2019年3月23日土曜日

メモ: 児童への体罰禁止について(先日の続き)

児童虐待防止法に子に対する親の体罰が禁止される方向で閣議決定され、法改正される方向になった。民法上の「懲戒権」を削除するかどうかも今後検討が進む予定ということのようだ。

この件については小生の個人的な感想を本ブログにも投稿している。

その要点は、たとえ親による体罰を禁止したり、懲戒権を削除したとしても、日本社会は法に違反した人物に対して「懲罰権」をもち続け、懲役という「体罰」を加えることができ、かつ究極的には死刑をも課して被告人の生命を奪うことも可能である、そんな状況には変わりがない。公権力に認める「懲罰権」と子に対する親の「懲戒権」とはどう関連するのか?それで日本人は本当に納得できるのか?世間から処罰されて前科者になるより、そうならないように親に折檻される方がまだマシではないか?まあ、この問いかけは現時点の議論では別の論点であって、たぶん検討されることはない。これは不思議な事だ。前稿の主旨はこんな所であった。

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小生自身の経験を先日の投稿では書き綴っておいたのだが、あれから何回か思い返す中で、考え方が次第に変わってきたのである。

小林よしのり氏というと、小生がまだ高校生の時分であったか、氏の『東大一直線』に(今は福島・いわき市で暮らしている)弟がはまってしまって、小生も愛読していたものだ。その後、保守的論客として一勢力を築くなどとは予想もしなかったが、先日、以下のような文章をアップしている:
親の体罰を禁止する法律を作るようだが、罰則ありで作って欲しい。もう今の日本人は劣化が激しくて、子供の命を守れない。民法の「懲戒権」も削除するべきだ。体罰=暴力であり、「しつけ」という美名のもとに子供への暴力を容認してはならない。わしが体罰で育った最後の日本人でいい。体罰が教育に必要だと、自己肯定で思っていたことは間違いだった。
URL:https://blogos.com/article/365365/

まったくこのところ報道されるニュースは、もはや「体罰」ではなく、「暴行」であるにすぎない ― 親による鉄拳の痛みを通して正邪善悪や、慎重と臆病との違い、勇気と蛮勇との違い、ウソと保身との違い等々、言葉では説明し難い人生の要諦を「体得」できた世代にとっては、『殴る以上は暴行に変わりないでしょうが!』と反論されるほど、情けなくなることはないのだ。

この違いが分からないのであれば、すべて「体罰」は禁止するべきである。小生も小林氏に同感だ。

小生は、親の良かった点は採り、悪かったところは廃する。単純にそう考えて、誰もが同じようなものだろうと思い込んでいたが、(実は)体罰は使いこなすのが難しいのかもしれない。

そもそも「叱り方」というのは、家庭のあり方、両親の仕事、親戚との関係等々、親の周りのコミュニティ全体によるところが大きい。というか、コミュニティから外れ、孤立し、かつ色々な点で「未熟」な両親が、成り行きから人の親になったとしても、子を育てるのは無理である。

もはや日本社会から体罰による躾が効果的である環境は消え去りつつある、というのが事の本質だと思うようになった。

故に、「体罰禁止」が妥当だと小生も考える。

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が、「体罰禁止」によって好ましい結果が得られるかどうかは小生には分からない。その結果は社会的なものであり、おそらく最終的には3~40年も経過して判明してくるものであろう。小生に見届けられるはずもない。

とはいえ、基礎的な理論くらいは語れる。

真に考察するべき論点は、
子が成長する過程において、どのような経験が必要か?
これに尽きると思うのだ、な。人間はゼロの状態で生まれ、経験を積み重ね、大人になり、子をもって育てる以上、当たり前の理屈である。

つまり親と一緒に暮らしている幼少期における経験と学習のいかんが本質的論点である。

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幼少期にある子にとって、最も大事な要素は<躾>ではなく、<愛情>である。この点に疑いをはさむ余地はない。

しかしながら、人間が生きていく中で経験するものは、愛情ばかりではない。憎悪や敵意、嫉妬、欺瞞なども世界には満ちている。これらは全て人間の心から生まれる。子はいずれこれらの人間の負の部分をも知るのである。知ったときに周りの大人がどう行動するかが大事だ。負の部分を学習することは望ましくないからだ。生命の尊さもまた幼少期のうちに吸収するべき事だ。これらは言葉ではなく経験を通して習得するところが大きい ― まあ、よほど教育があり、言語表現力のある人であれば、言葉で適切に諭すことができるだろう。

とはいえ、すべて経験が何より大事である。

敢えて書くとすると、殴られた時の痛みも(本当は)知っておくべきである。その理由はもう自明のはずである。そして、そんな痛みを知る機会は、その子供が殴られる十分な理由をもっている時でなければならない。彼は真剣にその痛みの必然性について考えるからだ ― これもまた幼少期に経験しておくべき要素の一つであると思う。この世界に暴力は確かに存在し、暴力(=力の行使)を通して平和と秩序が守られていることは事実だからだ。

本当は、殴られる痛みは親による体罰ではないほうがよいのだと思う。リアルな経験の中で暴力による痛みを学習する方がよいからだ。本当は、親は子に対して、愛情を注ぐだけで十分なのだと思う。しかし、それでは十分な経験をさせえないところに現代社会の問題の本質があるのだと思う。

小生は、家庭や親族づきあい、地域コミュニティは社会の縮図であると思っていた。そして、小生自身の幼少期の経験を思い出しても、ずいぶん多くの大切な事を身近な人たちから学んできたと、今は感謝しているのだ。

躾とは、教育の中の一つであり、経験の中に占める一要素である。

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「大学生の幼稚化」が世間で指摘されるようになってからもう10年以上が過ぎただろうか。小生が勤務する大学でも、ずっと昔に比べると、確かに同感を感じるようになってきたものだ。

最近は、30歳を迎えた愚息の幼稚さに絶句することが多い。今風のオフィスは、ひょっとすると幼稚な30代の若手ビジネスマンをどう統御すればよいのか途方に暮れている企業も多いのではないだろうか。

幼稚=経験の薄さ、であるのが普遍的真理である。そして、子の養育には何よりも大人の成熟が必要だ。加えて、子を育てる気力を持てるのは若い時である。自然に混合された要素を以前の親族コミュニティは乳幼児に与えることができていたのだと、今は思う。

この世代重層的な社会的養育メカニズムが失われつつある。

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経験の浅薄化と未熟化の進行は暴力禁止で止めることはできない。

幼少期にどんな経験をさせれば、成熟した大人に成長することができるか?これが真の問題である。必要な議論は、躾のあり方でも体罰の可否でもなく、いま現実の社会で求められている生きた知識、というより生きる力だろう。その力をどう身に着けるか?それには体罰は有害である……、う~ん、体罰はその子を人見知りにさせる副作用があるという。自己肯定的で明朗な人は幼少期に叩かれた経験がない人に多いとも聞いている。話がこれで終わるのならば幸いである。

育児は綺麗ごとではないのだ。人間の生死も綺麗ごとではすまない。同様に、子を育てるのも人生そのものであり、ビジネスではない。綺麗ごとではない。生き延びるために、苦労を承知で新世界に移住した家族たちは、いかにして子供に体罰を加え、叱ったのか、そんな問題はむしろ細かい枝葉末節だろう。

枝葉末節の観点から論じても体罰の可否に結論はでない。それだけは明らかなことだ。

ただ我が家の育児を思い返すと、小生が毎日勤務先に往復し、夜6時には帰宅する。カミさんは専業でずっと子供たちと一緒に過ごす。学校から帰れば必ずカミさんがいる。カミさんは子供に注意はするが、きかなければ「お父さんが帰った言いつけるよ」の一言を切り札のように口にする……、小生の両親もそうであったような文字通りの「昭和モデル」である。最低限、こんな状況でなければ小生の体罰は有効ではなく、寧ろ有害であっただろう、と。その位のことは容易に想像がつく。

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実は、小生、楽観はしているのだ。

最近よく目にする10代の少年、少女たちには、実に社会性があり、幼稚さのかけらもない成熟した人物が多くみられる。

特に、一芸に集中し、自己研鑽にたゆまない努力を続けている人はそうだ。経験を重ねる中で人は急速に成長するものであると知る。

両親は機会を提供し、子が選択したにせよ、家族の幸福がそこから伝わってくる。

惨憺たる児童虐待は、広がりのある現代日本の社会では特異的、かつ粒子状の質量しか占めていない悲しい少数例なのではないだろうか。お上による「体罰禁止」の大号令は、禁止するべき対象に対して主に作用し、本当は実質的に問題解決されつつあるのが真相なのかもしれない、とは思っている。


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