2021年6月21日月曜日

ほんの一言: 五輪問題は、結局のところ《外交>内政》と考えるか否か、になるか・・・

 来月開催が(ほぼ)確実になってきた東京五輪。開会式の観客上限がこれまで説明されてきた1万人ではなく、IOC関係者やスポンサーも上乗せした2万人になる見込みだと言うので、また一騒動になっている。


開催機関(IOC、東京都、実行委)と日本政府と、開催サイドにいる関係者の誰も口にしないが、

パンデミック禍のさ中にあっても、東京五輪を曲がりなりにも開催することがプラスであると。そう考える国際社会(の一部)が現にある。

つまり、東京五輪開催はここに来て文字通りの《国際外交戦略の選択肢》になってきた。来年の北京冬季五輪を考えると、ぜがひでも東京五輪を成功裏に開催しておくことの意義は大きい、と。

どうもこういうことではないかなあ・・・と邪推しているところだ。


だとすれば、仮に東京五輪がきっかけになり、ワクチン未接種者の感染が拡大し、結果として重症者数、死者数が増えたとして、それもまた「国際外交」、つまり「日本の国益」を追求する中での「犠牲」として受け入れる。上層部は(雰囲気として?)こんな風な思考回路で考えているのではないか。そんな気もしたりするのだ、な。

「国」と言ってもそんな名前の人間がいるわけではない。「社会」と言っても、そんな名前の人間が生きているわけではない。すべては観念か、せいぜいが法的にそう決めている人工的構築物であって、自然に実存するものではない。それでも、国で仕事をしていると、「国の利益」や「社会の利益」を語るようになるもので、そんな感性はやったことがあるので小生も分かる。

しかし、詰まるところ、そんな利益は幻である。国の利益、社会の利益は誰かの利益のことである。国益を求めるための犠牲は、言葉のマジック、マインド・コントロールの所産であり、犠牲が出るとすれば単なる犠牲でしかない。

だから、説明しにくいのだと思う。

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