2021年6月17日木曜日

コロナ禍による社会的混乱はロジカルであり必然かもしれない

コロナ禍の混迷で日本社会には様々な不満、不安が鬱積している。こんな事情は、ワクチン接種先進国では解消に向かいつつあるようだが、外国でも同じだと思われる。

不満と不安は、直面する問題の解決に手間取っていることが根本的な原因であることくらいは、誰にでも分かる。そこで、とりあえず政治家や官庁、その他公的機関にヤリ場のない怒りが向けられるのは仕方がないことだ。偶々そこにいるだけで藁人形のように怒りのターゲットになる気の毒な役回りの人がいるというのは歴史にはよくあることである。要するに、『政治家が無能なので、日本はダメなんだ』という罵詈雑言は、この1年間で大なり小なりどの国にもあったことだろう。

しかしネエ・・・と思ったりする。

確かに《有能な人物》に問題解決を任せるとすれば、日本にだって非常に有能な人物は多々いるはずだ。

しかし、公的権力を行使して感染症蔓延防止、経済再生に必要な政策を実施するとなれば、その担当者は政治家であるか、あるいは政治家が全ての責任をとって委任することになる。となれば、有権者(≒日本人の大半)が信頼し、賛同することが不可欠だ。ところが

有能な人物は必ずしも信頼されるとは限らない

この制約を本当に現代人は理解しているのだろうか?

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最近になって経済学畑で流行している認識だが

感染抑制・経済再生・行動の自由(=人権尊重)を全て同時に実現することは不可能である。

こんな《トリレンマ》が指摘されるようになってきた。

つまり、どれか二つを選べば、残りの一つは実現不能になる。日本は、感染抑制と行動の自由を尊重したから経済が犠牲になった。いわゆる「西側諸国」はそうである。他方、中国は感染抑制と経済再生を重視した。だから人権が犠牲になった。このように、三つ同時は実現不可能、故にトリレンマとなる。

これは新たなトリレンマであって、その昔は国際金融のトリレンマ

「資本移動の自由」、「為替相場の安定(=固定相場制)」、「金融政策の自由」の三つを同時に確保することは不可能である。

これは今でも大学の国際金融論や経済政策の授業で重要な出題範囲であると思う。

今回、新たに「コロナのトリレンマ」が提起されてきたわけである。 

Wikipediaにはこんなトリレンマも挙げられている:

グローバル化(国際経済統合)

国家主権(国家の自立)

民主主義(個人の自由)

例えば、世界市場にビルトインさせながら共産党独裁の国家機構は維持したいなら、中国は民主主義を犠牲にしなければならない。個人の自由を守りながら、グローバル市場の恩恵も受けたいなら、日本は国家主権をある程度まで犠牲にせざるをえない。こういう理屈だ。

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どの項目を重要視するかは、誰かが決めなければならない。それを決めるのは、政治的に有能な人物でなければならないが、しかしその人物が後の方策を立案するのに有能であるわけではない。人間は一般に

才あれば徳なし、徳あれば才なし

というのが一般的な傾向である。このジレンマを更に敷衍すると:

才能と道徳と勇気とを同時に有することは稀である、というより不可能である

こんなトリレンマになるかもしれない。才と徳の双方をもつ者は果断な勇気に欠けることが多い。才能と勇気にあふれるものは徳を欠きがちだ。徳があり勇気をもつものは才能がないものだ。

いずれにしても、あらゆるステージでトリレンマやジレンマに直面して、

あちらを立てれば、こちらが立たず

という状況が問題解決の現実である。

民主主義社会で、効率的に問題を解決するには、何かを犠牲にするという論理は確かにあるのだろう。ただ、この論理を日本社会がよく理解できるかといえば、大半の人は理解できないだろう。故に、問題が発生してから長く社会の混乱が続くのは、必然的であると言えるかもしれない。


 

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