2021年6月24日木曜日

不必要な「ワクチン差別批判」に熱中してガラパゴス化するのは損だ

 Newsweekによると米国・モルガンスタンレー社が思い切った方針を打ち出したそうだ:

米金融大手・モルガン・スタンレーは、新型コロナウイルスのワクチン接種を完了していない社員と顧客を対象に、同社のニューヨークのオフィスへの出入りを禁止する方針。事情に詳しい関係筋が明らかにした。

ニューヨーク市と近郊のウエストチェスターにある同社オフィスに入館する社員、顧客、来客者にはワクチン接種完了の証明書提示が義務付けられ、接種が完了していない場合はリモートで業務を行う必要があるという。

7月12日から適用される。新たな方針に伴い、オフィス内のマスク着用や対人距離の確保といった制限は解除される見通し。

Source:  Newsweek日本版、2021年6月23日(水)10時07分

URL:https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2021/06/post-96560.php

カミさんに話すと・・・

カミさん: それって「ワクチン差別」になるんじゃないかなあ・・・

小生: そりゃ、そうだわな。でも、これって、いまアメリカで進んでいるマスク着用義務解除とかさ、元の日常に戻ろうっていう方向とあってるヨネ。

カミさん: いま位の接種率でそんな風にしていいの?

小生: 積極的に打とうっていう人はもう大体は打ち終わって、あとは「どうしようかな」とか、「私は打たないから」っていう人ばかりになっちゃったからね。ここで思い切って自粛を解除すると、ワクチンを打った人は守られている、だからマスクをしない。で、それを観て、ワクチンを打っていない人まで安心してマスクを外す、外食をする、おしゃべりをする。するとサ、ワクチンを打っていない人や1回だけでやめた人が感染して、クラスター爆発が起こるよね?それが狙いだよ。打っていない人は「キャアーッ」って怖くなって接種する。そうなるじゃないか。

カミさん: そうなの?そんなこと言ってないよね?

小生: 言うわけないだろ。言わない方がいいって政策もあるのさ。「言わぬが花」って諺があるくらいだからね。モルガンスタンレーの方針もそうだな。こりゃ大変だってことになって、迷っていた人もワクチンを打つだろうサ。社会の問題はサ、政府があれこれ指図するより、それぞれの人や会社が、自由にそれぞれが決めていった方が速く解決できるんだよ。

カミさん: でも、どうしても打てないって人もいるんじゃない?かわいそうだよ。

小生: そんな人は、多くいるわけじゃないよ。少ないケースなんだから別に対応策をとればいいよ。大多数がOKなら、まず大多数を相手に手を打って問題をまず解決しておくって方が合理的じゃないか。解決すれば、また別の社会状況になる、そこでまた考えればいいんだよ。

まあ、恒例のようなやりとりだが、こんな話をした。

確かに、カミさんがいうとおり、例えば日本の野村證券が

野村證券は、2022年1月以降、コロナワクチン未接種の全ての社員・顧客に対して、本社屋入館を禁止する方針を固めました。

ないけどネ、もしこんな報道があれば、その直後から「ワクチン差別反対」というキーワードが社会にあふれてサ、大炎上することは間違いない。それで撤回するヨ、と。

思うのだが、「思いやり」や「仁愛」、「弱者救済」という言葉はそれ自体として間違いではないし、尊重するべき倫理的価値である。

但し、「倫理的価値」というのは、どれもがその効果を科学的に観察して定量的に測定できるものではなく、要するに人間の大脳が組み立てた《観念》である。

言い換えると、自然世界は朱子学を代表とする儒教が理論化しているように、《五倫》や《三綱五常》で進行しているわけではない。自然には自然法則が貫徹している。人類社会も自然の一部である。この理屈は、西洋では16世紀以降の科学の興隆以降、骨身に浸み込んできた「ものの見方」である。そうして、宗教や超越的な倫理から人間が解放された。この認識はとても大事だと思う。

自然科学よりは儒学の伝統が上位にあった東洋では、この辺りが非常に弱い。近代になって、技術革新や生活水準向上という面で、東洋が西洋に後れをとった根本的原因は宇宙の本質を物理学(=窮理学)や化学ではなく、純粋哲学、つまりは理念的で倫理的な価値基準に求めた東洋的精神にあった。「なぜ遅れたか」というこの認識では、福沢諭吉の観方に100パーセント賛同しているのだ。「モラル」から発想する態度と、「神」の信仰から発想する態度と、小生は似た者同士にみえる ― もちろん、それはそれで非常に善いわけだが、政治や経済までその線で行かれたり、まして「反進化論」とか「正気の歌」などと言われると、とてもじゃないが危なくてついていけない。イノベーションがもたらす果実を様々な《べき論》で切り分けて超越的に批判する語り口も、福沢諭吉が幕末に語った愚昧度尺度《バカメートル》で測るのが適切だ。

何度も本ブログでも同じ主旨の事を書いているが、

正しい(に決まっている)原理、正しい命題から論理にそって導き出された結論は正しいに決まっている。正しい結論は実践的にも適用していくのが当然である。

現代の日本人ですらこんな思考回路に沿って考えていることが露わになっている例が無数にある。

差別よりは平等が正しく、差別は誤りである以上、差別に該当する行為は絶対に止めるべきである。

この種の議論に何と日本人は弱いことだろう。

カント流に言えば「分析的判断」と「総合的判断」を識別する力が日本人は弱いのじゃないかと感じている。だから「理の当然」とすぐに言い出すのじゃないかと思っている。危ないネエ・・・

すべての命題は、その命題が正しいかどうか、経験的検証を通して判定されなければならない。

近代科学の大前提に《経験主義》がある。実験が可能な時には実験をして命題の真偽を観察する。そうでないときにもデータを統計的に解析することで命題の真偽を検証する。正邪や善悪を、ではない。真偽を、である。偽であると判定された命題について、それが正しいかどうかなどを理屈を立てて論じるなど、頭の無駄づかいである。

より良い結果を志す《功利主義》を「目的のためなら手段を選ばない反倫理的思想」であると非難する人は多い。が、しかし、正しい前提から出発する空理空論を人が信じる社会では、結局のところ、暮らしを楽にし、不安をなくし、幸福な社会を実現するのは無理である。

信念などは役に立たないので持たないことにしているが、敢えていえば、これが小生の信念らしきもの、といえるような気はする。

なので、例え「差別」であるかのように外観は見えるとしても、それが社会的に良い結果につながるなら、それは社会的には良い政策であると。そう思うのだ、な。

そう割り切って、世界の変化に着いて行かないと、またまたガラパゴス化する失敗例を一つ増やすことになるだろう。何しろ「ワクチン・パスポート」や「陰性証明書提示義務」とか、「集団接種」、「強制検査」等々、今後、ありとあらゆる「これまでにないことの制度化」が進んでいくのは確実だ。日本は変わる世界に着いて行くことが大事である。

 

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