2021年6月6日日曜日

覚え書き: 新実在論と普遍的価値の存在?

 もともとこんな風に考えている:

データを説明できる仮説は複数あるが、データを説明できない理論は嘘に決まっている。これだけは言える。「潮流」であるかどうかは、どうでもよいことだ。

だから、『こう考えるのが現在の世界の潮流です』と、堂々と語る人物は学問とは縁のない人。よく言えば、思想家、宗教家、政治家ということになるだろうが、要するに自らが信じている価値をただ主張している人である。ま、主張すること自体は自由であるから、現代はよい時代なのだ ― 主張だけで止めるべきであって、政治行動をして、特定の価値感を公衆に押し付ければ非民主主義的な抑圧になるので、要注意人物でもある。

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。それが「社会の潮流」である。分かりやすくいえば「世間の受け止め方」である。従順な人は「社会の潮流」に従うだろうし、反骨心あふれる人は「誰かの信念」に共感して、「これからの潮流」を主張しようとする。それだけのことである。真理を探究する科学者ではない。

投稿したのは去年の11月だが、 同じ主旨のことは何度も繰り返して書いているから(例えばこれも)、これこそブログの役立ちの一つなのだろうが、やっぱり自分が本来もっている観方なのだろう、と。特段「思想」というほどではないが、そう思う。

と思っていたが、最近ブレーク中のマルクス・ガブリエルに関して、次のような説明があった:

新実在論を理解するためにはまずは実在論というものがなにか、何をもって新実在論が「新」なのかについて問う必要がある。まず初めに、実在論とは存在するものを受け入れること、すなわち事実を事実として認めるということである。しかし、この考え方は時に有害なものを内包する危険性があるとガブリエル氏は示唆する。

目の前で起きている事実をそのまま認めるということは、事実から乖離して行動、発言している人間の存在を許容することを追認することにつながる恐れがある。そして、同時に異なる視点が共存することを是とする考え方を彼は相対主義と呼び、民主主義に対する脅威となりうると警鐘を鳴らす。

URL:https://agora-web.jp/archives/2051646.html

新実在論は、形而上学、構築主義と並列してマルクス・ガブリエルは述べているのだが、それによると、例えば

自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・

出所:マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)

生きている間に視えるにせよ、視えないにせよ、意識するにせよ、空想したりするにせよ、夢にみるものにせよ、一切合切が「事実」としてはあると、まあ雑駁にいえばこうなる。


すいぶん以前になるが、こんなことを投稿している:

そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。

この意味では、小生は『万物は流転する』といった古代ギリシアの哲学者に賛成するものだ。だから、変化が時間の中で生まれうるものである以上、「人間」にとっての「存在」とは「時間」に他ならないと考えているのだ。

「知性」も「思考」も時間の次元においてのみありうる人間の営為である。つまり「プロセス」である。そうである以上、プロセスに従って変化している何かがそこには「存在」していることになる。簡単に言えば、知性も思考も《現象》であって、《存在》と言うべきではない。《存在》は時間ではなく、空間の次元において使ってこそ意味が通る。・・・とまあ、小生はこれ以外の思考を行うことができない。ま、ここにこそ、構築主義の誤まりがあるのだと、新実在論者は指摘するだろうことは分かっている。

だから人間社会をとりまく《自然》の中で、善や悪といった《標識》なり《ラベル》が人間とは関係のない状態の中で認識可能であるとは想像できない以上、人間社会の倫理や価値は約束事、つまりは一つの時代の中で意味をもつ歴史的な潮流であって、決して法則ではない。民主主義も同じ、現代という歴史的断面に現れた一つの価値である、と。であるからこそ、民主主義の将来もまた将来予測の対象となりうる、と。そんなことを書いて来たわけだ。 

人間社会における倫理的価値を論じるなら、蜂の社会、蟻の社会に存在している倫理的価値を考えてもよい。おそらく、(人類とは無縁だが)そんなものがあるのだろう。ひょっとすると、蟻や蜂という種族に埋め込まれた遺伝的特性かもしれない。だとすれば、何かが存在していて、そんな行動特性が現象として現れている。こう考えられる。もしそうなら、蟻の倫理、蜂の倫理という言葉で指示される客観的存在があることになる。が、それは蟻の特徴、蜂の特徴であって、人間の特徴ではない。また反対に、人間社会の倫理的価値は蜂や蟻という生物には意味のない事柄である。時空を超えた普遍的価値としてあるのではない。というより、《価値》という言葉自体、人間を前提した言葉で、ヒューマンなものであって、人間を超えた自然な、ナチュラルな意味までを持つ言葉ではない。

どうやら今日はかなり否定的なことを書いたようだ。


そういえば、思い出したのでついでに加筆しておきたくなった。最近、触れることが多い三島由紀夫の日記の昭和30年8月4日に以下のような記述がある。最後の個所である:

・・・とにかくわれわれは、断固として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばならぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のほうが(誤った理性であろうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。

あらゆる事実を受容すると言いながらも、(明らかに)有害なものを警戒するという姿勢は、結局のところ何を受容してよいかというスクリーニングを誰が担当するのかという段階で、21世紀の中国共産党とさして変わりがない思想になるのではないか、そう思ったりもするのだ、な。

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