最近とんと耳にしなくなったが、新たにこんな報道があった:
理事長や受験生関係者との間に、優遇を依頼して合格すれば多額の寄付をするという「暗黙の了解」があったと推認している。
URL:https://mainichi.jp/articles/20190304/k00/00m/040/229000c
文章全体から一部を切り取るのはアンフェアなのだが、上の引用に限っては論旨をミスリードすることはないと思う。
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まあ、いわゆる「裏口入学」である。その手法は実に千差万別なのであるから、具体的内容を新たに縷々と述べるとしても、本質的に新たな真相を解明したことになるわけではない。「やっぱりネ」と言うしかない。
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ただ、思うのだが「多額寄付行為者」の子弟を優先合格させることは、学理上のロジックに基づいて否定されることなのだろうか?
ここで「学理」と言っているが、この「学理」に法律上の規定は(当然ながら)含まれない。なぜなら、その時々の法律上の規定などは、その時に生きている有権者と議員の意志と感情の流れの中でどうにでも規定されうるからである。どうにでもなりうる事には学問上の真実性はない。
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そもそも特定の日の一回の筆記試験の得点のみに基づいて合否を判定するべきではないという議論は、ずいぶん昔からある。試験万能主義と学歴主義は戦前期の帝国陸海軍、というより日本の官僚組織全体にみられる通弊である。
この件については前にも投稿したが、小生は極端な方式として、60点以上獲得者はすべて基準点充足としておいて、あとはくじ引き抽選方式でもよいと考える。そして抽選方式でよいのであれば、特に私立大学の場合は寄付金額上位者から30位くらいまでは優先入学の権利を与えても、入学者の学力管理上何ら問題は生じない、と。そう確信しているのだ。それ程までに、(上位1パーセント以内の超秀才は別として)1回1回の筆記試験の得点と真の学力の間には偶然性が介在する、ということは一度でも学生を教えた人間であれば当たり前の経験的常識になっていると思うのだ、な。
故に、寄付金の多寡に応じる形で合否を決めること自体が不合理であるとはどうしても感じられない。偶然性が左右する微細な得点差に拘っても実質的な意味は含まれないが、金銭を負担して大学教育に貢献する意志があるかどうかは、それが本人の負債でなく保護者の負担であるとしても、最も重要な入学意欲の真剣さをそこに見てもよいではないか。まさに背水の陣である。
ただ、それを堂々と公開せず、試験の得点調整という方式で陰伏的に行っている点が非常に不透明で<コソコソ>やっている。そこが非常に悪印象を与えている。言うべき点はこの一点である。
ただ、それを堂々と公開せず、試験の得点調整という方式で陰伏的に行っている点が非常に不透明で<コソコソ>やっている。そこが非常に悪印象を与えている。言うべき点はこの一点である。
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大学で行うべきことは授業と教育を厳格に行う事である。たとえ多額寄付行為者の子弟であっても、単位認定、進級、卒業の取り扱いにおいては厳格に公平に判定されているならば、何の問題もない理屈である。
仮に、万が一、学内において多額寄付行為者の子弟が他の学生よりも甘い基準で卒業だけができるとしても、国家試験に合格しなければ医師にはなれないのである。大学もそれは分かっている。故に、余りに愚かな不適格者を卒業はさせないだろうし、保護者の圧力に屈して卒業を認めるとしても、大学の評価が下がるだけであって、社会的な害悪にはならない理屈だ。
もちろんこう述べれば、この件に執着する人は多額寄付によって医学部に入学をした者の国家試験合格率を公表せよと主張するに違いない。公表をするまでは延々とこの件に執着することも予想できる。そうした人たちの個人名を公表せよとも言うだろう。それは個人情報であると言えば、ことは医師になるべきではなかった者が医師になっている以上、その人物の氏名を公表することは社会的要請であると議論するだろう。
そうして、実際にはおそらく平凡な医師として職業生活を送りうるはずであった平凡な人物が社会的正義という大義名分によって非難され人生を奪われる結果となる・・・。
これは愚かしい悲劇だ。
愚かしい悲劇が現実に起こるとすれば、多くの場合、善意と悪意が入り混じっているものだが、決定的なのは善意を利用する悪意がまず最初に存在しているということだろう。
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