと昔、雑誌『舵』で連載されていた「キャビン夜話」の中の一節であったかと思う。
一般にレストランに客が入らないのはホール担当者の責任ではない。客が入らないのは主として経営者の責任である。
小生はずっとビジネススクールでデータ分析を担当してきたのだが、データ分析の授業が悪いので履修者が少ないという言い方にはどうしても反発を感じてしまうのだな(^^;;)。データ分析の授業を履修する学生が少ないのは、小生が勤務するビジネススクールの経営戦略、アドミッションポリシー、カリキュラム戦略によるところの方が圧倒的に重要であると考えている。

官僚が業務を推進する現場で「手抜き」や「不正」が行われ、それが修正されることなく継続されてきたのは、個人的責任を無視することはできないにしても、中央官庁を設計する内閣、及び内閣の方針を了承してきた国会により大きな責任がある。

遡れば小泉改革、というより橋本行政改革にまで遡及して、なぜ統計情報整備という必須の行政インフラが弱体化したのか、その背景と根本的原因を整理して考究する必要があるだろう。

とはいえ、「だから橋本行革は失敗だった」とか、「小泉改革は間違っていた」と結論付けるなら、それもまた愚かな思考である。そんな雑な思考力で企業を経営すれば倒産するのは必至だ。

どんな改革も100パーセント完全に正しい選択をすることはない。普段の見直しと問題発見、そして問題解決と改善が欠かせない。むしろ民間の会社で普通の職務を担当している普通の人たちがこの辺の事情をよく理解している。本質をみる力に欠けているのは普通の仕事をしていないため頭が固くなった議員や自称専門家の面々である。

今回の統計不正で救われる点は、統計委員会と言う政府機関が内部の問題を調査し、欠陥の存在を確認し、改善へのモメンタムになった点であろう。



2019年1月22日火曜日

乱暴な一言: 日本の研究力復活の切り札は?

国立大学が法人化され、しかも運営費交付金が減額傾向にあることから国際的に通用する日本発の学術論文がめっきりと減ってきたという点はもう何度も指摘されている。

研究を支える若手研究者の絶対的人数が減ってきていることを考慮すると、海外留学の絶対数や論文の絶対数が減少するとしても自然ではないかという指摘はあるが、国内の若手研究者が減るなら、海外から優秀な若手研究者を招聘すれば国内研究機関の研究力は低下しないはずである。そうした面も含めて国内の大学の研究力が落ちてきているとすれば、確かに30年後の日本の科学技術水準はお先真っ暗だろう。

カネがないから、というに尽きるのかもしれない。

が、切り札はある。

現在、教育資金贈与非課税の制度がある。祖父母から孫の教育費に贈与する場合の優遇措置である。それがなくとも、富裕世帯の若年層はスタート地点から既に恵まれているという機会の不平等が指摘されている。

自分の孫に教育費を渡すよりも、優秀な教育研究機関で努力する若年層に手渡すほうが確かに社会的にはカネが生きることになるだろう。もし自分の孫が能力面において劣位にあるとすれば、むしろ優位にある他の若者に資金を活用してもらう方が、外ならぬ孫が助かるわけである。もしも孫が優れた才能を有していれば、一流の大学に進学した時点で大学に流入する研究資金の恩恵をうけることが出来る理屈だ。

相続税と親族間贈与税の非課税措置を大幅に縮小する一方で、国内の教育・研究機関への寄付行為については大幅に非課税措置を拡大すれば、確実に研究資金は増えるはずである。大学が寄付者に対して感謝し、その善行を称えるためのモニュメントを建てるなら猶更のことである。孫の世代は自分の祖父母の善行の記念碑を見て名誉を感じるだろう。

かつ高年齢層から若年層への資金移転を促すことから社会保障による世代間不平等を修正し、また資産分配の格差拡大を矯正する一助にもなるので<一石三鳥>となる。

マア、"theoretically correct, but politically wrong"のそしりは免れないだろうが…。

2019年1月20日日曜日

「小農も支えてこそ」は逆噴射?

日常かかせない食料品は安い方がよいに決まっている。その方が家計にとって楽だからである。その食料品が海外産であり、安価な輸入品をいま買うことによって国内業者の売り上げがその分落ちることは理屈として分かっている人ですら、同じ食材であれば安い商品の方を買うであろう。

"Buy Japanese"には自然と限界があるのである。日本にとっての合理性より前に、一人一人にはその人の合理性がある。

★ ★ ★

TPP11の初の閣僚会合が開催されたからか、本日の道新には標題に記したタイトルのコラム記事が掲載されている。

その主旨は
過渡な農産物の市場開放や「強い農業」とのふるい分けは弱者切り捨てにつながる。
という事にある。

更に
小規模農家は穀物や野菜などを幅広く手掛ける傾向が強い。結果的に私たちの食卓を豊かにする。日本らしい景観とされる棚田のような農地も「小農」が支えているところが多いはずだ。
という点も要点の一つだろう。

★ ★ ★

しかし、一方で暮らしを楽にする政策を求めながら、他方で非効率的な農業を大事にせよ、そのための財政措置を検討せよと考えるのは、まあ一種の「逆噴射」である。非効率な国営企業を国益の名の下に断固保護し続ける政策を止めようとしない中国と同じである。

日本のため、国のため、伝統のため、文化のため・・・、小生はこれらの表現の全てにいかがわしさを感じる。

★ ★ ★

たとえ安い米が市場を席巻するとしても、高くても手間を惜しまず育てた日本のコメを食べたいと思う日本人は必ずいるはずである。唐木順三が言うように、まるで園芸のように栽培した野菜を食卓に並べたい人もいる、そんな食材のみを使う料理屋は今後も高く評価されるに違いない。

淘汰されるのは求められている食材を育てようとせず、コスト的に勝てるはずのない外国産農産物と同じレベルの商品を作り続けようとする小農だけである。

市場メカニズムとは正にこういう作用のことをいう。

2019年1月16日水曜日

議論進行の定石: まずは二項対立に持ち込む

日産のゴーン元会長の拘留延長を裁判所が認め、場合によっては1年に及ぶ拘留もありうることになった ― ゴーン被告はすべての容疑を全面否認している、というのも理由の一つと言われている。ま、世間の常識で言えば、全面否認しているからこそ人権を尊重して推定無罪の原則にそって拘留はできるだけ避けるべきだということになるのだが。

賛否両論がある。それは当然だ。特に外国では日本式の司法手続き批判が強い。これまた当然である。

☓ ☓ ☓

こんな風に賛否両論がある場合、ともすれば批判される側は批判されているという事実そのものに反発して、不必要な反論・釈明を繰り返し、それがかえって火に油を注ぐ結果になってしまう。

まずは二項対立状況を設定して議論を進めるのが定石だ。

A. 仮に世界統一政府があり、全ての国において同一の司法手続きが採られているとする。その場合は、異なった司法手続きへの不信や疑念は根本から解消される理屈だ。国境をまたぐ捜査や取り調べにおいて、今回のような賛否両論は生じないはずである。

B. 反対に、19世紀の帝国主義時代のように国際化が進む一方で、国によって文明・技術・価値規範に大きな違いがある場合には、外国で事件に巻き込まれた自国民を自国の法で裁くべきだとどの国も考えるだろう。こう考えれば、犯罪を犯した外国人に対して本国法による領事裁判権を認めることになろうが、この場合にも今回のような賛否両論は生じないはずである ―治外法権を押し付けられた後進国に、あるいは先進国で容疑者となる自国民をみる後進国の側に、同種の不信が生まれる余地はあるだろうが、それは今回の騒動とは本質が異なる。外国人はすべて本国法で裁かれる原則で一貫させれば、今回事案のような賛否両論は生じないはずである。

現実は上の二つの極端なケースの中間にある。そして、両極端のケースAにおいても、Bにおいても、今回のような賛否両論は生じない。とすれば、賛否両論が生じているのは、現実の世界がケースAでもケースBでもないからである。ケースBは明らかに現在の世界の潮流とは逆行している。ということは、問題の本質は国際的な司法制度調整機構が現在はない点にある。

☓ ☓ ☓

理性的に議論をするなら少なくとも「先進国」の間では、司法・警察制度を統一しておく方が、人権保護の確実性が増す。

しかしながら、それぞれの国には歴史と慣習があり、特に司法制度は各国が「最も善い制度である」という合意の下で制度化してきたものである。なので、どの国も自国の司法制度が自国人にとっては最良であると考えるのは当たり前であって、少なくとも制度が成熟した先進国民であれば、自国の司法制度が劣悪で、できれば外国の司法制度で裁かれたいと思う人間は少数のはずである。故に、統一的な司法手続きが国境をまたいで採られるとしても、どの国の国民も決して納得はしないに違いないのだ。それまでの自国の司法制度が最も善いと思うはずなのだから。

こう考えると、今回のゴーン事案について外国から日本に向けて司法批判があるのは「当たり前である」。今はそう割り切って、起訴した後の法廷の実質をみてもらうのが上策であると考えるしかないという結論になる。

と同時に、一見すると違うように見える日仏司法制度も、その骨格を詳細にみるとそれほど隔絶した、相互理解が不可能なほどの非常な違いはない。この点を丁寧に対外発信していくことも重要なのだろう。

いずれにせよ、今回のゴーン事案は国際化する事件をどのように司法処理するかという格好の演習であるのは事実だ。そんな事もあって検察当局はゴーン会長による一連の報酬を違法と認定し、敢えて立件したのかもしれない。法務大臣、検事総長、特捜部長の器がそろって大きくないとビビるはずである、とまあ今はそんな風に見ているところだ。まあ、特捜はギャンブルに打って出たと観ている人もいるようだが、一度はこなしておかなければならないタイプの事案であり、好機をとらえて「症例」を蓄積しておくことは必要な備えであるだろう。

2019年1月10日木曜日

「三角関数は死んだ知識だ」騒動について

リアリズムを徹底した問題提起者として知られている橋下徹氏が「三角関数を学校教育に含めても実際には使わない、死んだ知識だ」という意味のことを発表して以来、世間では賛否両論が相次ぎ、一種の「騒動」になっている。これこそが橋下氏の当初の目的であったとも思われ、見事に作戦が奏功しているようだ。

小生は統計分析でメシを食ってきた人間だ。特にビジネス統計、マクロ経済統計が主戦場であり、将来予測はライフワークであった。だからということになるが、三角関数は必須のツールである。

ただ同じ予測とはいえ、実際の株価予測では三角関数は使うまい。しかし、ザックリと言ってしまえば、チャート分析は数学的な関数の一種である三角関数を感覚的に使っている分析法である。

チャート分析よりも多少体系的なフレームワークとしては「時系列の4成分」がある。授業ではこの辺から教えるし、経済統計の現場では「これはTCIですよね」などと当たり前のように話しているので周知の術語だとおもう。TCIというのは、原系列を構成するTCSIからS成分(=季節成分)を除去した系列、つまり季節調整済み系列の意味である。時系列を傾向(T)、循環(C)、季節(S)、不規則(I)成分に分解する計算実習から始めるのは、今後も経済時系列分析を学ぶのに不変のメニューであり続けるだろう。この循環成分はCyclicalという名称から察せられる通り、三角関数が直接役に立つ成分である。

一言で言うと、三角関数を知っておくことは「循環性」や「周期性」を理解する第一歩になる。小生の仕事から言えるとすれば、これが一つだ。

***

ただ、学校教育で共通の知識として教えるべきかといえば、これは確かに疑問ではあるのだろう。橋下氏のいうように「死んだ知識」になるかもしれないねえ・・・というのはその通りだろう。

というか、三角関数を教えるのは「関数」という概念を理解させるためであると小生は勝手に思っている。ここを確認しておかないと話が個別的かつ断片的になりすぎる。つまり、より本質的な点は学校数学で「関数」という考え方まで全員が共有する基本知識として求めるかどうかということになるのではないか。「関数」という概念を理解するなら、有理関数だけではなく(実関数に限定するとしても)三角関数や指数関数、対数関数までは不可欠の材料だと思う。

中学校の数学は、簡単に言えば、小学校の算数から代数へ進む過程になっている。方程式で未知数$x$について解いたりするのは代数計算である。因数分解や平方展開も代数だ。文字記号が混在した式を四則演算するトレーニングを積むのは、「計算」の本質を理解してほしいからだと思われる。

それに対して高校数学の目的は、色々なとらえ方はあるだろうが、「関数」を理解することに尽きると思っている。数学Ⅰでは多項式の因数定理が出てくるが、これは$x$に関する多項式を$x$の関数とみる視点が身につかなければ面白さが感じられないはずだ。中学校で学んだ代数式を関数としてみるところが高校数学のレベルアップの本質だ。2年に上がって数学Ⅱでは関数の微分が登場する。三角関数も微分できる。数学Ⅲになって色々な積分が登場する。1次関数、2次関数とともに三角関数やその他の関数が当然出てこなければならない、というのは数学の観点に立てば自然な発想である。

ついでながら、大学理系の1、2年次で学ぶ大学数学の目的は、一口に言えば「集合」、「空間」概念の理解だろう。高校で理解した関数も「ベクトル空間」、「関数空間」の成分としてみれば、数学Ⅲで出てきた「微分方程式」も、ずいぶん単純化され、世の中を見る視点がレベルアップした感覚を覚えられるはずである。

数学の事はいいとして、小生にとって、要は将来予測を飯の種にするとき、どこまで勉強しておくかというのは、やはり考えどころだった。いくら何でも、景気予測をするなら、その基礎としてコルモゴロフ・フォーミン位は読んでおけと強要されるとすれば、数学の勉強で時間の大半をつぶし、肝心の経済の勉強ができないというものだ。

何事もバランスが大事なのである。

***

まあ、要するに数理的な分野で小学校・中学校・高校・大学と進む中で、どこまでを国民共通の基本教養として知ってもらいたいかということになる。が、この辺については以前にも一度投稿したことがある。そのときは、三角関数は死んだ知識だという意見ではなく、「古文」を勉強しても役に立たなかったという意見について述べたのだった。

まったく、現在の学校教育については「あれは死んだ知識だ」とか、「これを勉強したけど仕事ではまったく使っていない」とか、こんな発言に満ち満ちている。そろそろ全員を学校という建物に来させて、クラスの全員に同じ授業を聴かせる方式も限界だネエ・・・そんな感じもしたりする。

小生が中学生であった時分、確か母親が来ている授業参観日だったと思うが、日ごろの勉強の悩み事はないかと担任の教師が生徒に聞いて回った。小生の番が来たとき、こんなことを言った記憶がある:
親から勉強しなさいと強く言われることはない。だけれども、授業で出てくることは分かりたいので英語や数学は疑問が残らないようにしたい。そんなとき、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1192年だというのを何故覚えなければならないのかが分からない。いつでも調べれば分かるはずだし、年号を覚えなければならない理由が分からない・・・
いやあ、教師からみればヤリニクイ児童であったなあ・・・と思う。その時の担任教師に再会することがあれば「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と謝りたいと思う。

ただ、小生が中学生時分に感じたことの半分は当たっているかもしれない。というのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた年は必ずしも1192年とは言えないという見方が学界でも広まってきていると聞いているからだ。

が、逆に考えると、そんな歴史学界の中の細かな事がニュースになったりするのも、国民共通の教養として「イイクニ(1192)ツクル鎌倉幕府」と全員が暗記したせいかもしれない。だから別の見方もあるという学界内の動向を面白いと思ったりもする。外国人ならそうは感じないはずである。

ただ食っていくための知識を得るなら「学校」などは必要はない。学校教育の半分は、現実には「死んだ知識」かもしれない。しかし、知識としては死んでいても、源頼朝ではないが、国民に共有されているというのは、それ自体は素晴らしいことであると小生は思う。

こう考えると、問題の本質は小中高大と進む学校教育の中で、どこまでを義務教育として、どこまでを学習指導要領で画一化/標準化するべきなのか?ここに尽きるような気がする。

三角関数を教えるべきかどうかという問題と、鎌倉幕府ができたのは1192年、水の分子式は$\rm H_2O$、地球が太陽を回る軌道は円ではなく楕円である。ここまで習っておくべきなのかという問題は同じところから派生している。

中々結論の出ない論点であるに違いない。ただ、国民が共有する基本知識として、なるべく多くの分野からできるだけ広く知識基盤を与えておこうという国の努力は、それ自体は、立派な行き方であって、無駄の多い下らない行政であると断じる気持ちにはなれない。


2019年1月7日月曜日

一言メモ: 「組織戦略論」に落とし穴はないのか?

ビジネススクールの主たる分野の一つは「組織論」である。これは財務・会計、マーケティング、経営戦略と並んで人気の高い領域だ。そして企業組織の戦略的最適性を分析する視点は、多くの場合、国家・社会の組織的最適性に関する議論とも重なってくる。

民主主義の優越性は何からもたらされるのか?民主主義が君主専制/一党独裁よりも長期的に優越するというが、そうであれば歴史の長期にわたって非民主主義国家が安定的に存続してきたのは何故か?民主主義的政体は、何も近代西洋にのみ認められるものではなく、既に古代ギリシア・ローマ社会で曲がりにも選挙による執政官選出が採られているなど、世界は決して近代にいたって初めて民主主義に目覚めたわけではないのだ ― この辺は随分前に投稿したところでもある。

★ ★ ★

今日のメモ:

組織的意思決定における最適モデルといえば非常に人気のある研究テーマである。

しかし経験的観察に基づく限り、組織の最適性は環境・状況に依存するとしか小生には思えない。

民主的意思決定の優越性は何からもたらされるかという問題設定より、民主的意思決定が優越する状況とはいかなる状況か?逆に、少数の専門家に任せる非民主的意思決定が優越する状況とはいかなる状況か?こんな問題設定の方が分析やシミュレーションを行いやすい。

実際、国家にせよ、企業組織にせよ、その組織の成長と衰退はその時々の状況のいかんによって様々であり、集団的意思決定が適している時代もあれば、天才的指導者によるトップダウン式の決定が成功する場合もある、というのが経験的事実だと思う。

であれば、組織の最適性はその組織の属性からのみ導かれるものではなく、環境と組織属性とのマッチングで決定される。そう考えるのが理に適っているだろう。

もちろんここで言う「最適性」とは、正邪善悪という規範的価値ではなく、組織の存続可能性を最大化するという実証的価値に沿って使っている。

★ ★ ★

人間や社会に関して『こうあるべきだ』などという鉄のような規範は、科学的に考えれば無いと考えるべきだろう。

2019年1月4日金曜日

又々余計な一言: 外見よりリアリティ、形式より本質が大事では

標題に書いた言葉はささやながら小生が続けてきた専門分野から経験的に引き出した総括(の一つ)である。

たとえば年始早々ながら次のような投稿があった:
「卒婚」という新しい夫婦の形が広がっている背景には、社会の大きな変化があると思います。
その変化とは、人間関係の多様化と高齢化社会です。
人間関係の多様化によって、家族関係にも多様な選択肢が生まれています。そして、人生後半戦の期間が長くなれば、前半戦とは違った人生を違った人と楽しみたいという人は、着実に増えていきます。
(URL)http://agora-web.jp/archives/2036503.html

戦国時代から江戸時代の太平が訪れて日本人の平均寿命(=出生時余命の平均値)は長寿化したと推測されている。また、戦前日本から戦後にかけて日本社会はずいぶん長寿化した。それでも「高齢化社会」とは呼ばれなかったし、実際、3人に一人が高齢者という社会は小生の幼少時には想像を絶する現実であったはずだ。それでも寿命が長くなったときに、どんなことが起きるかという点については、日本人はそれなりの予行演習を積んできたはずなのだ。

***

小生の両親の世代にとって夫婦生活の長さの目安は、20歳で結婚して、60歳まで生きるとすれば、まずは40年。古希と言われる70歳まで一緒に長生きするとすれば、金婚式が迎えられる。小生の親の世代は、こんなところであったはずだ ― 最近の予想以上の長寿化で、金婚式はおろか、ダイヤモンド婚(=60周年)やプラチナ婚(=70周年)も現実的になってきてはいるが。もっともこれは結果論であり、戦前期のように、まずは人間50年と考えれば、20歳から50歳まで二人の夫婦生活が30年も続けば平穏な人生であった、そんな感覚であったに違いない。

近年の状況はずいぶん晩婚化しており、下の愚息も30歳を過ぎてから配偶者(➡これも昔は日常で使われなかった言葉だが)を得た。いまの目安である80歳まで二人無難に添い遂げれば金婚式を迎えられる。

夫婦生活の目安は、当初の30年から40年、40年から50年へ、と。長寿化によって夫婦生活の長さの目安も長期化した。これが戦前から戦後にかけての歴史だろう。

***

それでも「卒婚」という言葉はなかった。言葉はなかったが、リアリティとしては子育て終了後の夫婦関係の変化は当たり前のようにあったと考える方が理に適っている。まして、前の世代よりも長寿化するのが当たり前であった日本社会ではなおさらだ。

結婚した夫婦の在り方が年をとるにつれて変化していったり、破綻したりするのは当たり前である。いかに生活水準が豊かになり、技術進歩が続いても、人間性の本質は変わらない。それは古典文学を読むだけでも直ちに分かることである。人間は何も変わってはいない。変わっているのは、知識や技術、憲法や制度である。どれほど豊かな社会になっても、人は必ず恋愛をし、不倫をし、約束をしては破り、だまし、結ばれたり、別れたりするであろう。

リアリティとしてずっと昔から観察されている夫婦生活の多様な在り方を、「卒婚」という新しい言葉を使って「人間関係の多様化」などと呼ぶのは、継続しつつある同一の現象を異なった言葉で呼ぶわけであり、それはちょうどレコード盤をディスク、パソコンをPCと呼ぶのと同じ話しだ。

メディア産業の観点から商品価値はあるだろうが、社会学的認識としては正確ではない。嫌がらせをハラスメントと呼ぶとしても、最近になって急にハラスメントが増えてきたわけではない。これと同じだ。

同じものは同じものと認識して、過去から現在へと一貫したデータを蓄積し、分析しなければ、実証的な確かな結論というのは引き出せないものだ。
日の下に新しきことなし

使う言葉を旧から新へと新しくしても、言葉だけで現実は変わらない。社会のリアリティは伊勢神宮のように式年遷宮をすればサッパリと清々しくなるわけではない。解決するべき問題がなくなるわけではない。問題を解決するなら、新しい言葉を創って気分一新するのではなく、過去を水に流さず、同じ言葉を使い続け、地道に研究分析を続けなければならない。

無数の言葉が毎年創り出されては忘れられていく流行作家好みの現代社会においては、上の格言を常に思い出したいものだ。


2019年1月1日火曜日

年始早々余計な一言: 天皇即位と大赦検討の是非

5月に予定されている新天皇陛下即位を機に、政府では当分の間死刑執行を控えるとの方針が決まりそうである。更に、大赦が検討されているそうだ。

公訴権の消滅、有罪判決の無効化など、戦前の天皇大権には有名な統帥権のほかにも立法大権、外交大権、栄典授与大権、恩赦授与大権等があった。大赦は天皇の立場から臣民のこれまでの罪を帳消しにする恩赦大権の中でも最も幅広いものである。

現在の憲法でこの恩赦が残存しているのは、内閣の輔弼によって天皇が行っていた恩赦大権の名残であると思われる。でなければ、巷間すでに批判が出ているように、内閣の一存で司法の判決を無効化するというのは理屈に合っていない。

ただ思うのだが、一部の意見がいうように「恩赦は制度の不完全さを表すもの」というなら、逆に「司法の決定もまた人間の行為の一部だけを切り取ったうえで裁いた不完全なもの」という批判もありえよう。
罪を憎んで人を憎まず
これが近代法治国家の原理・原則である。有罪判決を受けて刑に服している人もまた、その人個人の責任において犯行を償っているわけであるが、それと同時にその人にそんな行為をさせるに至った社会にも責任が当然あるわけだ。こうは考えないとすれば、一部の社員が悪質な犯罪を働いた場合に、その社員のみを罰するのにとどまらず、会社の社会的責任を重視し、代表である社長が責任をとるべしと。そんな意見が出てくる理屈がないわけだ。現実には、犯罪を犯した社員だけではなく、そんな社員を生んだ会社組織自体も責任を問われることが多い。ならば、有罪判決を受けるような罪人を生む日本の現代社会もまたどこかが病んでいるのであり日本社会が負うべき責任を追及するべきだろう。しかし、日本社会が日本社会全体を罰することは不可能である。

なので個々の罪人の責任追及は、なるほど「公益」の名の下に行われるのだが、そんな司法の現実は極めて一面的で無責任、不完全な制度の反映である、と。こんな風に社会のありようを客観的に見る視点も必要だろうと小生は思っている。

こう考えると、理屈からいえば司法の決定を行政が覆すという言い方もできるかもしれないが、有罪判決を帳消しにするという行為は不完全な現実の社会が己が不完全を反省し、贖罪する象徴的政治ツールとしてあってもよい。こんな見方もまた小生は捨てきれないというのが率直なところだ。

わざわざ天皇制を布いているのであれば、内閣の助言によってこの程度のことは行っても良い。戦災のように何百万人もの安心に直結するような愚行ではない。実際、日本国憲法において『大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」は天皇の国事行為である。大赦が行われるとしても何も奇妙ではない。

これが小生の見方、というより社会観である。