2021年6月1日火曜日

徒然: 「器」ってものは確かにある

 器が大きい、器が小さい、と言う表現は、ずっと以前ほどではないが、今日でもよく使われている。

小生は、典型的な「器の小さい人物」である。大雑把な傾向があり、本質論を好むのだが、仕事柄身に着いた性癖なのだろうか、微細な箇所が気になり、転換点、変化点を検知する作業が大好きである。

微細な箇所が気になるというのは、幼いころからそうであったことを思い出す。先日もかかりつけの医者から言われたが、性格的にも、体質的にも《繊細》なのだろう(と思う) ― その割には、人を接遇することが大の苦手で、大広間の大宴会が嫌いで、前後左右の人がどんな話をしたいと思っているのか、その辺の感度が鈍いのは矛盾していると自覚しているが、これも人間本来矛盾の塊であると開き直っている。

「大宴会が嫌い」と書いたが、数人規模の飲み会は実は大好きで、もっと少なく2、3人で馴染みの小料理屋に腰を落ち着けて、深夜2時か3時頃まで座談に興じるなどは、いくらやっても飽きることがない。

つまり、小生は《四畳半を明るくする程度の器》である。もっと謙虚にいえば《行燈くらいの器》である。とても大広間を明るくする光度などはなく、まして世間に影響力を行使するような大きな器などとは無縁の人間だ。

企業のトップは、やはり器の大きな人物が就いた方が、会社はまとまるであろう。大学の学長もそうである―何事にも異論を出すことが自分の役割だと心得ている人物が多いのでそのぶん器は大きくなければならない。

この理屈でいえば、政治家もまた同じである、Statesmanという位だから、国家規模で統合の要になりうる人物でなければならない。Google Dictionaryには

statesman: a skilled, experienced, and respected political leader or figure.

と説明されている。これがWebsterでは

 a wise, skillful, and respected political leader

二つの共通集合をとると、政治技術(Skill)と尊敬(Respect)、指導者(Leader)が一流の政治家がもつべき特性であることが分かる。

う~ん、これだけ完璧な人物なら「器が大きい」ことに疑いはない。

というか、寧ろ、とっている政治技術がいかに陰湿で、謀略的であっても、器の大きさによって尊敬され、であるが故に指導力をもつ。因果関係はこうなのであろう。

その政治技術がいかに謀略的であっても、規模雄大であれば器の大きさを感じて人は感じ入る、細かなことで謀略と密談を繰り返して道を開こうとする、こんな風だと周りの人は才能よりは小さな人間をそこに見ることになる。

とすると、志が雄大であれば汚い政略や謀略も真っ当な方法に見え、小人物が同じことを真似てみても、ただ狡いとしか感じない。

この辺に、功利主義的な社会哲学と、経験に先立つ観念論的な倫理哲学と、海流が互いに混じる境界域がありそうな気もする。

確かにそんなところはあるネエ・・・浮世は舞台、人生は一場の芝居、主役と脇役ってえものが自然とあるのサ。この1年のコロナ禍で色々と分かってきたことも多いのではないだろうか。 

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