2021年9月26日日曜日

ホンノ一言: 内親王の婚談でなぜ激論になるのか? さっぱり分からヌ

秋篠宮家の眞子内親王と小室圭氏との婚談がいよいよゴールインする塩梅になってきた感じで、近々、新夫の小室氏も一時帰国するということだ。

ところが、

こうした反対派の批判にあるのは、眞子内親王の「公」に対する「私」の優先や、「結婚」ゴリ押しに象徴される皇室の圧倒的な権力と政治的な影響力の行使が、敗戦後の昭和22年(1947年)に制定された日本国憲法が明示した天皇と皇室の公的権力の剥奪に違反し、民主主義を破壊しているという懸念である。 

URL:  https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67062

先日、ネットのとある場所で見つけたのだが、これに類した反対意見は「世間で意外に多いんじゃないかなあ」と、カミさんも言うのだ。『なんか分かるような気がする、やっぱり嫌だもんね』などというから、小生、ビックリだ。

それにしても、 上に引用した文章も論理はメチャクチャである。

眞子内親王は「公」より「私」を優先しているというのだが、一方で日本国憲法では天皇と皇室から公的権力が剥奪されているとも言っている。公権力が剥奪されているのだから、結婚が公権によるごり押しであるはずがないわけだ。それと、ロジックをいえば、内親王は先ずは皇籍を離脱して民間人となり、一時金も辞退したうえで、改めて自らが選ぶ相手と自由に結婚しようとすれば、これまた法には適っているのであり、誰もそれを止める権限はない。止める権限がない以上、公的な意味においても、何ら問題ではない。

皇室に関係する人物の「望ましからざる結婚」としては、やはり100年前の『柳原白蓮事件』を連想せざるを得ない。NHKの朝ドラ『花子とアン』を毎回楽しみにしていたのも、その事件がメインストーリーの一部であったからで、「NHKも変わって来たなあ」とつくづく感心したものであった。

白蓮は、大正天皇の従妹で皇族ではなかったが、今回は内親王であるから、今回の方が衝撃度は高いとも思われるが、当時の柳原白蓮は九州の炭鉱王と夫婦の契りを結んだレッキとした「人妻」であり、その白蓮がこともあろうに若い左翼活動家・宮崎龍介と不倫のうえ駆け落ちしたのだから世間は吃驚仰天したわけだ。

当然、世間はその奔放ぶりに憤り、皇室の堕落、上層階級の腐敗に唖然としたのだが、それでも柳原白蓮・宮崎龍介が世間から抹殺されるなどという進展にはならず、賛否両論があふれかえる中、九州の炭鉱王と白蓮は正式に離婚し、白蓮は歌人として、宮崎は弁護士・社会運動家として仕事を続けた。

一方、今回の眞子内親王の結婚は何の問題もない。障害になっている「借金?」も本当にそれが「借金」であったとしても、世間ではありがちなことであり、貸主が返済を求めれば、(返済請求を繰り返し反復してもいなかったようで既に時効で消滅していると思われるが)求めに応じて金銭を渡せば、それで終わりとなり、なにも論評するべき余地は残らない ― まあ、亡くなられた父、祖父母に関して不透明な事情があるようで、普通一般であれば、「そんな家はおよし」という向きも多いだろうが、それでもその事情をもって本人二人の意志を押さえ込む理由にはならない。

こんな理屈は、戦前も戦後もなく、男女について当たり前の理屈であり、憲法がどうとか、法律がどうだという話しにはならないし、そもそも男女の恋愛に憲法(!)を持ち出して云々するなど、徳川時代じゃあるまいし、《野暮の骨頂》で愚かしい限りだ。

イギリスでも、100年ほど前になるが、エドワード8世の《王位をかけた恋》でイギリス社会全体が騒然となっていた。いまのエリザベス女王の父君にあたるジョージ6世の兄である。

Wikipediaから要点を引用すると次のようである:

エドワード8世はウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、立憲君主制への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、ノイローゼに近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、1936年11月にエドワード8世の側近である個人秘書のアレグザンダー・ハーティングを呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。

この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。イギリス国内では、7日頃からエドワード8世がウォリスとの結婚を取り消すことを発表するだろうとの噂が流れていたが、9日の夜頃に一転して、国民の間でも退位は確実との情報が流れて、国内には宣戦布告をも上回る衝撃が走ったといわれている。12月10日に正式に詔勅を下し、同日の東京朝日新聞をはじめとする日本国内の各新聞社の夕刊もこのニュースをトップで報道した。同日午後3時半に、ボールドウィン首相が庶民院の議場において、エドワード8世退位の詔勅と、弟のヨーク公が即位することを正式に発表した。

当時のボールドウィン英首相が『(あの女性との)結婚の意志を貫くつもりなら退位せよ』とせまった様子が伝わってくる。

もしいま、眞子内親王が自身の意志を通そうとして、自らが一時金を辞退したいと伝えるのではなく、内閣総理大臣の菅さんが『世間から理解を得られないため一時金はお出しできません』と言ったとすれば、世間はどう反応するだろうか?

日本社会は、形式はどうであれ、実質的には現にこういうことを実行しつつあるわけだ。

我ながら、いまの日本人っていうのは、器が小さいネエ

そんな感想だ。 

退位したエドワード8世は「亡命」とほぼ同様の状態で大陸に脱出し、最後にフランスに落ち着き、「ウィンザー公」の称号を授与され、生活費は英王室から支給されることになった。


まあ、いろいろとこの種の話はある。いずれにしても、小生の感覚にすぎないが、たかがこの程度の事で「今回の結婚話は憲法違反だ」などという話が出るようでは、民主主義の基盤となる「国民意識」のレベルにも疑問符がつくことになるのではないか、と。そう思うのだ、な。誰かが言ったそうだが

昔は「国体」、いま「憲法」

確かに、

〽意味内容はわからぬが、呪文のごとく、魔のごとく・・・

神性を帯びた言葉があるというのは、社会的には危ないし、また愚かな証拠である、な。 

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