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URL:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190314-00010002-fnnprimev-int&p=2
総じていえば、リベラルで進歩的な人は社会の役割を尊重する。しかし、社会という単体の意思決定機関はないので、つまりは中央政府の役割を尊重することになる。つまり「大きくて強い政府」を志向する傾向がどうしても出てくる。
この方向に進むと窮極的には社会主義、共産主義に行き着く。そして個人の思想よりも社会的意義という原理原則になってしまう理屈だ。『あなたのやっているそれは、どんな社会的意義があるのですか?』という指摘には逆らえないのが社会主義国家の厄介なところだ。その代わり、いわゆる「格差」は可能な限りなくなり、平等な社会にはなる。全ての人間は本来平等であるというのが社会主義の源流にある啓蒙思想の出発点であるからだ。
しかし、実際には社会主義になっても、共産主義になっても、全ての人が平等になる事はないのだ。
現在の社会はとても「進歩的な」社会とはいえない。そんな社会にあって、上のような方向を志す以上は、自らを「前衛的」であると位置づける理屈になる。社会を指導するのは有能で前衛的なエリートであり、一般の国民(=庶民)は(進歩的左翼が政権をとった後は)政府の指導に素直に従うべきであるという傾向が副産物として出てくる理屈だ。ま、こんな理屈はその昔には大学の授業にあった「比較経済体制論」でも聴講した(しなくても?)人には常識であるはずだ。
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しかしながら、いかなる人物集団であっても、彼らが真に進歩的であるかどうかは、こんな時にこそ「第三者」に委ねるべきであって、自らが「進歩的」であると自己評価する権利はない。
よい機会なので書き足しておくと、社会の状態は個人や人間集団のバラバラの意思決定が集計された結果であるので、「結果としての社会」と観るべきだ。「社会の役割」というのは実存しない。実存するのは個人やグループの役割、というかあるのは「個人の役割」のみであるとみるのが理屈だろう。
よい機会なので書き足しておくと、社会の状態は個人や人間集団のバラバラの意思決定が集計された結果であるので、「結果としての社会」と観るべきだ。「社会の役割」というのは実存しない。実存するのは個人やグループの役割、というかあるのは「個人の役割」のみであるとみるのが理屈だろう。
なので、どことなく滑稽で、ガリ便勉が演じるドタバタ喜劇的なパフォーマンスに見えてしまうのが、いわゆる「リベラル」と呼ばれる人たちである、と言っては失礼になるだろうが、これも極めて偏屈者である小生の個人的感想にすぎない。
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