2021年6月13日日曜日

一言メモ: ジャーナリズムとは「傍観者の仕事」なのか?

この何年かの毎日曜日の習慣は朝の「サン・モニ」である ― 少年時代の青春スターであった人物が今はワイドショー(?)のメンター(?)をやっているのであるから、齢をとるはずだ。

今日の話題は、アメリカの「フロイド殺害事件」を近くから撮影し、それをSNSに投稿して、事件を社会的に認知させる功労者となった女性にピュリッツァー賞が授与されたという報道だった。女性はその後の裁判でも出廷して証言を行った。

受賞者はジャーナリストではなく、たまたま近くにいた一般庶民であって、アマチュアもいいところだ。同じことが日本社会で発生した場合・・・どうだろう?『たまたまそこにいて撮影したという行為に権威ある賞を授与するのが正しい選択なのか? 何を評価して賞を授与するのか? その写真について議論を提起した発言者の方を高く評価するべきではないか?』等々の、あらゆる意見が殺到するのではないか、というよりそんな情景が目に見えるようでもある、こう想像するのだ。

何ごとによらず問題を解決する発端となった人物をフェアに評価しようとする点では多数の合意が確立されているアメリカ社会の健全な常識と健康を感じる。

多分、ありもしない「正解」にこだわらず、「意思決定」で割り切るプラグマティックな強みがこんな所にも表れているのだと思う。そういえば、小生が院生であった時分、大学の向かい側にある喫茶店で暇つぶしをしているときに、たまたま話しが実証的な計量経済学がめざしている目的になり、友人は『ただ役に立つならそれでイイってことだろ? ひどいヨ!なんて下らないんだ! そんな作業が社会科学なら、夕焼けが出てるから明日は晴れだって言うのとレベルは変わらないじゃないか! 真理を探究するって志はどこにあるんだよ!』と、まあ、その計量経済学を専攻している小生を相手に平気で言うのだから、潔いというか、変わったやつだというか、唖然・呆然・慄然の三然の状態に陥ったことがある。

よろず「正解」にこだわるのは、いま「俗悪番組」として批判されながらも人気の高い「東大王」もそうだが、《正解を覚える》ことに重点を置く、《日本的教育》に根本的原因があるのは間違いないが、「日本的経営」の低生産性を批判するマスコミ各社も「日本的教育」を自己批判する努力は、自らの高視聴率を捨てることにもつながるのか、まったくしていないのが、やはりダブ・スタに近い感覚なのだ、な。

それはともかく、サン・モニのコメンテーターである姜先生が

そこにいるのであれば撮影をするのではなく、暴行を止めるように声をなぜ上げなかったのか、ジャーナリズムが意識しなければならない問題は、やはりあると思います。

と、まあ、こんな趣旨の意見を述べていた。TVの情報番組もたまには的を射た発言を放送するではないかと感じた次第。

極端にいえば、殺害現場を目前に見て、声をあげるのではなく、スマホで撮影をしてからその動画をSNSにアップすることでも社会に貢献をすることは可能だ。それこそピュリッツァー賞をもらえるかもしれない。しかし、こんな行為が「勇気あるジャーナリズム」であるとすれば、ジャーナリストとは卑怯者の別称である。そんな理屈になる。

朝乃山関が某スポーツ新聞社の記者とつるんでキャバクラに行こうとしている現場を週刊誌記者に見られたそうである。スポニチ記者は、その週刊誌記者を恫喝して追っ払い(?)、予定通りキャバクラへ向かったとのことである。しかし、もし見つからなければ、週刊誌記者は二人を尾行し、自粛するべき遊興に耽る大関とスポニチ記者を写真に撮っていたに違いない。それで「イイ仕事」をしたことになるのだろう。

しかし、傍観して、特ダネにするのではなく、見つけたなら

自粛要請が出てますヨ。だめですよ、こんなことは!

と警告をするべきだ。こんな指摘もあってよいだろう。

確かに、健全な民主主義社会なら、こちらの指摘がより優先されるべきだろう。マ、詳しい事実関係は知らない。ひょっとして、「行かない方がいい」と警告をしたにもかかわらず、それを打ちやってキャバクラに行ったのかもしれない。それは知らないが、仮に《傍観民主主義》という言葉があったとすれば、それは古代アテネに生まれた《直接民主主義》とも違うし、近代国家がとっている《代議制民主主義》ともどこかが違っている。


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