テニス・プレーヤーの大坂なおみ選手が開催中の全仏オープンの試合後記者会見を拒否したというので《世界中で》物議をかもしている。
いやはや、物議をかもすにもスケールというのがあるものだと感じ入ってしまった。
ところが、世間の受け取り方はかなりネガティブなものである。例えば、
大坂なおみが全仏オープンで義務付けられている記者会見を拒否する姿勢を示し、事実、一回戦勝利後、それを拒否したため、大会主催者側より約165万円の罰金と今後の出場資格停止の警告が発せられました。この行動、賛否両論あるのかもしれませんが、少なくともメディアから聞こえてくるのは大坂なおみに対する厳しい声が多いように見えます。(メディアを敵に回したので当然かもしれませんが。)
私はナダルやジョコビッチ、更に錦織選手らが大坂なおみへの違和感の声を上げる前、つまり、初めて報道を目にした瞬間、大坂なおみは判断を間違えたな、とつぶやいていました。
URL: https://agora-web.jp/archives/2051686.html
たとえばこんな意見が非常に多い — 大坂選手が何か「正しい判断」をしなければならなかったとすれば、どんな「正しい判断」をしなければならなかったのか、「間違った判断」をしたらダメなのか、その主旨がよく分からなかったのだが。
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仕事をしている人は、誰でもルールに沿って《正しい判断》をしなければならないのだろうか?
そもそも「進歩」というものはどのようにして生まれるのだろう?
そもそも「パワハラ」という現象の多くは、ルールを適用するという次元において、多々発生しているのではないだろうか?
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思うのだが、何か組織的ビジネスの現場で、ある種の行為、何かの受容がルール化されており、それが強要されている状態の下で、それが嫌でたまらない人が声をあげるとする。そうしたとき、世間は「パワハラ」を疑うものであるし、現にそうしてきて社会の風通しは随分よくなってきたはずだ。
複数の当事者がおり、一方が他方に何かの受容を強制できる状態をつくっている場合、どちらの側がどちらの側に行うかは分からないが、ほぼ必然的に(セクハラ、マタハラ、その他の一般的ハラスメントもそうだが)パワハラに該当する現象が発生することは、ここ近年の世界的現象であったはずだ。
それは嫌です!
と言う人が現実にいるわけであるから、それを強要してきたのは、いかにルールがそうであっても、それはパワハラではないか、ルールに問題があるのではないか、という議論をしてきたのが、最近の社会的価値観そのものではなかったのだろうか?
痛快なほどに見事な(メディア側の?)《ダブ・スタ》がここには見える。
《ルールの明文化》は、特にここ2,30年にめだつ一種の流行だが、一人一人の私的合理性がバランスする社会的な均衡状態があるなら、敢えてルールを明文化しておく必要はない。自動車が左を走るか、右を走るかは、放っておいてもどちらかに落ち着く。ルールは、交差点の安全を実現するための信号もそうであるが、同調ゲームにおけるシグナルとして機能するべきツールに過ぎない。ルールが現実に望ましいあり方で機能しているかどうかには、常に目配りが欠かせない。
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