2021年9月16日木曜日

ホンノ一言: ネット上の中傷コメント厳罰化について

法務省が、特にネット上での中傷・侮辱コメントを念頭において、侮辱罪厳罰化を進める方向だ、と。

これまでは「表現の自由」、「信条の自由」、「内心の自由」という建て前から、個々人の文章表現の不適切さを理由に法で刑罰を課すという処理はなるべく忌避されるのが、日本社会の傾向であった。が、どうやら流れはハッキリと変わってきた。「内心」というより「外面」、「対外表現」そのものに正邪の判定をする。逆向きへの流れが強まりつつあるようだ。

「表現の自由」という理念には、「自由であるが故に責任も伴う」という暗黙の了解が裏側にあるのだが、「自由は基本的人権の一つ」、「自由は尊重されるべし」、「自由主義社会」という社会理念そのものが日本では昭和20年敗戦早々の輸入文化であったことから、この「責任が伴う」という考え方に対して、どうにも抵抗感があったのだろうと思っている。

自らの自由意志による表現に自らが責任をとるのは、自らの行為に責任をとるのと同様、当たり前の原則であって、これが共有される理解として社会に浸透していくきっかけになれば幸いだ。

人に傷害を与えれば刑事事件になる。同様に、自分の言葉やその他表現行為によって他の人の身体に障害が生じれば、例えそれが「身体的行動」ではなく、「言葉による表現」であったとしても、刑事事件を構成するはずだ、というのが当然の理屈だろう。

一つ大事なのは、具体的な人物における損害発生の特定が必要である点だ。例えば、「政府」や「企業」という法人が「政策遂行上の支障になる」とか、「ブランド価値を毀損した」などという抽象的な理由で「表現の自由」を制限することは「ゆゆしき問題」である。

これが小生の立場だ。

いろいろ論点はあるが、やはり文章表現の不適切さが公権力による厳罰化の対象になるという段階に進んでしまったのは、現世代の日本人自らがまいた種とはいうものの、社会全体としては明らかな《退歩》、《劣化》になるわけで、これまた当然の指摘である。


特にネット上の粗暴なコメントについては以前にも投稿したことがある。そこでの要点は以下のようなものだった:

事前にネット・マナーを厳格に守らせる<事前指導型>ではなく、<ネット事故>が発生した際に加害者に対して<事後的処罰>を講じるのが効率的である。

たとえば、事件が発生した直後に過渡に攻撃的な投稿を検出するのは、スパムメールの判別にも似た作業であるので、AI(人工知能)を活用すれば瞬時に完了する。攻撃的なコメントを寄せたアカウントは一定期間(1か月、3か月、1年間など)停止する。これ位のことは全て自動的に一瞬のうちに出来ることだ。

幾人かの悪質ユーザーが一人を攻撃する場合は、その人が悪質なユーザーコメントをブロックすればよい。しかし、多数のユーザーから攻撃される場合は個人が対応するのは不可能だ。その場合は、プロバイダに攻撃の対象になっている事実をただレポートすればよい。そうすれば上に述べたプロセスが自動的にスタートする。これだけで相当の抑止効果が期待できる。


もちろん、極めて優秀なAIを活用する場合でも、どうにも検出できない中傷・誹謗もありうる。その発言が自動的にハラスメントには分類できない表現もある。

例えば、ある女性マラソン・ランナーが競技結果を報告した投稿に対して、

ほんと、お綺麗で優雅で、まるで帰りを急ぐシンデレラのような走り方ネ!思わず見入ってしまいました。まるで女王様のようでございますわ。思わずマリー・アントワネットが再びこの世にお生まれになったように感じましたのヨ。オホホホ・・・

こんな風なコメントがあるとする。これを意地の悪い中傷コメントとして分類できる《分類器》など、どれほど人工知能が進化しても出ては来ないであろう。ホメながら侮辱する微妙な言い回しは、まるで生粋の京都人の感覚をも思わせる所があって、人間特有のデリケートな文化的感情に基づくものであって、こんな感覚はそもそも《知能》とは関係がないからである。腹に隠した侮辱の意図が伝われば侮辱になるし、反対に相手が鈍感で言葉通りにホメられたと勘違いすれば、それはそれで「お馬鹿さんやなあ」と他の人と笑いあえばよいのである。こういう高等テクニックが仲間内では可能である以上、AIは愚か、人間が審査するとしても、侮辱を侮辱だと指摘するのは、本当は極めて困難な作業なのである。


とはいうものの、単純シンプルで粗暴な中傷、誹謗などが津波のように押し寄せる事態が、解決するべき問題だと割り切るならば、実は今でも大半のサイト運営企業には技術的に対処可能である(はずだ)。

今回の厳罰化検討は、そんなコメントを書き込む個々人というよりは、運営企業に対する警告として働くだろう。



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