2021年9月20日月曜日

断想: 「幸福」と「快楽」について

今日の標題はまるでモンテーニュの『随想録/ Les Essais』のようだ。

漢の武帝とされる有名な一句に

歓楽極まりて哀情多し

というのがある。

歓楽、あるいは快楽は一時的な感情であって、必ず醒めるものであるというのは、ずっと昔から分かりきっていたわけだ。必ず醒める「快楽」に対して人生最高の目標とすべきは「幸福」である、と。古代ギリシアの哲学者以来、これが強調されてきたのは、このためである。真の価値は、持続的かつ永遠であるべきだ、というのが根底にある。

快楽と幸福との混同と同じような組み合わせは、充実と幸福との違いであろう。

目標を自ら定めて、日々に努力する過程は幸福に至る途である、というより努力する毎日こそ幸福そのものである、と。そう考える人は多いのだと思う。まして、努力の末に目標を達成したときの充実感は、幸福感そのものであると感じる人が全てだろうと思う。

しかし、この歳になって思うのだが、充実というのは、つまりは満たされていない自分をずっと自覚していたということだ。満たされていないからこそ努力をする。満たされていないにも拘わらず、そのときに幸福であるというのは、そもそも矛盾している話しである。

若いころから、何度もその時々で目標を決めては、スケジュールをたてて、その通りに実行することによって最初の目的か、それに近いところまで到達するのは、人生そのものじゃあないかとさえ思ってきた。

要するに、小生は常に、何かが欠けている感覚があって、欠けているものがほしい。だから頑張る。そんな非充足感が行動へと駆り立てていたのだ、な。そんな小生が幸福であったはずはないのだ、な。

満たされていなかった自分が努力のかいもあって満たされた。なるほど充実というのはそういうことだが、人間は欲が深い。充実感もやがて醒めて、次の目標を定めることになるのではないか。そうして人は、渇きを覚え、つねに満たされない感覚にムチ打たれ、行動を続けるのではないか。


コロナ禍がやって来て、行動の量が減ることになった。旅行も減った。ところがカミさんは何の不満ももらすことがない。そういえば、小生も色々なことを断念させられて、だから不満が高まるというわけでもなく、むしろ「こんな毎日でもいい」、「あと2年、3年もこんな毎日が続くとしても、それはそれで充足している」、こんな心持が現に胸のうちにある。

そういえば、

幸福とは足るを知ることである

この言句ほど、いまでも書籍のタイトルを賑わせている言葉はない。誰が言い始めたことか分からないくらいだ。 

確かに、自ら足る「自足感」とは、真の幸福とは表裏一体の心的状態かもしれない。小生は、いま現時点において、幸福なのかもしれない。

しかし、今朝になって、ふと気がついたのだが、この自足感も持続的、かつ永遠のものではない。

確かに、あと5年も6年も行動を規制され、やりたいことが制限されるとしても、何かがし足りない、何かを満たしたい、という感情からは免れるかもしれない。

しかし、生あるものは寿命がある。いま自足していても、いつかは終わる。終わることを知っているから「不安」がある。不安を自覚している人間は、既に幸福ではない。


生命がある存在から生命のない存在へ移り変わる「死」をもって、持続的かつ永遠に幸福である状態と考えた哲学や宗教は、だから人を魅きつけたのだろう。涅槃と言っても、極楽往生といっても、同じである。

そもそも地球に「生命」はなかった。生命は非生命、つまり命をもたない物質から誕生したのだから、モノの世界に命の源を洞察する観点は確かにずっと昔からあったのだろう。

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