2019年3月24日日曜日

一言メモ: これも社会のPDCAサイクルの一環か?

経済学界にも性差別があるというのでAEA(American Economic Association)、つまり「米国経済学会」が揺れているそうだ。

こんな報道が日経にある:
 調査を行ったのは米国経済学会(AEA)。9000人以上の回答者のうち約3分の2は、自分たちの仕事が男性の同僚に比べて真剣に扱われず、学会のイベントでは社会的に排除されていると感じているほか、同僚エコノミストから敬意を払われていないと感じていることも明らかになった。
 暴行を受けたことがあると答えたのは2%。暴行未遂の被害者になったことがあるとの回答は6%、体を触られ不快な気持ちになったことがあるとの回答は12%だった。
 さらに、女性エコノミストの42%は、過去10年に別のエコノミストや学生による不適切、性的、あるいは性的に思わせぶりな発言を直接聞いたり耳にしたりしたことがあるという。
 経済学の世界では女性との接し方を巡る議論が高まっている。経済学関連の求人サイトで女性を蔑視するような言葉が使われていることが調査で発覚するなど、女性への敵対心が問題になっている。
(出所)WSJ、2019年3月19日

最近は、ニュージーランドで起きた白人至上主義者によるイスラム教モスク襲撃といい、アメリカで勢力を取り戻しつつあるといわれるKKK( Ku Klux Klan) といい、人種、宗教、更には民族、出自、学閥、身分等々、人間のあらゆる属性の差異に基づいた差別主義が拡大進行中であるという批判的報道が増えている。

そういえば、数日前になるか、個人的差異に着目したコマーシャル・メッセージを自粛しようというFacebookの方針を報道で知った。個人間で違いを設ける広告・宣伝を流すのは、一部の人から購買チャンスを奪う差別に当たるというのだ……。そんなことを言うなら、そもそも販売価格を設定する行為自体が、「顧客評価<販売価格」なるセグメントを一律に排除(=プライスアウト)する差別的な行為となる理屈になる……。民間企業はコストを上回る超過利潤を得てはまかりならぬ、という「封建的妄言」になるのだが、そこまで言いたいのだろうか。まあ、なにかの理念から発する「●●イズム」というのは合理主義でもなく、限定合理主義でもなく、超合理主義であろうから、論理的な矛盾の指摘などは意味ある批判にはならないのだろう。

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見識のある人物であるなら、こうした「〇〇差別主義」には真っ向から反対する姿勢が求められている。

多様性のある世界に価値を認めるなら一切の差別主義に反対をするのは当然だ。

とはいえ、自分や周囲の人たちとは根本的に異なった価値観、倫理観、行動パターンをもっている人間集団に対して何がしかの警戒感を抱くのは、これまた当然の心理であり、だからこそ日本では『知らない大人の人に声を掛けられても相手にするのじゃありません』などという注意を自分の子にはしたりするわけである。

こんな警戒的行為は差別主義に与しているのか。

違いを否定して共通化したいというのは何もウズベク社会に向き合う中国政府の特許ではない。

たった一つの共通の「帝国」が政治的にもたらされれば、その世界は「一視同仁」。原理的に、かつ法的にある種の人間集団が区別されることはない。参政権は平等にもち、基本的人権も平等にもつ。法の前に人は平等となる。アメリカは既にそういう状態のはずだ。

そうなれば、民族、言語、宗教などにおける何かの違いがもたらす実生活での違いは、違いをもたらしうる真の要因との相関にすぎないことを人間は理解するだろう(はずである)。実質的な格差は目に見える外見上の差異によるものではない。そんな真理を人間は理解できるだろう(はずである)。そんな理解に達するまでは、人は他との差異を捨てて多数に同調する圧力を感じる。圧力に負けたくない人たちは属性を同じくする人間と団結して、国をつくったり、団体をつくったりして、自己保存のための活動をする。そうすることを通じて、自分たちは差別されているという認識が生じるのだ、と。確かに現象とはマッチしているからだ。どうしても小生にはそう思われるのだ、な。

多様化を認められる世界は、外見において多様であること自体は実生活上の違いとは何の関係もないという真理を理解するまでは実現が難しいと思う。

ちょっと抽象的になりすぎた。

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「労働は下賤である」という哲理から出発する宗教を信じれば、その信者たちは清貧に甘んずるが、それは宗教のせいではなく、活動を忌避することによる低生産性がもたらす結果である。そういうことである。宗教上の違いに執着すれば、その違いが処遇格差の原因であると(誤って)解釈され、しばしば地域紛争や内戦に発展するものだ。『僕たちはあなた達と確かに違っていますよね、僕たちの方が貧しいのはその違いによるものです』という指摘は現象にはマッチしているが、この指摘が本当に正しいかどうかは詳細に分析してみないと分からないのである。

イスラム圏は現時点において相対的に貧しいという現象は、実はイスラム教の信徒であること自体とは何の関連もない、ということは歴史を振り返ってみても自ずから明らかだろうと思う。

小生は偏屈で、かつ夢想家であるから、「世界連邦政府」が形成される日を待ち焦がれている ― もちろん生きてそんな日を迎えられるなどとは思っていないが。

もしも共通の世界が地球上で形成され、人々がそれを認め、そこで全ての人が自由に行動できるなら、あとはいかなる違いが実生活で生まれてくるとしても、それは趣味や才能、技量、個性の違いに基づくナチュラルな結果であり、人為的な差別には当たらないというのが理屈だ。

これはかなり小生のホンネに近い。何を考えるにも、この視点が小生のスタート地点である。

・・・いや、本筋から外れてしまった。

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さて、上では「違い」といったが、男女の違いは宗教や言語とは異なり、消すことのできない本質的違いに見える。

上に引用した女性エコノミストに対する「差別」だが、それは男女を問わず均一に共通尺度によって評価され位置づけられるべきであるというユニバーサリズムから発している問題指摘なのか? つまり同じ実績を示しても、女性であるという理由で低い評価が下されている。そういう指摘なのだろうか?

それとも男性エコノミストと女性エコノミストとで自ずから関心領域や志向するアプローチに違いがあるが、現在は男女間に評価の違いや影響力の違いがある。それは不当であるという問題指摘なのだろうか?

どのような目的があっても、その目的を達成しようと努力を続ける中で問題は発生するものだ。PDCAサイクルにおいて問題発見は進歩への一里塚である。とはいえ、『これって問題ですよね』というだけでは、ダメであって、PDCAのPと照合して、「だから問題です」と指摘するのでなければ、ターゲットが定まらず解決のしようがないわけだ。

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男女の違いが経済学研究における本質的差異であってはならず(この点に疑問の余地はない)、男女差のみに基づく評価の格差があるというのであれば、極端な提案をすれば男女の性が特定されない形式で(たとえばペンネームや匿名で)論文が審査されるのがよいだろう。そして、それは既に採られているはずである。

『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテはカラー・ベルという男性のペンネームで作品を発表したことはよく知られている。ほぼ同時代の作家ジョージ・エリオットは『サイラス・マーナ―』で有名だが、本名はメアリー・アン・エヴァンズであった。もっと前の時代にはメアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を匿名で発表している。女性であることを秘匿して作品を公表したのは、女性であるが故の様々のマイナス要因を避けるためであったことは明白だ。しかし、どんなマイナス要因があったのだろう?この点については、国によって、時代によって、もっとデータを調べてみないと何とも言えないことである。

まあ、論文や文学作品ではペンネームを使ったり匿名で発表することも可能である。しかし、エコノミストともなればコンファレンスや学会発表にも出席しなければならない。

「女性」であることが主たる原因となって純学問的な評価における負の作用を蒙っているケースが本当にあるのだろうか?分野は違うがキュリー夫人は女性であるがために修学上の、また雇用上の不利を経験した。しかし、これは100年以上も昔の社会状況である。それに同夫人はノーベル賞を受賞している。

いずれにしても、実力や実績の割には不遇の人は色々な世界にいるものである。他人の成果を剽窃したり、剽窃されたりする運・不運もあることは、男性だけの社会でもずっと昔から頻繁に起こってきた周知の事実である。素晴らしい内容の提案をしているにも関わらず、周囲から注目されなかったり、影響力を行使できなかったり、自らの孤立感、無力感を感じることは何も女性に限ったことではなく、男性にも一般に起こりうるし、また起こっている現象である。トップをめざす競争世界とはそんなものである。

故に、AEAにあるという問題もまずは因果関係を分析し、問題をもたらしうる要因を洗い出し、重点主義に基づいてターゲットをしぼり、解決に向けた実行に着手するというのが道筋になるだろう。原理はこうなるのだろうが、今回のケースは何をもってゴールとするのかが不明である。つまり解決行動の終結点が定義されていない。なので、このままでは『感じ悪いよね』というボヤキだけに終わりそうな気もしているのだ、な。

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