2021年9月12日日曜日

覚え書き: 「政府」と「マスコミ」と。二つの非生産的組織が過剰に強すぎるのが問題だ。

ずいぶん以前、新型コロナが最初に日本に上陸した直後の頃であったが、経済問題としては基本的観点は初めから分かりきっていたわけであって、例えば以下のようなのがある:

経済環境の激変で必要になるのは、資源の再配分である。資本、労働、マネーなどの生産要素を超過供給市場から超過需要市場へとシフトさせなければならない。その誘因としては第一に価格メカニズムがあると考えるのが標準的な経済理論である。が、今回の需要逼迫市場である医療サービス、新薬開発市場は資格、許認可が厳しい規制分野である。厚労省の「縄張り」である。超過需要(=24時間操業、疲弊、待ち行列)と超過供給(=閉店、休業、失業、etc.)は解消されないまま放置される可能性が高い。政府の判断が遅れればそれだけ資源配分の歪みが放置され、日本経済が毀損される仕組みがビルトインされている。

「あらゆる経済問題を解決するのは政府ではなく市場である」と語ったグリーンスパンを思い出すべき国としてまず日本が挙げられるかもしれない ― リベラル野党は飛び上がって反対するだろうが。

イデオロギーから自由になり、理論的に考えれば、これが最重要な経済的視点であるのは、経済学を勉強した人であれば、誰もが合意できる点だと思われる。

とにかく昨年の2月から4月、5月にかけてコロナ禍の中の経済問題について、多数回投稿している。これなどはかなりエモーショナルというか、強い情念がこもっている感じがする。

日本では(高潔な)政治家がとにかく「偉く」、TV画面を賑わすのである。経済界の大物が政治を語り、国家を動かすという情況は、多くの日本人にとって我慢ができない。現在の日本はなるほど民主的だとは思う。が、どこか真の民主主義と違っているのではないか、とも感じる。そう感じるのは、政治家のフィクションに喜悦し、ビジネスマンの事業欲を卑しむ、山の彼方に夢をみたがるそんな国民性を感じてしまうときである。現実よりも理想を尊いと感じる世界観は、民主主義の現実とは本当は相性が良くないのじゃないかと、小生は考える。マア、「誰のおかげでメシを食って行けてるのか?」と、そんな冷めた現実感で、ビジネスよりも政治に期待する「国民感情」のことを耳にするにつけ、自分の家族よりも人様を本気で大事にするつもりなのかと、何かバカバカしい思いを禁じ得ない今日この頃であります。

公私の私より公私の公、と。そんな国民精神の中で、イノベーションを拡散させていこうというのは、よほど公私の私を理解できる政治家でなければ、やっていけますまい。ジャパニーズ・パラドックスかなあ、これは。何度も挑戦しながら、解決に失敗してきた日本経済上の難問だと思う。

最近になって、Wall Street Journal(日本語版)がこんな記事を載せている。短いので記事全文を引用しておきい:

 米連邦準備制度理事会(FRB)が8日公表した米地区連銀経済報告(ベージュブック)によると、新型コロナ変異ウイルス「デルタ株」による感染再拡大を受けて、経済回復が夏季に鈍ったとの認識が示された。感染への懸念から、外食や旅行を控える動きが広がったという。 

 また、自動車や住宅販売など、一部のセクターでは供給制約や人手不足も足かせとなったとしている。 

 報告書は「経済活動の減速は、大半の地区で外食や旅行、観光(への需要)が後退したことにおおむね起因しており、デルタ株流行を巡る懸念を反映している」と指摘した。 

 雇用主は引き続き人材確保に苦戦しており、業況の重しとなっている。企業側は賃上げや特別報酬、柔軟な勤務体系などを提供することで対応している。報告書によると、一部の地域では、デルタ株の感染拡大を受けて、職場での勤務再開を延期した。 

 また、サプライチェーン(供給網)の混乱や労働者不足を背景に、物価上昇ペースは引き続き「高止まり」していると指摘した。一部の企業からは「向こう数カ月に販売価格の大幅な引き上げ」を想定しているとの報告が寄せられたという。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/u-s-economic-growth-slowed-over-the-summer-due-to-delta-variant-feds-beige-book-says-11631135999

今夏のデルタ株感染拡大で景気拡大ペースが鈍化したことの報道でこれは予想されていたことだ。

読んでみると、「経済活動の減速」が大半の地区で広がり、と同時に「雇用主は引き続き、人材確保に苦戦しており」、「賃上げや特別報酬、柔軟な勤務体系など」を提供しながら乗り切ろうとしている。

このような「チグハグした経済状況」は日本もヨーロッパやアメリカと同じである。コロナ禍の中で進行しているのは《跛行性が進む経済状況》である。こうなることは最初からミエミエであるわけだ。

***

この当たり前である《チグハグした経済動向》は、日本のマスコミは今なお問題意識としても持っていないことは明白である。TVワイドショーなら『いったい現在の日本経済は不況なのか、好況なのか、どちらの見方が正しいのでしょう?』などと言った風の、例の「語呂合わせ」のような意味なく、阿保らしい解説をしそうであるし、遠からずそんな番組が目に入ってきそうでもある。そうして、経済問題を議論する専門家に対して、「言っていることがよく分からん」といった風の不信感が醸し出され、結果として政府と専門家に不信感が広がるのである。

アメリカの場合は、連邦政府は公権力を行使してワクチン接種義務化に乗り出している一方で、解雇規制はとっくに規制緩和されるなど、市場メカニズムも働いており、労働資源は十分に流動的である。一定期間後にはコロナ禍の中の経済問題を解決できていく、そのための体制が出来ていると思う。

激しい環境変化(=人とは無関係である)と環境変化に対応した経済構造調整(=人間がするべきこと)と。解決には、市場メカニズムを活用するのを基本にしながら、政府は政府の担当するべき問題にスピーディに対処していく。これ以外にはないわけで、アメリカは日本人である小生が遠くから観ていても、そう思わせる情況がしっかりとある。ここが実に羨ましいのだ、な。イギリス、EUも政府がしっかりと政府が担当することを実行している。

***

結局は、政府が決めるべき事柄を決める、それが出来るというのは、一部国民の非難や一部マスメディアの非難を、毅然として堂々と引き受ける《勇気》に帰着するのだろう。

その勇気とは、詰まるところ「国民が選挙で政府を選んだ」という自信なのだろう。選ばれた政府には行政義務があり、選んだ国民にも信頼責任がある。

マスメディアは国民が選んだわけではない。しかし、(建前としては)誰の保護も受けない民間ビジネスとして成立している。一貫した価値理念とロジックを通せば、自由に批判する自由が保障されているのであり、顧客はだから信頼する。

アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、ここが「輸入文化」ではなく、身についた「真の文化的伝統」として《民主主義》がしっかりとある。この強みが伝わってくる。


とすれば、《日本的な弱さ》があるとすれば、《勇気のない政府》と《知力のないマスコミ》。この二つの要素が「日本の弱み」に含まれることは、もはや誰の目にも明らかな事実になりつつあるのではないか。


政府、というより国会、政党を含めた広義の「政治関係部門」とマスメディアと。いずれの部門も日本の付加価値生産においては非生産的部門である。なぜなら、日本のGDP(=付加価値合計≒所得合計)の大半は、民間の生産活動(=営利活動+非営利活動)、つまり民間ビジネスによって形成されているのであって、政府部門は現SNA体系においてこそ政府サービス生産者として認知されているが、元来はゴルフクラブや町内会のような擬制的かつ寄生的な存在として統計処理されていた。マスメディアが付加価値の生産において極々僅かを占めるに過ぎないのは明白であって、しかも長期的な販売、利益の低下トレンドは、もはや生産活動としての評価をこの社会において失いつつあることが、そこで示唆されているわけだ。政府もマスコミも、「能率」や「効率」、「コスト・パフォーマンス」という言葉が大嫌いな仲良しグループであるのは確かなようだ。

この二つの極めて非生産的部門が、日本の民主主義の実現において、世論に対して過剰に大きな影響力をふるっている。ここに《日本的問題》の本質がある、と。どうも観ていると、こんな風に感じてくるのだ、な。


我ながら、日本というのは、本当に不思議な国だ。生産的な組織が評価はされるが世間では影響力をもたず、非生産的な組織が評価されないにも拘わらず人々の注目を集める。元来は、能率がよいハイレベルな組織が社会をリードし、頑固でノロい組織はバカにされるものだ。そうなっていない。常識とは「真逆の国」、それが日本であるような感覚がある。

0 件のコメント: